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第20話 忘却の扉
中村は歯を食いしばったまま、しばし動かなかった。
その間にも、赤い女の足音が「ぴちゃ……ぴちゃ……」と床を濡らしながら近づく。
「時間がない!」
私の声が反響し、冷たい空気を震わせる。
中村はゆっくりと顔を上げた。
「……記憶を捨てる」
その言葉は、諦めとも決意ともつかない響きだった。
すると、扉横の鉄板が光り、錆びついた文字が赤く染まった。
赤い女が口の端をゆっくり吊り上げ、細い腕を中村の額へ伸ばす。
「やめろ……っ!」
私が間に入ろうとした瞬間――冷たい風が吹き抜け、中村の目が虚ろになる。
「……お前、誰だ?」
その声に、胸の奥が凍りついた。
中村の視線には、もう私の名前も、過去の記憶も映っていない。
扉が重く軋みながら開く。
その先は、霧に包まれた長い廊下。
赤い女はすでに姿を消していた。
私は中村の肩を掴み、「行こう」と促す。
だが、彼は一歩下がり、まるで初対面の他人を見る目で私を見つめていた。
――代償は払われた。
だが、その犠牲は想像以上に重かった。