モーホー銭湯 (青春)
長い夏休みも、まもなく終わりをむかえようとしていた八月下旬の夕暮れ時。
俺達、野球部員は太陽が西に沈みかけようとしている中、学校のグランドを走り続けていた。
野球部以外は誰も練習していないグランドからはスパイクが土を蹴る音だけが響いている。
「おい、お前らぁ、声だしていけぇ!」
メガホンを片手に野球部顧問の鬼監督がわめいている。
監督の声を聞いてキャプテンが仕方なしに号令をかけた。
「ファイ、オゥ」
力ない声で、俺も続いた。
「オゥ、オゥ、オ」
監督が立ってる目の前を俺達はダラダラと通りすぎていく。
「お前らぁ、気合が入ってないぞ、あとグランド三周追加だ!」
隣で走ってる健二が息をあげながら監督に対する文句を言ってきた。
「河合の奴、いちびってむかつくわ。俺らが何したっていうねん」
「俺らが、この前の試合でぶざまな負け方したんで腹いせにやってるのだろう」
俺も息をきらせながら健二に答えた。
この前の試合ってのは、夏休みが始まる直前に行われた甲子園を目指して戦う地方大会のことなのだが、俺達はくじ運悪く、一回戦から優勝候補とあたってしまい、11対0という七回コールドゲームをくらっていた。
負ける前までは、それなりにテンションの高かった俺達だったが、今では儚く散った夢のためにモチベーションは激しく低下していた。
ただ一人の例外である、アホ監督を除いては……
「あぁ、カワイ子ちゃんとパコパコしてぇ」
健二が突然、みんなに聞こえるように叫んだ。
疲れている部員達であったがどっと笑いが起こった。
「エッチしてぇ、ファイ、オゥ」
キャプテンも健二に釣られて素っ頓狂な声で号令をかけた。
みんなもキャプテンに続いた。
「オゥ、オゥ、オ」
俺達、野球部は体力はあまりないが、精力だけは強いのだ。
俺も含めて、丸い物があったら、それは女の胸か尻にしか見えない連中である。
こんなんだから、コールド負けをきっしてしまうのだと、みんな思っているのだが、それはそれで楽しいものであった。
「お前らぁ、何ヘラヘラ笑ってるんだ!」
アホ監督がまたわめいた。
それから、俺達がさらにランニングを追加されたことは言うまでもない。
練習が終わって部室で制服に着替えていると、健二が声をかけてきた。
「なぁ、達也、今日宝来湯いかねぇか?」
宝来湯ってのは近所にある銭湯である。
時々、練習が終わると俺と健二は利用していた。
「今から行くのか?」
俺は疲れていたので、あまり乗り気のない声で言った。
「おうよ、今から行くんだよ。サウナ入って、水風呂浴びて、その後プラッシー飲もうぜ!」
健二はどうしても銭湯に行きたいみたいで、目に浮かぶような事を言って誘ってくる。
確かにプラッシーは練習で喉がカラカラな俺には魅力的である。
「でもよ、宝来湯にガチャピンいるかも知れないから、なんか嫌なんだよな」
「あぁ、ガチャピンかぁ」
健二も俺からガチャピンという単語を聞いて少し顔がひきつった。
俺達がガチャピンと呼んでいるのは、宝来湯に常駐していると思われるおっさんで、その筋の方と思われる御仁である。
平たく言えば地元のヤクザなのだ。
ガチャピンは元野球部だったらしく、俺達の野球部の名称の入った鞄を見てから話かけてくるようになり、一度つかまると長い野球談義が始まり非常にうざい存在なのだ。
しかも、話し方が命令口調で偉そうなので会いたくない奴であった。
ガチャピンって言うあだ名は健二がつけたものだが、あだ名の由来はガチャピンの背中に彫ってある刺青からきている。
ガチャピンの背中一面には日本昔話のオープニングに出てきそうな登り龍が彫ってあり、その龍にまたがるように人間もどきが乗っている。
人間もどきと言ったのは、恐らく乗っているのは子供なのだろうが、刺青の配色が緑色をしていてとても人には見えない。
しかも彫りしの腕が未熟なのか輪郭がぼけていて気色の悪い生き物にしか見えないのだ。
しいて例えるなら健二のつけたガチャピンにしか見えないものであった。
健二は少し考えていたが、すぐにいつものように屈託のない笑顔で言った。
「達也、プラッシー飲みにいこうぜ! ガチャピンがなんぼのもんじゃい。それに、いつもあいつが銭湯にきてるとも限らないからな」
「そうだな、宝来湯行くとするか」
俺は健二の笑顔に釣られて自然と口から宝来湯に行くことを同意していた。
駐輪場に行って、ママちゃりに野球道具のつまった鞄を前かごに押し込むと、他の部員達にバイバイと言って俺と健二は宝来湯に向かった。
外はもうすっかり暗くなっていて、ペダルをこぐために点灯するライトが二つ外灯のない道路を照らしていた。
健二はご機嫌であって、鼻歌まじりにペダルをこいでいる。
学校から宝来湯までは十五分ぐらいかかるのだが、早く銭湯に入ってプラッシーを飲みたい気分が先行するので自然とペダルをこぐ足に力が入った。
まわり一面にたんぼが広がるあぜ道を走っていると、秋が近づいているのだろう、どこからともなくスズムシの合唱が聞こえてくる。
自転車を走らせるたびに頬に当たる風も秋の気配を感じさせてくれるものであって嫌な練習が終わった高揚感も手伝って実にすがすがしかった。
田んぼのあぜ道を抜けると住宅街に入り目指す宝来湯は目前だった。ほどなくして宝来湯の煙突が住宅地の合間から俺達の眼前に見えた。
健二はさらにペダルをこぐ力を強めて自転車を走らせた。
趣のある木造創りの宝来湯の入り口の脇に自転車を止めると、俺達は湯と書かれたのれんをくぐって脱衣所に入った。番台から馴染みのおばちゃんが「いらっしゃい」と俺達の顔を見て言った。番台に銭湯代の小銭を置くと竹を編んで作ってある籠に荷物を置いて汗ばんだシャツを脱いだ。
銭湯内は夕食時のためだろうか脱衣所にいる客は俺達だけでがらんとしている。
俺と健二はおばちゃんを気にすることなく、パンツを脱いでフルチンになると、申し訳程度に腰にタオルを巻くと引き戸を開けて浴室内に入った。中に入ると高く積み上げられたカラン桶を取る。
浴室内には幸いにもガチャピンの姿は無く、おじいちゃんと、四十代くらいのおっさんがいるだけだった。
「ガチャピンいなくてよかったな。しかし今日は銭湯すいてるな」
健二はそう言って、かかり湯をするために中央にある一番大きな浴槽の前に立った。
浴槽の外壁には銭湯にお決まりの富士山のペンキ絵が描かれていて、ちょうど絵の富士山の六合目あたりに湯気が立ち上っていて雲がかかっているように見えた。
「熱っちぃ」
かかり湯をした健二が隣で叫んでいる。
先客で湯船に使ってるおっさんが健二の叫び声を聞いて笑っていた。
俺もカラン桶に浴槽内のお湯を入れると健二みたいに叫び声を上げないようにゆっくりとお湯を体にかけた。
お湯は健二が叫ぶのがわかるくらい高温だった。
俺はお風呂は熱いぐらいが好きなのでちょうどいい湯加減だと思った。
お湯を二、三回、体にかけて湯の温度を体になじませると、俺達はゆっくりと湯船に浸かった。
自宅の狭い浴槽と違って、足を大の字に広げられるのは気持ちいいものだ。練習で疲れた体が癒される気がした。
「兄ちゃん達、いい体してるね!」
突然、先に湯船に使っていたおっさんが話しかけてきた。
「俺達、野球部なんですよ」
健二がおっさんにそう言った。
「ほう、兄ちゃん達、野球やってるのか。通りで体格がいいわけだ」
おっさんはフンフンと頷きながら、俺達の隣までにじり寄ってきた。
「兄ちゃん達、顔立ちもいいから女にモテるやろう」
「そんなことないっすよ。ぜんぜんモテませんよ」
健二はおっさんに返答すると湯船から出て体を洗うために立ち上がった。
おっさんは、健二の立ちあがった姿を見て「あそこも立派やないか!」と嬉しそうに言った。
俺はおっさんが健二のあそこを舐めまわすような視線で注視しているので気色悪いなと思った。
おっさんも立ち上がると健二の後を追うように健二の座ってる隣に行った。
俺は、体を洗う前にサウナに入りたかったので、健二に湯船から一声かけてサウナに行った。
サウナに入った俺だったが、なんだかさっきのおっさんに胸騒ぎを覚えておちつかなかった。
だから、いつもより早めにサウナから出ると健二の方を見た。
すると、健二とおっさんは、なんだか楽しそうに話をしているようであった。
俺は二人が何の話をしているのか気になったので、健二の座ってる左横にプラスチックの椅子を置いた。
「そっかぁ、健二君は童貞なんかぁ? それはもったいないなぁ」
おっさんは、いつのまにか健二の名前を知っている。
俺はタオルに石鹸をつけて泡ただせながら二人の会話に聞き耳をたてた。
「そうやぁ、健二君。おっちゃんの知り合いの若い娘紹介してやろうか! 今、おっちゃんワケあってその若い娘と一緒に住んでいるんや。その子、むちゃくちゃテクニシャンやでぇ」
おっさんは健二の肩を触りながら怪しげな話を切り出した。
だいたい、どんなワケあっておっさんと若い娘が一緒に暮らしてんねんと俺はつっこみを入れたくなっている。
「おっちゃん、その……テクニシャンって……もしかして紹介してくれたらHな事できるの?」
健二は目を輝かせながらおっさんに聞いた。
「当たり前やんか、なんでもしてくれるでぇ!」
「ほんまかぁ、おっちゃん。そんなん聞いたら、俺たってきたわぁ」
健二は鼻の下と股間を膨らませていた。
「兄ちゃん、立ったらますます立派やなぁ!」
そう言って、おっさんは、あろうことか健二の一物を軽くタッチした。
健二はおっさんに大事なところをタッチされて一瞬、からだが引きつったが文句も言わずにおっさんの話を聞いている。
「健二君、風呂から上がったらおっちゃんの家に行こう。すぐに紹介してあげるよ」
そう言って、おっさんは再度、健二のあそこをペンペンとタッチした。
さすがに、今度は健二もムッとしたみたいでおっさんに「おっちゃん、ちょ、なんで触んの」と言った。
俺も流石にさきほどからのおっさんの怪しい言動や態度を見て健二に言った。
「健二、このおっさん怪しいで、家なんか行ったらあかん。何されるかわからへんわ」
俺の言葉を聞いてエロモード全開の健二もおっさんが怪しいと思ったらしく、おっさんに言った。
「ほんまにおっちゃんの家行ったら、女の子紹介してくれてHなことできんのか?」
健二はおっさんに激しく詰め寄った。
すると、おっさんはさきほどまでの猫なで声がいっぺんして急にドスの聞いた声を出した。
「兄ちゃん、おっちゃんが家に招待してやるっていってるんだから黙ってついてきたらいいねん。それに、もし若い娘がいなかっても、代わりにおっちゃんが兄ちゃんのあれを○○○ってやるやんけ、ええから黙っておっちゃんの言うこと聞いていたら間違いないねん」
ついに、ホモおっさんの正体が現れた瞬間のひと言だった。
おっさんは、健二の手をひっぱって脱衣所に連れていこうとしていた。
その時である。
おっさんの頭にカラン桶が激しくぶちつけられた。
「痛ぁ……」
おっさんはふいに頭をカラン桶でどつかれたので変な声をあげた。
俺と健二はカランでおっさんの頭を殴った人物を見た。
そこにはガチャピンが仁王立ちしていた。
「こらぁ、おどれはまた、か弱き青少年をかどわかしておんのか」
ガチャピンは再度、おっさんの頭をカランで殴った。
「旦那ぁ、堪忍してくださいよ。私はなんにもしてませんよ」
「そうなんか、お前ら」
ガチャピンは俺達に聞いてきた。
健二は首を振って「おっさんに連れていかれそうになった」とガチャピンに申告した。
「ほらぁ、見てみい。今日はおどれのこと許せへんなぁ、ええから、外いこう」
ガチャピンはおっさんの腕を掴むと、おっさんを脱衣所まで引っ張りだした。
ガチャピンの背中越しの刺青が光輝いているように見えた。
俺と健二も、すぐにガチャピンの後を追った。
脱衣所内は修羅場と化していた。
おっさんは、ガチャピンに何度も殴られていて顔面が血だらけになっている。
おっさんは、このままでは殺られると思ったみたいで、隙を見て服も着ずに外の飛び出して逃げ出した。
俺と健二は事の顛末に驚きを隠せないでいた。
ガチャピンは俺達と目が合うと「お前ら、助かったやろう。俺様に感謝しろよ」と言った。
「ありがとうございました」
俺達は同時に声を揃えてガチャピンにお礼を言っていた。
「礼はええから、お前らぁ、俺が風呂から上がるまでここで待っておけよ。今日はお前らに野球の何たるかをじっくり説明してやるからな!」
そう言ってガチャピンは浴室内に消えていった。
「どうするよ、健二」
「そんなもん、逃げるに決まってるだろう」
俺達は急いで着替えを済ませると番頭のおばちゃんにプラッシーを注文した。
おばちゃんは番頭の横にある冷蔵ケースから硝子瓶を取り出して俺達に渡した。
プラッシーは得体の知れない色をしているが、そこがまたいいのだ。
俺と健二はプラッシーを一気に飲み干した。
少しきつめの炭酸が乾いた喉を潤してくれる。
俺達は空瓶を番頭の上におくとおばちゃんに「また、くるわぁ」と言って、宝来湯をあとにした。
来た時と同じようにママちゃりの前かごに鞄を押し込むと、自転車のペダルをこいで家路に向かった。
後ろめたさと夜風が心にしみた夏の終わりの出来事だった。