感想、待ってます。
感想︰ある物事に対して心に生じた、まとまりのある感じや考え。所感。
六時間目に水泳があったからか、二人しか居ない教室は夏の匂いがした。
「物事は感情じゃなく理屈で考えろなんて言うけど、だったら人間だけに許された心って何のためにあるんだろうね?」
夏の風鈴のように透き通った声で、彼女は蠱惑的に笑う。
「せっかく生まれ持った心を無視するなんて勿体ないと思わない? 合理的なんて言葉は、ただ行動指針に感情を含めると計算が煩雑になるってだけの怠慢の象徴だと思うんだよね」
じじじと鳴くアブラゼミの声が耳朶を叩き、額に汗がじわりと浮かんだ。
「本当に要らないんなら、私にくれたら良いのに」
彼女──西澤夕凪は、そう言って微笑んで見せる。その顔は見る者を否応なしに釘付けにするもの。
クラスでも明るくて人気な彼女が見せる柔らかい笑顔は、友達の居ない僕にとって刺激が強かった。
「ねえ、三波君はどう思う?」
問われた僕は、少しの間考えた。長考と呼ぶには短いけれど逡巡と呼ぶには長すぎる数瞬の間。
「そういう生き方を選択したのも、またその人の心が選んだんじゃないかな」
恐らく西澤さんの求める答えじゃないだろう。だけど心にもない答えを言うと、それはそれで面倒になりそうだから、僕は本音を口にした。
しかし西澤さんは、僕の予想に反して興味深そうにしていた。
「……確かに、そうかも?」
「壮大な質問の割に意見を変えるのが早いね」
「だって納得しちゃったんだもん。……うん、そっか、そうだよね。そういう選択をし続けるっていうのはそれはそれで心の選択だよね」
西澤さんは僕の意見を元に内容を発展させる。言語化出来ていなかった点を言葉にしてもらった気がした。
「三波君は面白いね。大好きだよ」
「……自分で心にもないことを言うのは無しだって言ってたくせに」
「ふふ、誰も恋情とは言ってないよ?」
僕は思わず顔を背ける。耳まで熱くなった。
……西澤さんはずるい。
「そう言えば好きっていうのはわかりにくい心だよね。喜びと信頼の間にあるから仕方ないけどさ」
「……何それ?」
「プルチックの感情の輪って聞いたことない? 喜び、信頼、恐れ、驚き、悲しみ、嫌悪、怒り、あと期待と予期。最後の二つはワンセットだよ」
西澤さんは白のチョークで黒板に大きな丸とその円周に八つの丸を書く。
「これが基本の感情で、後はグラデーションで表現するの。さっき言った恋情は喜びと信頼の間で、例えば後悔なんかは悲しみと嫌悪の間だね」
「昔の人は凄いことを考えるね」
「そう? 私は一つ足りないと思うよ」
そう言って西澤さんは円の中心にトンとチョークを突き立てる。
「健やかに育った人はすぐには怒らないイメージってない?」
「そんな気はするけど……」
「生まれつき多才だったら恐れることなんてほとんどないと思わない?」
「……思うけど、それがどうしたの?」
「つまり個々人が持ち合わせる八つの基本感情の上限、もしくは上昇値……加速度って言った方がわかりやすいかな? これって人によって違うんだよ」
何を当たり前のことを、と直感で感じた矢先、僕ははっとする。
西澤さんがプルチックの感情の輪に足りないというのは、このことを言っているんだ。
「この問題を解決するために追加するものは何でしょうはい三波君!」
「え、えっと……、……そういう注意書きを入れる、とか……?」
「0点。だけど大好きだからおまけで百点あげる」
「だっだからそういうのは!」
「答えはZ軸を追加してあげれば良いんだよ。それぞれ八つの感情の上限を測定して、切り立った面がその人の感情の輪。伝わってる?」
「多分……」
要は歪な八角形が出来るってことなはず。よく笑う人や全然驚かない人は持ち合わせる感情の輪が違うみたいな。
……だけど、それなら。
「Z軸って必要なの? それぞれを測定するなら別に二次元で良くない?」
「心の総量の差は面積の値じゃ足りないと思ったんだよね。感情豊かな人とほとんど感情がない人で三倍の差があるって言われるか九倍の差があるって言われるかだと、後者の方が私はしっくり来るの」
そういうものだろうか。僕にはあんまり違いがわからない。
言いたいことを言えたのか、西澤さんはうんと伸びをした。セーラー服が持ち上がってちらりと白いお腹が顔を覗かせる。
「三波君は優しいね」
「え、何で」
「面白くもない話を延々と聞かされても文句一つ言わないから」
「面白くない話のつもりだったの!?」
「私はこういう話は面白くて好きだけど、やっぱり普通の子は流行りのファッションとかスタバの新作の話の方が好きでしょ?」
つまり僕はそういうキラキラした話をしないって思われてたってこと? ファッションはともかくスタバの新作なら僕だって気になるよ。バナナフラペチーノの復刻をずっと待ってるくらいには好きなのに。
「甘いもの好きなんだ?」
「お、男でも甘いものが好きな人だって居るでしょ!? というか別にハンバーガーだって好きだけど!?」
「ふふ、別に気にしてないよ?」
そういう割にはにこにこしてるくせに……。西澤さんの笑顔はずるいんだ。見てるとこっちまで楽しくなってくる。
「うん。三波君には話しちゃおっかな」
「……何を?」
「警戒しなくても大丈夫だよ。乙女の秘密を話すだけだから」
むしろ警戒心が高まったんだけど。またからかわれる予感がしてならない。
……西澤さんはふうと息をつく。
気のせいかもしれないけど、西澤さんの唇が僅かに震えてる気がした。
「──私ね、心が無くなっていく病気にかかってるんだ」
西澤さんの凛とした目を見て、僕はからかってるのかとは言えなくなった。
「……そんな病気、本当にあるの? 初めて聞いたよ」
「似たような病気だと失感情症っていうのはあるね。感情はあるのに感情の認知が出来なくなってる心の病気」
「それじゃないってこと?」
「うん。喪心病って言って、認知以前に感情そのものが縮小、最終的には感情がなくなる病気なんだ」
西澤さんは確かな“恐れ”を持った説明をする。
「最悪だよね。まだ五十年以上はある人生を淡々と過ごさなきゃいけないなんてさ。……もう今は自分に感情があるのかどうか分かんないや」
彼女の表情には、ありありとした“悲しみ”が見て取れた。
「……まあでも打ち明けられる人が出来て良かったかも! 独りで抱えるにはちょっと重すぎたんだよね!」
そして西澤さんはそこにあるはずの“喜び”を作って見せていた。
僕は声が出なかった。喪心病なる恐ろしい病気の存在は勿論、普段明るい彼女がそんな病に冒されているなんて。
だけどそれ以上に、西澤さんの笑顔と繕いの内側にある悲哀へ──僕は思わず涙を零してしまった。
「み、三波君!? ごめんね!? 急に変な話しちゃったよね!」
西澤さんは慌てて僕を慰めてくれる。自分のした話によって泣かせてしまったと罪悪感を抱いている。
だけど違う、僕は僕の感情で泣いてしまったわけじゃない。
「……西澤さん、ごめんね。急に泣くなんて変だよね」
「ううん! 全然変じゃない! ホントごめん!」
「……僕さ、人の感情の影響を受けやすいんだ」
「……え?」
思ってもない発言に彼女は目をぱちくりさせる。
……こっちこそ、言うつもりは無かったんだけどな。
「サイコパスってあるでしょ。人の心が分からないやつ」
「う、うん。でもそれって三波君とは真逆なんじゃ……?」
「そう。サイコパスの逆で、共感性が高過ぎる人はエンパスって言うらしいんだ。誰かがお腹を痛そうにしてると僕も痛くなるし、誰かが喜んでると僕も嬉しくなる。……だから気味悪がられるし、そのせいかいつも孤立しちゃうんだけどね?」
本当に、言うつもりは無かった。だけど彼女が打ち明けてくれたことに対して、僕もひた隠しにしてきた秘密を明かして初めて対等になれる気がした。
「……そう、なんだ」
「……だからさ、西澤さん」
「何……?」
気を使わせちゃってる。今度は僕の感情で申し訳なさを感じた。
「僕が泣いたのは、西澤さんが悲しんでいたからだよ」
「……」
「西澤さんが泣きたいくらいの悲しみを抱えてたから、僕は泣いたんだよ」
一つ一つ、まるで親が子どもに教えるように、丁寧に説明する。
西澤さんはもう感情があるかどうかもわからないって言ってた。だけど、それは絶対に違うと言い切れる。
何故なら、人の感情を勝手に共感してしまう僕が悲しい気持ちになったから。
一通り僕の言葉を咀嚼し終えた西澤さんは、微かに声を漏らして、そして。
「……そっか。私ってまだ感情があるんだ……」
“喜び”の末、瞳の端から静かに涙の轍を作った。
──これが、僕と西澤さんの出会い。
それから彼女は僕によく絡みに来るようになった。彼女が笑えば僕も笑う。嫌厭すらしてた自分の特性を喜んでくれる彼女に、僕は次第に惹かれていった。
『ね、今日の私の感想を教えて!』
それが彼女の口癖。感想っていうのはある物事に対して心に生じた考えのことなんだよって楽しそうに話す彼女は、確かに笑顔だった。
だから、僕は今目の前にいる彼女の状況を信じたくなかった。
「感想、待ってます」
そう言いながら帰っていく彼女の背中からは、僕にはどうしても感情を感じることが出来なかった。