逢魔が時
家に帰ることが楽しみだったのは、いつまでだったか。
疲れて重い体を引きずり、働かない頭を叱咤しながら帰宅後の段取りを考える。
思わず転がり落ちたのは、ため息。
大人になんかなりたくないとずっと思っていたはずが、いつの間にかルーティンワークに忙殺されるつまらない大人になっている自分自身に憂鬱が増す。
いつの間にか朝が始まり、夜が終わる。
今日が昨日の続きで、明日は今日の続きでしかない日常。
今思えば、その日私はひどく退屈していたんだと思う。
真実も事実も、所詮は作られた幻想でしかない。
いつかの私が嫌った、夢も希望もない疲れ切った大人に私がなったように。
私は、ゼンマイ仕掛けのおもちゃのように淡々と来たバスに乗る。
他の乗客に煩わされないように、運転手さんのすぐ後ろの一段高くなっているひとり掛けの席に陣取り、ホッと息をつく。
体が泥のように重い。
そして痛む頭を抱えながら、ぼんやりとバスが発車するのを感じていた。
雑音が届かないように、イヤホンを耳に押し込んで音楽を掛ける。
それが間違いだと気付かずに、私はそのまま眠りに落ちた。
ふと、じっとりと汗ばんだ感覚に目が覚める。
冷房が効いているはずの車内が、妙に暑苦しく感じる。
いや、違う。
私は瞬時に覚醒して、目を開けると同時にそれを払い除けた。
「んあぁ~」
いつの間にか誰もいなくなったバスの車内で、それは奇声を発した。
赤ん坊のような、それにしては少ししわがれているような異様な声に振り向く乗客さえ、そこにいない。
それなりに混雑しているはずのバスの車内の異様な光景に、背筋の辺りを汗が伝っていく。
鞄に叩かれ、思いっきり押しやられたそれを見る。
縦と横の比率がほぼ同じなのではないかと思うような、恐ろしく丸い体に枯れ木のような異様に細い手足がついている。
濡れてへばりついたようなまばらな黒い髪と、ぶよぶよと白い肌。
洞が穿たれたかのような目と、鼻と、口。
それは明らかに人間の形を残しながら、人間ではない何かだった。
私は声も出せず、それを凝視する。
「ああ~ぅ」
口らしき場所から奇声とよだれを垂らし、いつの間にか距離を詰めて来たそれは、生暖かい息を吐きかける。
触られたらおしまいだと直感的に思った私は、伸ばされた手を、とっさに手にしたタブレットで思いっきり叩き落とした。
ぶよ、とも、ねちょ、ともつかない中途半端で嫌な感触が返ってきて思わずタブレットを取り落としそうになる指先に力を込める。
こういう場合は気力で負けたらだめなのだと、自分自身を鼓舞して相手を見据える。
叩かれた相手は、僅かにひるんで後退した後、不愉快そうに顔を歪め。
「んがぁぁぁ!!」
吠えた。
その声量に耳鳴りがしそうになった私は顔をしかめながら、相手の出方を注意深く見守る。
こちらに闇雲に突っ込んで来る相手の動きが、やけに遅く見える。
伸ばされた手がスカートに掛かりそうになったところを、意を決して蹴り飛ばす。
ぶよぶよとした感触に、吐き気がする。
恥も外聞も、倫理観も自分以外の誰かがいるからこそ成立する問題だ。
それを捨ててでも、自分を救わなければならない瞬間は存在する。
「触るな! 私は、お前の思い通りになんかならない!!」
叫んだ私の脳裏に、カメラを構えて逃げ回る女子高生を撮影しようと追いかけ回す太った小男と、迫って来る車の光景がフラッシュバックする。
勢い余って車道に飛び出した女子高生の、その腕を咄嗟に掴んで、引っ張って、それで、私は……。
「ああ、気が付きましたね」
眩しいほど白い空間に、消毒薬の匂い。
ああ、病院かと、私は思った。
直前まで何をしていたか、意識が曖昧で私を覗き込む看護師さんと白い天井、繋がった器具や腕に刺さった管を順番に見る。
「あの子は?」
私が手を引っ張ったはずの女子高生が気になって、かすれる声を絞り出して何とか問う。
「あなたのお陰で、かすり傷程度で助かりました。あなたも、脳震盪程度だったはずなのになかなか意識が戻らなくて、もう少し意識がないようだったら精密検査に回すところだったんですよ。何せ頭を打ってますからね」
自分の着ているものをじっと見つめる私の視線に気づいたらしい看護師さんが、笑みを絶やさないまま答える。
「元の服をもう一度着るのは少し難しそうだったので、ご家族には替えの服もお願いしておきました。確認は……ちょっとお勧めできません。大切なものがなければ、こちらで処分しますけれどどうしますか?」
私は、看護師さんの言葉の意味を知っている。
あの時、伸ばされた手を何とか振り切ってあの子を庇い、倒れ込んだ私の前であの男は。
私は、思い出したくない光景を振り切るように、目をきつく閉じる。
「こちらで、処分しておきますね」
私の様子に、話を切り上げた看護師に頷いて了承を伝える。
「もう少し、休んでください。必要なら先生から鎮静剤の追加を処方してもらいますから」
「大丈夫です」
私は何とか言葉を返して、目を閉じる。
目を閉じれば赤が広がる。
服を濡らした、あの色と同じ。
夢の中で襲い掛かったあの怪物は、あの男の未練なのか、それとも私のトラウマが作り上げた妄想なのか。
夢は、現世とあの世のあわい。
気を付けなければだめだよと、いつかの誰かの声がする。
帰り道は、逢魔が時。
魔が差したものに、追われたら。
決して捕まってはいけないのだと。
私は本当に、逃げ切ったのだろうか。
目を閉じても見える赤に、私は遠ざかる意識の中で自問した。
どこかで耳障りな、あの声が聞こえたような気がした。