第1話 婚約破棄と国外追放
カスティル王国の王城ではパーティが開かれていた。
綺麗な銀髪をアップにして、水色のドレスを着たブラッドリー公爵家の令嬢パトリシアはワイングラスを片手に壁の花となっていた。
本来ならば、婚約者である王太子のリチャード・オーブリー・ハリソンと参加するはずだったが、直前に断られてしまった。
しかたなく父親のジェームズ・ブラッドリーと来たが、ジェームズは挨拶にくる貴族たちの相手をしていてパトリシアはひとりだった。
遠巻きに令嬢や令息たちがパトリシアを見ていた。
「氷姫だ。今日も美しい」
「リチャード王太子殿下と一緒ではないの?」
氷姫とはパトリシアを指す言葉で、いつもすました顔でリチャードの隣にいることからつけられた通称だった。
パトリシアは心の中で溜息を吐いた。
しばらくしてパトリシアは入口の方が騒がしいことに気がついた。
視線をそちらに向けると、また心の中で溜息を吐いた。
金髪のリチャードは遠くにいても目立つ。
その隣にいるのは、ふわっとした長い茶髪のバーク侯爵令嬢のアンナだった。
婚約者であるパトリシアではなく、別の女性を連れてきたリチャードに非難の視線が向けられた。
代わりにパトリシアには憐みの視線が送られる。
パトリシアとリチャードの視線が合ったので、パトリシアは小さくお辞儀をした。
ワイングラスを置いて、パトリシアはリチャードの前に進み出る。
「リチャード王太子殿下に、パトリシア・ブラッドリーがご挨拶を申し上げます」
パトリシアは水色のドレスの裾を持ってお辞儀をした。
すると、リチャードは持っていたワインをパトリシアに掛けた。
会場にいた人たちが息を呑んで、何事かと成り行きを見守る。
パトリシアは顔を上げ、表情を変えずにリチャードを見た。
「なにかリチャード王太子殿下の気に障るようなことをしましたでしょうか?」
リチャードは苦々しげにパトリシアの感情の分からない水色の瞳を見た。
「その目だ。昔から気に食わなかった」
リチャードの隣にいるアンナが困った顔でリチャードの腕を取る。
「おやめください。パトリシア様がかわいそう」
リチャードはアンナの手に自分の手を重ねた。
「先日、アンナがお前のお茶会に参加したいと言った時、断ったそうだな」
パトリシアは頷いた。
「仲の良い令嬢だけを呼んだ内輪のお茶会でしたから」
リチャードはパトリシアを睨んだ。
「きつい言い方をしたそうじゃないか。俺に近づくなと」
パトリシアは首を傾げて尋ねた。
「婚約者のいる男性と親しくしては、アンナ様の評判が落ちますよとは申しました。わたくしはなにか間違ったことを申しましたでしょうか?」
リチャードは苛立ちを隠せないように頭に手をやった。
「相変わらず可愛げのない女だ。俺は真実の愛を見つけた。お前との婚約は破棄する。そして、アンナと婚約する。俺の婚約者をいじめるような奴は国外追放とする!」
やり取りを見守っていた参加者たちが騒めいた。
「氷姫を国外追放?」
「それだけのことで……?」
「やりすぎだろう」
どこかからそのような声が聞こえてきて、リチャードは声がした方を睨むとしんと静かになった。
一方、パトリシアは水色の瞳を見開いてリチャードを見ていた。
ショックを受けているパトリシアを見て、リチャードは満足そうにほくそ笑む。
しかし、次の瞬間、リチャードの顔は驚きに変わった。
パトリシアが今までに見せたことのない輝いた笑みを見せていたからだ。
「婚約破棄ですか? でしたら、王妃教育も終わりですよね?」
リチャードは目を見張りながら頷く。
「……そうなるな」
「めんどくさいお茶会にもあなたの婚約者として出なくていい……」
パトリシアは嬉しそうな顔で手を合わせた。
そこにジェームズが人だかりを割ってパトリシアの側に来た。
「落ち着きなさい、パトリシア。これは正式な婚約破棄ではない。リチャード王太子殿下が勝手に言っているだけだ」
パトリシアは頬を赤らめて興奮しているようだった。
「こんなにたくさんの人の前でリチャード王太子殿下が宣言したのよ。それに婚約者に向かって、他の女を連れてきて真実の愛を見つけたって言うような人とまだ婚約を続けろとお父様はおっしゃる?」
ジェームズは言葉に詰まった。
パトリシアはジェームズの腕を掴んだ。
「もうこれは決まりです、お父様。もう取り消しはさせません。しかも、国外追放ですって! こうしている場合ではありません。急いで家に帰って支度をしないと……」
パトリシアはスカートの裾を掴んで踵を返した。
リチャードはいつもと雰囲気の違うパトリシアに戸惑いながらも尋ねる。
「待て。なんの支度だ?」
「リチャード王太子殿下が国外追放とおっしゃったのでしょう? 国を出る支度に決まっています」
にこやかにそう言ったパトリシアは、颯爽と会場を出て行った。
それを慌ててジェームズが追いかけていく。
「パトリシア、馬車は一台しかない。わたしを置いて行くな!」
リチャードはそれを呆然と見つめていた。
「あいつ、そんなに俺との婚約が嫌だったのか……」
ショックを受けていたのはリチャードの方だった。
「せっかくこのわたくしが精魂込めて王妃教育を施したお嬢さまをよくも……」
後ろから殺気を感じてリチャードは振り返った。
そこには茶髪を綺麗にまとめたキャサリン・スミスがいた。パトリシアに王妃教育を施していた女性だった。手に持っているワイングラスにはひびが入っている。
リチャードはキャサリンの鬼気迫る雰囲気に尻込みする。
「マダムキャサリン……」
キャサリンはリチャードの腕を掴んでいるアンナに視線を移し、にっこりと微笑んだ。
「パトリシアお嬢さまには五歳の時から十二年間かけて王妃教育を施しました。あなたが新たにリチャード王太子殿下の婚約者になられると言うのなら、その十二年分を数年で終えなければなりませんね。お覚悟なさいませ」
それを聞いたアンナは、青い顔でリチャードを見上げる。
アンナと目が合ったリチャードは優しく微笑んだ。
「大丈夫だ。俺がついているじゃないか」
アンナは声にならない悲鳴を上げた。
パトリシアと父親のジェームズは家に戻る馬車の中で向き合っていた。
「パトリシア、まずは陛下と話してみるから一度冷静になりなさい」
「私は至って冷静ですよ、お父さま。ドレスにワインを掛けられても冷静でいました」
パトリシアは綺麗な水色のドレスにできたワインのシミをジェームズに見せる。
ジェームズは眉間の皺をほぐすように撫でていた。
「蹴りを入れなかったことは評価するが、お前とリチャード王太子殿下との婚約は陛下とわたしで決めたことだ。お前たちの感情だけで解消できるものではない。それに、あれだけのことで国外追放などばかげている」
パトリシアは首を傾げる。
「あれだけの貴族の前で宣言したことをなかったことにはできないでしょう。私はしかたなく国外追放されます。お父さまと会えなくなるのは寂しいですが……」
パトリシアは悲しげな表情を作った。
それを見たジェームズは溜息を吐いた。
「口元が笑っているぞ、パトリシア……。とりあえず、一度待ちなさい。婚約破棄の取り消しはできなくても、国外追放の方だけでもどうにかするから……」
パトリシアはジェームズに縋りつく。
「そんな……。せっかく自由に外国を渡り歩ける権利を手に入れたのに……」
「国外追放とはそういう権利のことを言うのではない。不名誉なことだと分からないのか。諦めなさい、パトリシア」
「しかし、リチャード王太子殿下との婚約が破棄されれば、私に社交界での居場所があるでしょうか? 役立たずの公爵令嬢など必要ないでしょう?」
ジェームズはパトリシアの肩に手を置く。
「国内は無理でも、国外の貴族との婚姻にはまだ望みはある。そんなに悲観するな」
パトリシアは首を横に振った。
「嫌です。お父さまが連れてくる男はもう信用できません。自分で探します。なので、家を出る許可をください」
「だめだ」
「嫌です。お父さまが折れてください。私は十二年もの間、したくもない王妃教育のため、時間を割いてきたのです。これからは私のしたいようにします」
ジェームズは顔に手をやり盛大な溜息を吐いた。
「氷姫め……」
ブラッドリー公爵家でいう『氷姫』はパトリシアがわがままを押し通そうとする意志の固さを指している。
「とりあえず、陛下と話すから、それまでは待ちなさい」
パトリシアは膨れっ面でジェームズを睨みつけた。