もう一度、お姉さまの微笑みを
茉里奈にとって、五十栖玲花はかけがえのない大切な人。お姉さま、と呼んでいる。
茉里奈は親の借金のかたとして、五十栖家に買われた。
転校手続きされ、五十栖家の令嬢の世話係として寮の同部屋に住み込みとなった。
以来、茉里奈は五十栖家の所有物だ。
五十栖家は極秘の魔法を操る家系で、玲花も時々不思議な力を使う。
茉里奈に魔法は縁遠かったが、玲花の魔法はいつも暖かかった。
「義務を果たした後で、長い長い蜜月を愉しみましょう?」
玲花はそう言って微笑んだ。
いつでも玲花に励まされ、茉里奈は幸せをかみしめている。
多忙になって行く中でも、玲花と共にいられる時間が増えたことを茉里奈は嬉しく思っていた。
だが、五十栖家と宗家の間には、様々な思惑が渦巻いていた。
茉里奈はいやおうなしに魔法を使う身への変貌を求められることになる。
壁を突き抜けて、黒猫が現れた。
毛足の長い黒猫は宙を跳ぶ。ソファーでくつろぐ玲花に、くわえていた手紙を渡し、すぐに、ひらりと美しい動きで方向を変え、行儀良く椅子に座る茉里奈の膝に乗った。
玲花の使い魔である猫はすまし顔だ。
茉里奈は、そっと温かみのある黒猫の背を撫でた。
「茉里奈、偽装結婚するわよ」
手紙を確認すると、長いストレートの黒髪を翻し玲花が告げる。
不意に強い不安が茉里奈を包んだ。
「偽装結婚? わたし? それともお姉さま?」
訊くと怖さが増してきた。茉里奈の動揺を示すように、肩口くらいのゆるふわの茶髪が震え、薄茶の瞳は見開かれる。
「茉里奈は、私の兄の小鷹と。私は、兄の恋人と」
ようやく準備万端、と、玲花は笑んだ。
玲花の恋人である茉里奈と、小鷹の恋人を、五十栖家の籍へと入れる。それが目的とのことだ。
「小鷹さま……」
怖いです、と、小さく茉里奈は呟いた。
「心配しないで。兄には、指一本触れさせやしないから」
宗家が取り持ち、結婚話はとんとん拍子らしい。
「お姉さまと一緒にいられますの?」
よほど心配そうな顔をしたのだろう。
「心配ない」
応えたのは、膝の上のラナだった。
「戸籍上は茉里奈が義姉よ」
仮縫い中の白いドレスを身につけた玲花は麗しく微笑む。深窓の令嬢らしく、とても綺麗な着こなしだ。
二人のウエディング・ドレスの仮縫いに手配された者たちが、玲花のマンションの広大なリビングを動き回っている。東京の高台で、リビングからは延々と続く都心のビル群が天望できた。
茉里奈は十六の時、五十栖家に買われた。五十栖家は茉里奈の義父の借金を肩代わりし、その代価として茉里奈を玲花の世話係にした。
瞬く間に転校手続きがなされ寮生活だ。玲花とは相部屋で、だが世話をしようにも既に使用人が複数いた。
茉里奈は、二つ年上の玲花に教えられながら勉学に励んだ。
「お姉さまの姉だなんて、嫌です。ずっと、お姉さまでいてください」
茉里奈は途中までドレスを着せられた状態で、言い募る。
蒼白な顔をしている茉里奈のふわふわ髪を玲花は優しく撫でた。
「五十栖家では、茉里奈は私の伴侶。皆、わかってる。戸籍なんてどうだっていいのだけど」
玲花は一旦、言葉を切った。
「茉里奈が正式に五十栖家の者になることに意味はあるの」
玲花は少し屈み、黒い瞳で茉里奈を見つめて笑む。
「意味?」
「そうよ。遺産も与えられる」
有形なものだけでなく、と玲花は呟いた。
五十栖家が組んだスケジュールで慌ただしい日々だったが、茉里奈はずっと玲花と一緒にいられて幸せだった。
玲花には不思議な力がある。使い魔の猫を使いこなすのもその一つだ。五十栖家の者は皆そうらしい。
合同の結婚式は特別な場所で執り行われ、茉里奈の実家の関係者は誰ひとり参列しない。
それは茉里奈をホッとさせていた。
母の連れ子の茉里奈は、実家では立場がなかった。
身の危険を感じながらの生活だった。
「借金のかたに、お前は売り払った」
義父にそう言われた時は、深く安堵したものだ。
実家は、資金援助を得るだけでなく、五十栖家の傘下にはいった。
そんな過去を振り返るわずかの間も押し流すように、結婚準備はどんどん進む。
「私たち婚儀のための城に、先に移るのよ」
部屋に駆け込んでくると、玲花は愉しそうに告げた。
「お城、ですか?」
挙式が城だと聞いて茉里奈は瞳を丸くする。
どこの城だろう? 長旅になると覚悟した。
しかしマンションの地下から車で十数分。五十栖家の邸へと車は入って行く。
「こっちよ」
玲花に手を引かれ、靴を履いたまま回廊を巡り離れへと入った。
奥の扉の前には、屈強な黒服の使用人たちが控えている。
「玲花さま、お待ちしておりました」
年配で品の良い男性が進み出て深々と礼をした。
「先に行くわね。通路を開くわよ」
玲花は左手で茉里奈の手を取り、右手を扉の中央に当てた。
きらきらきらと、砂金でもまき散らしたかのような光があふれ、扉が消える。
「さあ、行きましょう」
よく分からないままに、茉里奈は玲花に引かれて光に満ちた狭い通路へと足を踏み入れた。ふわりと、下降とも上昇ともつかない浮遊感。
時の流れがねじ曲がる感覚に酔いそうになった頃に、ぱっ、と視界が開けた。
「お城の中?」
装飾の美しい大理石の柱が林立している。見上げれば、沢山の曲線が入り乱れた高い天井。
広間らしきに居る。振り返ったが、扉など何もない。
ずっと先には、ガラス張りのテラスがあるようだ。
その向こうの景色は、明るい海だった。
日本ではないらしき場所に建つ城に入ってから、茉里奈の記憶は曖昧だ。
呪術めいた婚儀。仮面をつけた怪しげな参列者たち。玲花と迎えた新婚初夜。
花婿側から届けられた魔法が施され魔法具に入った液体――。
いつの間にか、五十栖家での唯一の義務であるという出産を、茉里奈は玲花と共に間近に控えていた。
「義務を果たした後で、長い長い蜜月を愉しみましょう?」
玲花は、いつもそう言って微笑む。
義務を果たした後でというが、城へと来て以来、茉里奈はずっと玲花と一緒だ。茉里奈にとっては、互いに宿した子を慈しむこの時が、すでに蜜月だった。
だが、ずっと不安はつきまとう。茉里奈は怖い、という言葉は必死に飲み込んだ。
「お姉さまと過ごせてわたし幸せよ」
幸せ、と、代わりに告げた。
「ごめんなさい。お姉さま。早く産んでしまいました」
茉里奈は申し訳ない思いで告げた。計画よりも十日も早い。
苦しみ続ける玲花とは真逆に、茉里奈はあっという間の安産だった。一目会うことも叶わないまま、産んだ子は五十栖の者が連れ去った。
「あら。心配ないわよ。星巡りはかえって完璧だったと聞いてる。お手柄ね」
苦しいだろうに、玲花は優しい笑みだ。
「やはり、茉里奈には、五十栖の力が宿ってる」
玲花の黒い瞳は歓喜めく。
「そうなんですか? まったく変わりないのだけど」
「力が育つには少し時間が必要なの。魂の時間がね」
十日後、計画どおり玲花の子は生まれた。だが何か様子がヘンだ。城の中は、慌ただしく走り回る者たちが右往左往している。
異常事態?
玲花の腹を喰い破って生まれたと、賛辞する声が聞こえた。
意味が分からず、玲花のいる部屋へ飛び込む。
清潔なはずの分娩室は、血飛沫で真っ赤の惨状だ。
「お姉さま!」
床はまき散らされた血で滑っている。誰も、その場に手をつけず、玲花は放置されていた。
「念願の子が生まれたと、皆歓喜してる」
玲花は微笑んだが、まだ息があるのが不思議な蒼白さだ。
声は弱々しい。
薄い布の掛けられた腹部は血に染まっている。
「手の施しようがないのです」
世話係の執事が茉里奈の背後から小さく告げた。
「茉里奈には、五十栖家の秘術が宿った。兄の子を孕った時からよ?」
茉里奈は震えながら、伸ばされた玲花の手を握り言葉を聞く。
「いいこと、良く聞きなさい。私を治せるのは茉里奈だけ」
念を押しながら玲花は掠れた言葉を続ける。
「茉里奈はこの地点に戻ってくる。未来から。力を手に入れて。私を甦らせる」
玲花は力を振り絞るように、何か魔法を閃かせた。
「お姉さま、死んではいやよ。わたしを置いて行かないで」
「力を手に入れるには、欲望のままに生きるのよ?」
弱々しい笑み。
「お姉さま! お姉さま! わたし、一人じゃ生きられない。お姉さまなしじゃ、一秒も、息もできない!」
茉里奈は玲花を留めようとして叫ぶ。
「待ってる。ここで。茉里奈との蜜月を……」
玲花は事切れた。
死なないで! 置いていかないで! 悲痛な魂の叫びが止まらない。
血塗れのまま色を失った玲花にしがみつき、揺さぶった。
「愛してる……、愛してるの! お姉さまっ!」
やがて号泣し続けるには気力も体力も尽きた。茉里奈は意識を手放す寸前で血塗れの床に倒れ込む。
「わたくしが万事整えます。玲花さまを、どうかお救いください」
執事の声が静かに響いた。
「お姉さまは、死んでしまったわ……」
焦点を失ったような視界の中、茉里奈は呟く。
死は、そこに在った。
「玲花さまは、この場所あの時で、待っておられます」
確信のままに語る声。虚ろな瞳で、茉里奈は執事を見上げる。
徐々に激情がこみあげてきた。
「お姉さまを救えるの? だったら、なんだってする! 悪魔に命を差し出すことだって厭わない」
泣き濡れた瞳は、微かな希望を視ている。
「その覚悟がおありでしたら」
執事は請け負ったように頷いた。
「玲香さまは、死んではいない。玲香さまが死んだなら、アタシは消滅しているはずだよ」
玲花の使い魔の猫は茉里奈の肩に乗り、力強く励ましてくれていた。