第1話 夜勤明けの訪問者
午前六時、夜勤明けの空気は妙に軽い。
介護施設「夕映えホーム」の廊下を、俺――早川トオルはゆっくり歩いていた。
消灯後の静けさがまだ残る館内は、朝の光が差し込むまでの短い中間地点のような時間だ。
記録をパソコンに打ち込み終え、休憩室のドアノブに手をかけた瞬間――。
不意に、玄関の自動ドアが開く音が遠くから響いた。
「この時間に来客?」
思わず足を止める。早朝の訪問は、急な入居者の家族か、医療関係者くらいのものだ。
何気なく覗いた玄関に、その姿があった。
――斎藤。
五年前、同じ介護現場で働いていた元同僚だ。
俺より二つ年下で、笑い上戸だった彼は、ある出来事を境に突然施設を辞めた。
連絡も途絶え、二度と会うことはないと思っていた。
だが今、彼は利用者の車椅子を押しながら、受付で職員と何やら話している。
その横顔は、記憶より少し痩せ、目の奥に深い影を落としていた。
気づけば、俺は玄関まで足を運んでいた。
「……斎藤?」
名前を呼ぶと、彼はゆっくり顔を上げ、驚いたように目を見開いた。
「……トオルさん」
かすれた声。
その一言に、五年前の夜の出来事が胸の奥でざわめき始める。
「久しぶりだな。どうして……」
言葉の途中で、彼は小さく首を振った。
「後で話します。今は、この人を部屋まで」
そう言って、彼は利用者を押して廊下を進んでいった。
残された俺は、胸の奥に重い塊を抱えたまま、ただその背中を見送るしかなかった。
――五年前の、あの消灯後の出来事。
口にすれば、もう戻れない気がする。
けれど、どうして今になって彼が現れたのか。
答えを知るまで、この施設の静けさはきっと戻らない。
廊下の奥で、車椅子のタイヤが静かに回る音が響いた。