最後のリング (コメディ)
先月、三十歳の誕生日を迎えたばかりの、ヒポポビッジは頭を悩ましていた。
実のところ、彼の職業は格闘家なのだが、トレーニングコーチからそろそろ「引退はどうかと……」、昨日の練習後にもちかけられたのだった。
並みの選手なら、コーチからそのようなことを進言されたら潮時だと思い、素直に辞める決心がつくかも知れないのだが、彼の場合はいささか事情が違うのであった。
なぜなら、彼はこれまでに一回も対戦相手に負けたことがなくチャンピオンだからである。
それなら何故コーチは引退を促すようなことを言ってくるのかと言うと、コーチ曰く、格闘家たるもの強い時にやめてこそ価値があるのだそうだ。
その方が、負けたことのない王者として後世に語り継がれる伝説の男になれるとのことである。
確かに、コーチの言うことも分からないでもないが、まだまだマット界で活躍できるのにと、思う気持ちもないと言ったら嘘になるヒポポビッジなのだ。
だから、彼は苦慮するのである。続けるべきか、引退するべきかと……。
そんなことばかり考えていたある日の事。
ヒポポビッジは、自身のファイトマネーで建てた豪邸のリビングである黒い物体と遭遇してしまい固まっていた。
そいつは、黒光りしたボディーを持ち、頭から出た二本の触覚を小刻みに震わせながら、リビングの白い壁にへばりついていた。
「コ、コックローチ!」
思わず、物体を見た瞬間に叫んでしまうヒポポビッジ。
その声はまるで、親の仇か、因縁の対戦相手を呼ぶかのごとくに危機迫るもの。
コックローチと呼ばれた生物は、彼の声に反応してか、俊敏な動きを見せ壁を30センチほど移動した。
その動きを見て、ヒポポビッジは「早くなんとかしなければ」と気持ちが焦ってしまう。
一緒に住んでる祖母の話では、見つけた時は殺しておかないと、類まれなる繁殖力で数を増やしてしまうと常々聞かされていたからである。
ヒポポビッジはコックローチの動向を確認しながら、周囲を見渡し叩けるものを探した。
すると、都合のいい事に、テーブルの上には格闘技マガジンが置かれていた。表紙には対戦相手をKOしてる彼の勇姿が映ってるものだ。
すぐに、マガジンを手にとると、雑誌を丸めるヒポポビッジであった。
そして、ゆっくりと壁で触覚を動かすコックローチに近づいていく。
しかし、いざ叩ける位置まで近づいてから、ヒポポビッジの動きはまた止ってしまった。
一撃でしとめないと厄介なことになると、彼の闘争本能が警鐘を鳴らすからである。
万が一、攻撃をかわされると、奴は間違いなく逃走してしまう。
しかも、もしかしたら彼の顔面に向って来るかもしれないのだ。
そう、コックローチは横の俊敏な動きだけでなく、縦に飛ぶことも出来る奴なのだ。
そのことは、以前にしとめ損なった事で立証済みのことなのである。
故にヒポポビッジは慎重にならざる得ないのだ。
そのような状況の中、対峙する両者。時間だけが無情にすぎていくのであった。
そんな両者動きが無く、膠着した展開の中、状況に変化が見られた。
それは、「何しとるんじゃ、ヒポポビッジ」と祖母の声が聞こえたからだ。
「ばあちゃん。シィー、静かにして。コックローチがいるんだよ」
「早く始末しな」
すぐに、状況を掴んだ祖母は小声で囁く。
祖母に促されたヒポポビッジだったが、やはり叩き殺すことを躊躇してしまうのだった。
正直、失敗してしまったことを考えると、動けないのである。
「まったく、意気地のないのだから……。それでもチャンピオンかい?」
何も出来ない、祖母は見かねてコックローチに歩み寄っていった。
「ばあちゃん、ダメだよ! そんな大胆に近づくと、コックローチが……」
「何言ってるんだよ、お前は」
祖母は、ヒポポビッジの意見も聞かずにコックローチの至近距離まで行く。
「いいかい、よく見ておくんだよ!」
そう言うと、祖母は素手でコックローチを掴みにいった。
ただならぬ、殺気を感じたのかコックローチは横に俊敏な動きを見せて逃げようとする。
そして、あろうことか、祖母に向って飛んできたのだった。
コックローチが祖母の顔面に飛びつかんとした刹那。
祖母は寸でのところでコックローチを手でキャッチしたのだった。
それから、祖母はヒポポビッジに見せ付けるかのように、掴んだ手に力を込めるとコックローチを握り潰したのだった。
「グチャ」となんとも背筋の凍りつく音がリビングに響いた。
「お前は、甘いのだよ。こんな奴は素手で殺すのが一番」
祖母は、手を洗いながら、満足そうな顔をしてヒポポビッジにそう言った。
翌日、ヒポポビッジはコーチに「来週、引退会見をしようと思うのだが……」と悲しそうに呟いた。