どういうつもりですか? ~転生した悲劇の王妃ですが、前世の夫に求婚されています~
「私……この人を知っているわ!」お見合い用の肖像画を見て、小国の王女アンナリーザは前世を思い出した。
幼くして海の向こうの異国に嫁ぎ、文化の違いや粗暴な夫、その愛人に悩まされ、たった二十歳で幼い息子を残して息絶えた悲劇の王妃──それが、彼女だった。生まれ変わった彼女に求婚してきたのは、前世の夫だったのだ。
「またあの男と結婚なんて絶対に嫌!」恐怖と衝撃で倒れた後──アンナリーザは縁談の不審な点に気付く。どうして「夫」は二十年近く再婚しなかったのか。「彼女」の息子はどうなったのか。
前世の彼女を死なせた者たちに、再び関わるのは怖い。でも、敵を知っている今ならもっと上手くやれるはず。行方知れずの息子のため、前世の怨みを晴らすため、現世の幸せと安寧のため。アンナリーザは、前世の嫁ぎ先へと再び旅立つ。
お見合い用の肖像画を見るなり、アンナリーザは恐怖に凍り付いた。
マルディバル港国の海を望む謁見の間にて。国王夫妻と王女に恭しく披露された金の額縁、その中身こそ、アンナリーザを怯えさせた元凶だった。
「我がイスラズールのレイナルド陛下は当年三十八歳──アンナリーザ姫とは少々年が離れておりますが、いまだ若々しい美丈夫でいらっしゃいます」
使者が滔々と語る通り、アンナリーザの夫候補は美形ではあった。
日に焼けた精悍な顔を彩り、豊かに波打って広い肩に流れる髪は、炎のような赤。彼の国土を見据える翡翠色の目は鋭く力強く、唇に浮かべた微笑は余裕と自信と王の風格に満ちている。
アンナリーザが見蕩れているとでも思ったのだろうか。使者は満面の笑みで口上を続けた。
「王が戴く冠の黄金も宝石も、すべて我が国から産するもの。伝統浅い国ではございますが、貴国にとってもきっと良いご縁かと──」
政略結婚にはお決まりの美辞麗句は、右から左にアンナリーザの耳を通り抜けていった。だって、知っているから。聞くまでもなく、すべて。
イスラズール──海の向こうに発見された小さな大陸を、富を求めて渡った人たちが開拓して作った国。勇敢な冒険者だけでなく、食い詰めた山師や逃げ場を求めた犯罪者も多かった。肌を焦がす熱い太陽と、荒々しい自然。民の気風も、相応に激しくて──時に乱暴で。
王であるレイナルドもそうだった。肖像画より幼い少年のころから、ずっと。声を荒げるのも拳を振り上げるのも、ものに当たって壊すのも日常茶飯事で。だから、彼女は恐怖したのだ。
(私──どうして知っているの?)
整った顔を、怒りや嘲笑に歪めるレイナルドの姿がありありと見える。イスラズールの王なんてさっきまで名前を聞いたこともなかったのに。
震えを堪えて、倒れないよう必死に足を踏みしめる娘に気付かず、父は鷹揚に首を傾けた。交易で栄えるマルディバルのこと、王女の縁組は重要な商談だ。慎重に詰めなければいけない。
「確か、レイナルド王には死別したお妃がいらっしゃったのでは? だいぶ昔──アンナリーザが生まれる前のことだと記憶しているが」
「エルフリーデ妃のことでございますね。はい、確かに十八年前、たった二十歳で亡くなられました。まことにお気の毒に」
エルフリーデ妃。また、知っている。
大国フェルゼンラングの末の王女だった人。真珠と称えられた美貌は、でも、異国での日々で急速に褪せていった。豊かな黒髪は艶を失い、深い青の目には憂いを湛えて──鏡を見るたびに嘆いたものだ。
(え? 私──)
アンナリーザの髪は、輝く金色。目は、マルディバルの海の碧。エルフリーデ妃の姿なんて知る由もないのに。思わず自分の毛先を摘まんで色を確かめた彼女を余所に、父と使者のやり取りは続いている。
「これまで再婚を考えられなかった? 君主に妃がいないのでは不都合も多かろうに」
「我が王はお妃を心から愛していらっしゃいましたので。とはいえ亡くなって二十年ですし、国のためにも若く健康な姫君を、と──」
レイナルド王の気性や健康に問題はないのか、と。探りを入れた父に、使者は沈痛な面持ちで目を伏せた。その答えを聞いた瞬間、アンナリーザの頭の芯がカッと熱くなる。
(嘘! 彼は私を愛してなんかいなかった!)
彼女の中に燃え上がったのは、恐怖と戸惑いを圧倒する、激しい怒り。
「嫌──」
声高く叫んで。そして、その場に崩れ落ちながら。遠のく意識の中でアンナリーザは悟った。彼女は彼女だった。不幸な結婚をして、若くして死んだエルフリーデ。彼女は、前世の記憶を思い出したのだ。
* * *
遠くで赤ちゃんの声が泣いていた。エルフリーデがやっと授かった王子、クラウディオの声だ。ひと月前に生み落としてから、一度も抱いてあげられていない。顔を見ることができたのもほんの数えるほどだった。
痩せた手指が、絹の褥を虚しく掻く。我が子をあやすこともできない身が悲しくてならなかった。
(私、あの子にもう会えないのね……)
出産による心身の疲労と出血に加えて、イスラズールの高い気温と湿度、夫との不仲。いまだに慣れない食事、遅れた医療──すべてが彼女の命を削った。祖国で出産できていたら、と思うけれど、叶わなかった。夫も実家も、イスラズールの世継ぎはこの地で生まれなければ、と彼女の願いを退けたのだ。
(私は、死ぬために結婚したの?)
夫に愛されず、祖国にも見捨てられて。
孤独。悲哀。絶望。諦念。そして怒りと、憎しみ。彼女の痩せた胸に渦巻くあらゆる負の感情をさらに掻き立てる存在が、枕元に控えていた。
「王妃様、お気を確かに。お薬を持って参りましたから」
ふんわりと花咲くような笑みで杯を差し出すその女は、窶れ果てたエルフリーデと裏腹に美しかった。
この国の太陽に映える蜂蜜色の巻き毛と、潤んだ碧い目、豊満な身体つき。彼女の夫の愛人、マリアネラだ。男爵とは名ばかりの、怪しげな商売で財を築いた山師の娘。夫はそんな女を寵愛して、妻よりも先に懐妊させた上に王妃付きの侍女に取り立てていた。
「薬だなんて……!」
マリアネラが用意した薬など信じられない。エルフリーデは力を振り絞って杯を払いのけた。
「王妃様……」
零れた薬を見下ろして、マリアネラは困ったように笑う。夫が薔薇だとか天使に喩える可愛らしい顔で。エルフリーデが死んだら、この女は晴れて夫の傍で幸せに暮らすのだ。嫉妬と羨望が、エルフリーデの命の残り滓を燃やし尽くす。
「私のことはもう良いわ。でも、クラウディオは止めて。あの子を殺さないで。イスラズールの、次の王になる子なのだから」
大国の王女に生まれた身で娼婦まがいの女に懇願する情けなさに、涙が溢れて止まらなかった。
「ええ、王妃様。きっと。王子様は健やかにお育ち遊ばしますわ。だから安心なさって」
「きっと、よ……」
にこやかな笑顔で、マリアネラはエルフリーデを軽く宥めた。大嫌いな女の、信じられない言葉に縋るしかないなんて。不信と不安と屈辱に満ちた──それが、彼女の最期の記憶だった。
* * *
アンナリーザが目を開けると、見慣れた寝台の装飾が彼女を見下ろしていた。港国マルディバルらしく、波と遊ぶ人魚たちの絵と彫刻。謁見の間で倒れた後、自室に運ばれたらしい。温かく安全な場所にいると気付いても、でも、彼女の心は激しく揺れていた。
「……クラウディオ」
思い出した大切な名前を、そっと呟く。あのレイナルドとまた結婚するなんて、考えるだけで恐ろしい。でも、もっと恐ろしいことに気付いてしまったのだ。
(使者は、あの子のことを言わなかった……!)
誰の子が王位を継ぐのか。それは、王の再婚について一番大事な情報だろうに。なのに伏せていたのは──クラウディオに王位を譲る気がないからか。あるいは、あの子をもう殺してしまったから? 大国フェルゼンラングからの干渉を避けるために。マルディバルは、前妻の実家よりもずっと小さな国だから与しやすい、とでも? あのマリアネラは、まだ王の傍にいるのか。愛人の存在を隠しての求婚なら、ふざけているとしか思えない。
(あの男……また私を踏み躙ろうというの……!?)
エルフリーデとアンナリーザ、ふたり分の怒りは激しくて、彼女は寝室の扉がノックされていることにしばらく気付かなかった。
「アンナリーザ、もう大丈夫かな?」
「え、ええ……お父様、どうぞ」
父が、見舞いに来てくれたらしい。寝台に横たわる娘を見るなり眉を寄せたのは──よほどひどい顔色なのだろうか。
「お前が卒倒するなど珍しい。……やはり、二十歳も年上の男の後妻など嫌か」
「私は──お父様のご命令に従いますわ」
枕元に腰を下ろした父に、アンナリーザは俯いて答えた。エルフリーデだって、海を越えて嫁ぐなんて望んでいなかった。でも、許されなかった。国の大小は違っても、王族の結婚とはそういうものだ。でも──
「ふむ、では断わろう」
「え……?」
意外な言葉に思わず顔を上げると、父は穏やかに微笑んでいた。
「国益とお前の幸せを同時に得られる話は、またあるだろう。それに、フェルゼンラングに睨まれてまで進める話でもない」
「フェルゼンラングが? なぜ?」
前世を思い出した途端、かつての祖国の名を聞くなんて。勢い込んで尋ねるアンナリーザに、父は軽く顔を顰めてみせた。
「亡きエルフリーデ妃の実家だからな。故人の後釜を狙っていると思えば不快なのだろう。どう聞きつけたのか──ちょうど良く使者が来たのだ」
「そうでしたの……」
(本当に……ちょうど良いわ)
父に見えないように、アンナリーザは褥を強く握りしめた。死の間際のエルフリーデとは違って、今の彼女は精気に満ちているのが心強かった。
「お父様……私、フェルゼンラングの使者に会いたいですわ。イスラズールについて、もっと情報が欲しいですもの!」
エルフリーデが死んだ後のこと、クラウディオのこと。聞きたいことは山ほどある。かつての祖国も信じられる訳ではないけれど。でも、彼女はたった今決めたのだ。
もう二度と、流されて利用されるだけの人生は送らない、と。





