無題
本当に面白い作品なら、タイトルなんていらないでしょ?
「おめでとうございます、椎名先生」
男が笑顔で拍手するのは、日影女子高校の面談室。演劇部全国制覇の垂れ幕に窓が隠されているせいで、部屋の中は薄暗い。
「おかげさまで。でも、全国制覇は部員の功績です」
演劇部顧問の椎名美鈴教諭は、男とほぼ同時に深々と頭を下げた。
「水無高校の演劇部顧問、窪田と申します」
「すみません窪田先生、面談室しか空いてなくて……」
名刺を交換した二人は姿勢を整えてまた座る。
「お電話では脚本の使用許可についてとお伺いしましたが」
「はい。全国制覇した例の脚本、うちの高校で使いたくて。お願いできます?」
高校演劇では、かつて他校や他劇団で使われた脚本も、許可を取れば既成台本として使用できる。目新しさは落ちるがクオリティが高く、既成台本を使う高校も多い。
「これですか?」
椎名が鞄から脚本を取り出すと、窪田はぱっと顔を輝かせた。
「それです。テレビで拝見しましたが素晴らしい芝居でした」
窪田は丁寧に脚本を机上に戻す。その表紙には――
『無題』
そう書かれていた。
「すごいタイトルですよね。地区大会から話題で、ずっと気になってたんですが、まさか全国制覇するとは」
笑うと目がやけに細くなる男だ。
「実際に見たら、ほんと手に汗握る芝居でしたね」
その通り。『無題』は開演五分で観客の度肝を抜いた。
それは"西暦二〇〇〇年"に恋した少女の物語。
異性ではなく、人ではなく、生き物ではなく、物体ではなく、時間という概念に、"一年間"に、恋をしてしまった少女。
過去の"時間"に恋した少女は、意中のお相手には近づけない。結婚なんて不可能。会ったこともない。
時に恋するチヒロ、チヒロに片思いする幼馴染のマツイ君、同じくチヒロに思慕を寄せる友人のスズも現れて。三者三様の叶わぬ片思いから生まれる名状しがたい感情は、まさに『無題』と呼ぶにふさわしい。それを言葉にしようともがく姿は、観客にある問いを投げかける。
あなたは愛のためならどこまでできますか?
奇妙な設定で惹きつけ、シュールな状況で笑わせつつも最後は心を揺さぶる。そして何より演者の等身大の演技が観客を虜にした。
「マツイ君役の生徒さん、名演技でした。テレビで特集されるだけあります。女子校の芝居のはずなのに、僕には男子にしか見えませんでした」
「当然です。"彼"は男性ですから」
準主人公のマツイ君を演じたのはトランスジェンダーの生徒だった。女子校では難しいとされる男性役を、圧倒的リアリティと解像度で演じ上げた"彼"は話題になり、彼目当ての観客で客席が埋まった。
「LGBTを利用して注目を集めている、とは言われなかったんですか?」
窪田の細い垂れ目が、覗き込むように椎名を見上げる。
「……言われましたが、そんな失礼な野次、我々は気にしません」
椎名は毅然と答える。タイトルは『無題』、LGBTの生徒が演じ、ストーリーは突飛。話題になったはいいが、ネタ枠だのLGBTの悪用だの、陰口も叩かれた。
「実際、悪用だと思いますけどね」
「失礼な」
本人を前に言い放つ無神経さに苛立って、椎名は思わず不機嫌な声で答えた。
「本心しか言えないもので」
慇懃無礼な態度がまた椎名の神経を逆撫でする。
「なら、脚本の使用許可は出せません。大切な脚本を悪意を持って使われるのは嫌です」
「構いませんよ。僕、脚本も使用許可も持ってるので」
あっけらかんと窪田は言ってのけた。
絶句する椎名を前に、窪田は一冊の脚本を机上に置く。その表紙にも手書きで『無題』と書かれていた。
「嘘でしょ……。この脚本を持ってるのは、うちの部、いや私だけのはず……」
戸惑う椎名の頭上に影が差す。優しげな顔のまま窪田が立ち上がったからだった。
「それは僕のセリフです」
窪田は細い指で脚本の表紙をなぞる。手書きの『無題』の周辺には沢山の没タイトルが二重線で消されていた。
「この脚本は原作者の横矢歌穂から高校時代に貰ったものです。そしてあなたもご存じの通り、歌穂は今音信不通のはずだ。あなた、この脚本をどこで手に入れ、どうやって使用許可を得たんですか?」
窪田の声には一切のとげがない。しかし椎名の顔はみるみる青ざめる。
「……貰ったんです、歌穂に」
「当時あなたは演劇部の部長ですし、部員の歌穂に脚本を貰っても不自然じゃありませんが、そんなの使用許可を得たうちに入ります?」
「……歌穂は、使っていいと」
「脚本を人に渡すとき、好きに使って、と言う歌穂の癖を真に受けただけですよね?」
「いけませんか?」
「でもあなた、絶対にやってはいけないことをやったでしょ」
窪田は歌穂が書いた手書きの『無題』というタイトルを軽く弾く。
「あなた、勝手にタイトルを付けましたね? それがどれだけ罪なことか知っていながら」
歌穂が暫定的に脚本のタイトルを『無題』としていたのは、タイトルが決まらなかったからだ。この作品にタイトルは存在しない。それを知りながら、椎名は『無題』というタイトルを正式に付けて出した。
「はい」
椎名は首を垂れて俯いた。
「本当に面白い作品ならタイトルなんていりません。でも大会に出るにはタイトルが必要です。だから『無題』というタイトルを勝手につけました」
「これ、演劇協会に言ったらどうなります?」
脚本の書き換えには、たとえタイトルであっても作者の許可がいる。椎名の行為が協会にバレれば、全国制覇は確実に取り消される。
椎名の目が泳ぎ、唇が震える。
「……」
沈黙が続く。窪田は椎名の言葉を待ち続けた。
「……見逃していただけませんか」
椎名は倒れこむように床に跪き、頭を床に擦り付けた。見事な土下座だ。
「全部私の責任です。罪を公表して謝罪すべきなのはわかってます。でもそうしたら"彼"の推薦入試がダメになるから。彼に罪はありません。何でもします。だからどうか──」
「すごい覚悟ですね」
これ以上下がらない頭を下げ続ける椎名を見下ろしながら、あくまで温厚に窪田は言う。
「なら最初からやらなきゃいいのに」
「……歌穂を怒らせたかったんです」
椎名は蚊の鳴くような声で呟いた。
「いくら『好きに使って』といっても、あんなふざけたタイトルで全国に行けば、きっと歌穂は怒ります。歌穂から連絡が欲しかったんです」
歌穂の耳に届かせるには全国大会に行く必要がある。手段は選ばなかった。トランスジェンダーの部員が男性役を演じたいと打ち明けてきたのをいいことに、マツイ君役を当てて話題性を狙った。タイトルを目立つように『無題』にした。
外野にどれだけ陰口を叩かれても毅然としていられたのは、歌穂に会うためだった。
「……怒った歌穂から連絡を貰って嬉しいですか?」
不思議そうに窪田は尋ねる。
「歌穂が連絡をくれるなら、怒ってても泣いててもよかったんです」
「なぜですか」
「歌穂が好きなんです」
椎名はまだ頭を下げていた。窪田の顔色が変わる。
「女の私なんて、歌穂が好きになってくれるわけがないのは知ってます。だから好かれるのは諦めました。全ては、私が歌穂の顔を見たいがために」
やけくそだった。どうせ成就しない恋だ。嫌われてでも、顔を見たかった。
「まあ男だからといって歌穂に好かれるわけでもありませんが、わかりますよ、その気持ち」
共感されるとは思わず、椎名ははっと顔を上げる。
「窪田先生は、なぜ歌穂を探してるんですか」
「この脚本の本当のタイトルを知りたいんです」
窪田は愛おしそうにタイトルに目をやった。
「この脚本は、タイトルがなくても面白い。でもそれは、タイトルが存在すべきでないということではありません。脚本の表紙を見たらわかるように、歌穂はタイトルを付けようとしていた。だからこの世のどこかにタイトルはあるんです。僕は歌穂の口からそのタイトルを聞きたい」
「……歌穂を探すの、難しいですよ。私がここまでしても会えなかったのに」
窪田は黙って椎名を立ち上がらせる。化粧が取れるのも厭わず涙を拭いて椎名は顔を上げた。
「窪田先生――」
「実は僕、窪田先生じゃありません。あなたに会う口実を作ろうと、教師のふりをしただけなんです」
「じゃあ、あなたは……」
「僕は松井です。歌穂の、幼馴染の」
椎名の大きな瞳から、ぽとりと涙が落ちる。
「高二の秋に歌穂に告白したら、好きな相手がいるって振られちゃって。一ヶ月経って歌穂がくれたのがこの脚本なんです。僕はこれを歌穂の答えだと解釈しています。その恋、叶えさせてはあげないけど、追いかけるのは好きにしたら、って」
「……自信家ですよね、歌穂」
「そこが好きなんですよ」
机に腰かける窪田、否、松井が苦笑する。
「歌穂に言いたいことは山ほどあります。何としても見つけます」
「……どうやって探すんですか?」
「さあ。僕としては椎名先生が頼りだったので、その線が切れた今、手掛かりはありませんしね。でも僕は追いかけますよ」
「優しいですね、恋敵に力を貸してくれるなんて」
「叶わない恋ですから恋敵じゃありません。僕らはただのストーカー仲間です」
自嘲気味に笑った椎名に松井は笑い返す。
「でも、どんなに叶いそうにない恋でも、追いかけることは尊い。それを芝居にして、あなたは全国を取ったんでしょ」
椎名は少し迷って頷いた。
「一泡吹かせてやりましょう、西暦2000年と駆け落ちした女に」
着崩したスーツのポケットに手を突っ込み、面談室で微笑む松井と目が合う。その落ち着いた目が彼の覚悟を示しているように、椎名には見えた。