高一の夏は、一点限りの割れ物につき。
僕らはみんな、割れている。
両親からの期待に押しつぶされて。
クラスメイト達の醜さに触れて。
青春をかけて打ちこみたかった、野球への道を絶たれて。
恋情の果てに、親友との破局を迎えて。
僕らの心は繊細で、ふとしたきっかけでガラスみたいに割れてしまう。
だから、せめて手を繋ごうか。
傷だらけのままで駆けだそう。
くだらない話をして、頭を空っぽにして遊びまわって。
だって、高一の夏は一度きりなんだから。
割れたままでいい。
傷を舐めあって、不恰好でもいいから立ちあがって。
最後は、ぜんぶ壊して、そして現実に戦いを挑もう。
それが、きっと僕らなりの青春だから。
一陣の風がほしかった。
教室の窓を開け放てど、吹くは夏の熱い空気ばかり。
息苦しくて、荒く呼吸をした。
手持ち無沙汰に、眼鏡の角度を調整する。
放課後の喧騒にとけこめず、宙ぶらりんな僕に。
「なぁ、晴樹。いまから暇?」
肩伝いに、ごつりとした手のひらの感覚。
振り返ってすこし見上げれば、幼なじみがいつもの快活な笑みを浮かべている。
「どうしたの、雄斗」
「町のカラオケ行くんだけど、人足りなくてよ。どう?」
「僕が行っても変わらないでしょ。パス」
そう答えると、雄斗は腕組みして何か思案し。
「そう言わずによ。ほら、枯れ木も山のなんとやらって……」
「『枯れ木も山のにぎわい』かな。あと、それは他人に使う言葉じゃないよ」
「まじ? わりわり」
丈夫は頭を搔いてみせ、明るい茶髪がぼさぼさと乱れる。
その様子に、つい苦笑を浮かべてしまった。
「それに、今日は家で勉強しないと。またどやされる」
「……父親か。お前も大変だな。まぁ頑張れ」
「ありがと。雄斗も、はやく行かないと電車に遅れるよ」
「えっ? あっ、やっべ」
時計を確認するや、ばたばたとバッグを左肩にかけて、手を振り走り去っていく幼なじみ。
それを見送り、僕も静まりかえった教室を出る。
たて付けの悪い木製の扉が、ぞざざっ、と音を立てて閉じた。
── ◇ ──
木立を抜け、日射しの注ぐ畦道を歩む。
手提げ鞄を日除けにして、空いた左腕で額の汗を軽く拭うと。
「ん?」
前方に見えていた人影が、だんだんと近付いてきている。
うちの高校の制服を着ている、女子みたいだけども。
どうも、見覚えがない。
思考している間にも、距離は縮んできている。
狭い田んぼ道では、どうしてもすれ違うことになりそうだ。
立ちのぼる陽炎にぼやけていたシルエットが、だんだんと鮮明になってきて。
垢抜けた印象の端正な顔立ちと、透明感のある、灰がかった黒髪のセミロング。
(あっ。確か、一学期のはじめのほうに……)
東京からの進学ということで、一時期話題になって。
数日だけ登校して、それっきりだった子。
名前は、たしか。
(瀬戸 翠花……だったっけ)
ひときわ強い向かい風が吹いてきて、思わずまぶたを閉じる。
それが止むのを待って、目を開くと。
「ねぇ、君」
「……っ!?」
彼女の薄紫の瞳が、こちらを見上げて覗きこんできていた。
咄嗟に反応できず、言葉に詰まってしまう。
「生徒指導の里田先生って、まだ校内にいた?」
「えっ? あぁ……。たぶん、まだいるんじゃないかな」
「そう。ありがと」
瀬戸さんはすっと視線を外し、僕の横を通り抜ける。
かと思えば、ふいに身を翻して。
そっと、鈴の音が風鳴りに囁かれた。
「それじゃ……。じゃあね、蝉川くん」
「あっ……」
ひとこと言い残して、今度こそ彼女は歩み去ってしまう。
その華奢な姿が遠ざかっていくのを呆然と見届けて、すこし首をかしげ。
「僕の苗字……なんで知ってたんだろう?」
関わりなんて、なかったと思うのだけれど。
帰り道、ついぞ答えは出なかった。
── ◇ ──
ぬるい金属の感触を指先越しに伝わせながら、横引き戸を後ろ手で閉じる。
薄く日の光の射しこむ玄関に、短くぴしゃりと音が響き。
じぃじぃと蝉のさざめく声が遠のく。
スニーカーを脱ぎ、かかとを揃えんとしゃがみこむと、散り散りになった男物の大きな靴が視界に入った。
緩慢な足取りで、リビングへと歩を進める。
開け放たれたドアと、扇風機の駆動音。
視界の先には、思っていたとおりの人物が、あぐらをかいて待っていた。
「ちっ、晴樹か」
「……父さん。早かったんだね」
着崩した作業着と、筋肉ばった大きな体躯。
右手にはジョッキが握られており、既に顔を赤らめさせている。
立ち去りたくて踵をかえすも、野太い声でおいと呼び止められてしまった。
「晴樹ぃ? なんだこれは」
ばしりと畳に叩きつけられたのは、先日戻ってきたばかりの期末テストの答案。
いかにも不愉快そうに、彼は再び口を開く。
「国語は一つ、地理と物理は二つ……。数学にいたっては、三つも問題を落としてるじゃねえか」
ジョッキをテーブルに叩きつけ、畳に左手をついて巨漢は立ち上がって。
ずかずかと歩み寄り、威圧するように見下ろしてくる。
「それじゃあ駄目だ。お前はもっと勉強して、優秀な成績をとって。こんな田舎じゃなく、都会の大学に通って、いい会社に入らなきゃいけないんだよ」
何遍も繰り返された言葉。
かつてより父が祝詞のように唱えてきた、呪詛。
それを耳にして、僕の体はこわばってしまう。
「いいか、お前は“出来る子”なんだよ。俺みたいにならないように、勉学に励め」
ぐりぐりと、荒っぽく頭に手のひらが押し付けられる。
立ち去っていく背中に、なにも言い返せない。
── ◆ ── ◆ ──
Tシャツから露出した肌を撫でる、ひんやりとした夜風が心地よい。
左手に提げた鞄に確かな重みを感じながら、舗装がぼろぼろになったアスファルトの道を、星月の光だけを頼りに歩く。
いまは夜8時。
誰もいないだろうと、油断していたために。
「あら、蝉川くん」
背後からの声に驚き、勢いよく振り返ってしまう。
「……瀬戸さんか。えっと、こんばんは?」
「はい、こんばんは。ふふっ、驚かせちゃったかな」
さも面白そうに微笑まれて、どこか落ちつかない。
空気を変えようと、無難な話題を振る。
「こんな時間にどうしたの? もう、日も沈んじゃったけど」
「里田先生との話が長引いて。やっといま帰れるようになったところ」
「そっか。どんな話を?」
「これまで不登校だったから日数が足りなくて、これ以上は卒業に関わるって。だから、これからは通うことになるかも。よろしくね」
「あー、うん。よろしく」
話を聞きながら、ややと思いだす。
なぜ僕の苗字を知っていたのか。
気になり、口を開こうとするも、その前に瀬戸さんの言葉が差しこまれる。
「そういえば、この学校。離れのほうに旧校舎があるんだね」
ざざり。
吹く風が木々を揺らす。
「そう……だね。老朽化で使われなくなったって聞くけど」
「森の奥に佇む廃校舎。なんかノスタルジックだね」
冗談めかして笑う彼女から、目を離せない。
ぱちり、と視線があう。
僕の内側を覗きこむような紫の瞳に、なぜだか、すこし。
「ねぇ。ところで蝉川くんこそ、なにをしていたのかな?」
恐怖を覚えた。
「勉強してる途中に、学校に忘れ物をしていることを思い出してね」
「ふぅん」
瀬戸さんは軽く返しつつ、自分の制服のポケットを探る。
そうして取り出されたのは、最新式のスマートフォン。
慣れた手つきでそれを操作し、一枚の写真を、左手で僕にも見えるように掲げ。
「これ、蝉川くんだよね」
映るは、石を手にとり旧校舎のガラスを殴打する人影。
まぎれもなく、つい先刻の僕だ。
「……尾けてきてたんだ。瀬戸さんも、いい性格してるね」
「まぁね。帰ろうとしたら、君を見つけちゃって。つい」
いたずらに微笑む彼女を、見つめる僕の瞳はきっと冷えきっていることだろう。
「どうして、そんなことを?」
瀬戸さんが問う。
答えあぐねるものの、いざ口を開けば、意外なまでに言葉がなだれこんだ。
「限界だったんだ。親からの重圧が、期待が」
告げる。
僕がガラスを割るにいたったまでの経緯を、懺悔するかのように。
ほぼ初対面の彼女に語る内容ではないと思いつつも、止められない。
「ぜんぶ、嫌になったんだ」
あぁ、きっと。
誰かに聞いてもらいたかったんだろう。
もう正直、なにを言ったか覚えていないけれど。
一通りまくし立てて、胸のおりがすこし晴れたような気がした。
はたと、瀬戸さんの顔を窺う。
突然こんな話をされても困るだろうと、思っていたのだけれど……。
「そっかぁ。やっぱり、君は私に似てるね」
「えっ?」
「匂いがするんだよ。なにかが、割れたような匂い」
その発言に当惑する僕をよそに、彼女は満足げにうなずいて。
「うん、決めた」
そう呟いて、右の手のひらを差し出してくる。
いったい、どういうつもりだろうか。
「もうすぐ、夏休みが来るね」
「そう……だね」
「高一の夏は一度きり。せっかくなら、なにかしたくない?」
瀬戸さんの発言の意図は汲み取れないものの、ゆっくりと首肯する。
その反応を見て、彼女は続け。
「割れたまま月日を経て、大人になるなんて、私には耐えられない。だから」
掴め、と言わんばかりに、右手をこちらへと伸ばしてくる。
「海へ行こう。割れた子たちを集めて、お祭りに行こう。屋台を巡ろう。そして」
「そして?」
「みんなで浴衣のまま繰り出して……。その足でガラスを割りに行こう。旧校舎のを、ぜーんぶ」
その提案に、思わず吹き出してしまう。
「滅茶苦茶だ」
「だからこそ楽しいんだよ。ちなみに、君に拒否権はないからね」
彼女が左手に持つ、スマホが放つ光が視界の端でゆらゆらり。
「脅迫じゃないか」
苦笑して、僕も右手を伸ばす。
一陣の風に巻き込まれたから。
仕方ないことだと言い聞かせ、瀬戸さんの手を掴む。
今年の夏は、最悪で最高なものになりそうな予感がした。