しあわせなお話
コスプレカメラマン、今浜はこう振り返る。
「私、今浜さんのこと大好きです。写真も上手だし、いつも私のこと綺麗だって褒めてくれますし!」
「今浜さん!今度は海で写真撮ってほしいです!」
「こんな素敵な写真が撮れる今浜さんを独占しちゃってバチがあたっちゃいそうですね。」
彼女、七尾と名乗るコスプレイヤーと知り合ったのは一年前のとある雪の降る日の屋内イベントだった。
別に昔からアニメやゲームが特別好きだったわけではない、人並み…だろうか。
昔からの知り合いの手伝いで手伝いに行った同人誌即売会。
そこで出会った一人のコスプレイヤーとの出会いから撮影にどっぷりとハマることになった。
七尾さんを撮ること、それは今や僕の唯一の楽しみかもしれない。
日本海に面したこの地方都市は豪雪地帯として知られていた。
高齢者は口を揃えてこう漏らす。
昔は機械もなかったし今よりずっと大変だった。
雪は年々減っている。
電気は止まらないし凍えて死ぬようなことはなくなった。
そんなこの街にも一日一日と雪の季節が迫っていた。
カーラジオからはいつもの地元放送局。
今浜の運転する車は市街地中心部にあるスタジオに向けて何もない道を走っていた。
市内を流れる一級河川の沿いの道は街頭すらなく、ただまっすぐ市街地へ向かって伸びていた。
特に聞きたい番組や情報があるわけではない。
ただなんとなくいつもカーラジオはつけっぱなしだった。
コスプレイヤー、七尾はこう振り返る。
「七尾さん、今日は私服までキャラと似た感じなんですね。すごく似合ってます。」
「今日イチバンに盛れてる写真!撮れましたよ!」
「いやほんと、七尾さん撮るために僕は写真続けているようなもんですよ〜。」
彼、今浜というカメラマンを、意識するようになったのは、たぶん初めてあった時からずいぶんたったときだったと思う。
鳴り響く機械音、エアーの漏れる音、モーターの回る音。
地方都市の工業地帯最大の広大な敷地を構え、町名、バス停、私鉄路線の駅名すらも会社名が入る大企業。
製品は日本全国どころか世界中へと日本から輸出され、その名前を知らない人はいないほどの大企業へと納入されていた。
莫大な雇用を生み出し、市の財政をも潤す大企業。
高校を出てから、そこで七尾は文字通りその会社の歯車として働いていた。
しかも、末端も末端の最末端だ。
来る日も来る日もベルトコンベアーから流れる製品に部品を取り付けていく。
作るものが変わる日はあるが基本的にやることは変わらなかった。
余計なことは考えない。
考えるだけ無駄だし疲れるだけ。
ただ、時間が過ぎ去るのを祈りながら手を動かす。
お願いだからラインよ止まらないで…今日は残業したくない…。
昼過ぎからの遅番勤務。
明日は今浜さんとのスタジオ撮影だった。
なんとしても23時前には家にたどり着いていたかった。
コスプレは、私にとって命より大切なことだった。
趣味、娯楽、そんな生ぬるいものではない。
依存、中毒…。
麻薬中毒者が麻薬を断てないように、私もコスプレを断てない中毒患者なのかもしれない。
少しの希望を打ち砕くけたたましい警報音が作業場に鳴り響いた。
目の前の作業指示を映し出すディスプレイが絶望の文字を映し出す。
いつもならこの表示は希望の表示だった。
なぜならば川下の担当が問題を解決するまで待つしかないからだ。
ぼーっとしていてもお給料が発生するチャンスタイム。
でも、今日だけは起きてほしくなかった。
「私も案外現金ね…はぁ。」
七尾がこの日家にたどり着いたのは深夜2時をすこし過ぎた頃だった。
『忘れ物をしてしまいまいました。30分ほど遅れるかも…ごめんなさい。』
そんなメッセージが飛んできたのは今浜がスタジオの最寄りのファミレスに車を停めた時だった。
焦らなくていいと了解のメッセージを返していつももファミレスへと入る。
モーニングを流し込む食事の予定だったが、どうやらゆっくり朝食をとれるらしい。
昼過ぎからの雪予報。
空の雲は低く、風は冷たくなっていった。
「すいません、お待たせしちゃって…」
結局2時間弱の遅れになったが無事撮影はスタートできる運びになった。
正直忘れ物の遅刻などメイク時間の誤差でしかない。
そういつも今浜は思っていた。
時間が押していても彼女の衣装とメイクはいつも完璧だった。
焦っていたのかまだ少し息が荒いように感じた。
今日は新しい衣装、いつもより高めのヒール。
ふらついているのはそのせいだろうか。
まだ時間はある。
たとえ実質の撮影時間が1時間しか無かったとしてもなんとかする自信はあった。
「任せてください。今日も完璧に撮って差し上げます!」
今浜は大げさに敬礼をする。
「はいっ!榛名は大丈夫です。」
七尾さんも大げさに敬礼をした。
お互いに笑いがこみ上げてきた。
そうだ、きっと気のせいだ。
いつもの七尾さんだ。
問題ない。
擬人化の戦艦のコスプレ衣装を身にまとった七尾さんは、実史のお召艦のように輝いていた。
そう感じた。
「すいません、ちょっと休んでいいですか?」
撮影を始めてから30分もしないうちに七尾さんがそんなことを言い出した。
いつもなら僕から提案する休憩。
しかも初めて間もない。
少し、更衣室を出てきたときの気がかりが頭をよぎる。
七尾は通路のソファに座り込んでずっと下を見ていた。
「大丈夫ですか…?もしかして今日体調が悪いんじゃ…?」
「あ、いえ、きっと…ちょっと安めば…」
そう言って、彼女の体は力なくソファーから床に崩れ落ちた。
「七尾さん…?七尾さん!すいません!誰かスタッフを!」
スタッフが血相を変え走ってくる。
「大丈夫ですか?どうされました??」
声をかけても返事がない。
救急車を呼ぶべきか…それとも…
「あの!私たち!市立病院の看護師です!カメラマンは眼科ですけど…どうしましたか?!」
後ろを振り返ると男装のアイドルが立っていた。
隣で撮影していた女性コスプレイヤーグループだった。
その姿は後光が見えた気がした。
本当に助かった、そう思えた。
彼女たちの働きはすごかった。
スタッフも私も頭が上がらないくらい正確で素早かった。
救急車が到着する頃には僕もスタッフも落ち着きを取り戻していた。
駆けつけた救急隊に趣味がバレたのでは…なんて無駄な思考ができる程には。
七尾さんから会って話をさせてください。
そんなメッセージが飛んでくるのはそれから一週間後のことだった。
その日まで、正直生きた心地がしなかった。
会社で普段しないようなミスをするくらい、僕の心はここには無かった。
「CTもMRIも異常はないですね…。眼科の検査結果待ちですが、過労と睡眠不足による一過性かと思われます。外傷も倒れた際の打撲と切り傷だけですね。少し跡は残ってしまうかもしれませんが…。」
両親と共に私は医者の診察を受けていた。
倒れたことは覚えていない。
48時間以上、眠ったままだったという。
母さんも父さんも、お医者さんに感謝を述べている。
私は話なんて一言も頭に入ってこなかった。
「今はきっと混乱していると思います。なんで倒れたかも分かっていないようですし。しばらくは安静に。念の為何日か…そうですね1週間くらい…入院させたほうがよいかと思います。」
なんでだろう。
体中に一切力が入らない。
ボーッとする…。
目を開いているはずなのに、真っ暗だった。
包帯でも巻いてるのかな。
どこを向いても真っ暗闇が広がっていた。
そんな中、お母さんの言葉が耳に残った。
「七尾の!七尾の目は見えるようになるんでしょうか…!」
え、私の目、見えて無いの…?
真っ暗闇の世界から、更に突き落とされた気がした。
珍しくミスを連発してしまった後に知り合いが入院していることを伝えたらすんなりと休みをくれた。
誰かは聞かないがよほど大事な人なんだろう、会えるようになったら会ってこい。
そんな言葉を思っていても声を大にして言ってくれる上司を持ったことは誇るべきことだと思った。
七尾さんに連絡をもらった翌日、僕は市立病院に向かって車を走らせていた。
昼過ぎからの面会時間には余裕があった。
昨日までずっと雪が降り続いていたが病院のある市街地中央部は除雪車と道路の融雪装置がフル稼働していた。
いつものラジオ局は夕方から雪の予報を伝えていた。
七尾さんの容態は何も聞いていなかった。
聞くのが怖かった。
何も無いのに1週間以上入院しているなんて普通は考えられない。
何か知らない病気が…倒れたときの後遺症が…。
いろいろなことが頭をよぎった。
いつも撮影前に行くファミレス。
撮影後もよく七尾さんとアフターで使っていた。
極端に偏食の彼女はいつもポテトフライとドリンクバーのコーヒー。
あとはデザートのバニラアイスだけを食べていた。
野菜はあまり好きじゃない。
肉も魚も形そのままじゃ食べれない。
ポテトは必ずタバスコたっぷり。
僕は彼女が食事している姿を見るのが好きだ。
フォークも舌がピリピリするから嫌と言って必ず楊枝でタバスコまみれのポテトを口に運んでいた。
ニコニコしながらポテトをぱくぱくと口に運ぶ姿が本当に好きだった。
秋にきのこづくし天ぷら定食を頬張っていた僕に聞いてきたことがあった。
「その舞茸?って美味しいんですか?母がきのこ嫌いで食べたことないんです。」
僕は泣く泣く舞茸の天ぷらを差し出した。
「今浜さんの食べてるものならなんだか食べられる気がします!」
その後、私は秋の味覚を丸々食べ損ねる結果となった。
この店に来ると、彼女の笑顔ばかり思い出す。
彼女にかけるべき言葉を考えていた。
彼女が好きだった熱いコーヒーは、もう冷たくなっていた。
今日は夕方から雪が降るらしい。
そんなことを看護師さんが言っていた。
まだまだふらつく足元。
車椅子で連れてって行ってくれはするもののトイレ以外立ち上がるのも億劫だ。
毎日暇で暇で寝ているような、起きているような、ずっとそんな時間を過ごしていた。
一昨日くらいからやっとスマートフォンの文字を読めるようになった。
長時間は見ていると目が痛くなってくるが、私にとっては大きな変化だった。
右目はまだ真っ暗だ。
ずっとこのままなのかな。
毎日同じことを考えていた。
今日は母親が朝早くに着替えを持ってきた。
パートに行く前の僅かな時間だったけど、少しわかるよと言ったらお母さんは泣いて喜んでいた。
そんな顔でパートに行ったら変なふうに見られちゃうよと言ったら、精一杯笑ってくれた。
明日はお父さんも来るからね、と何でも言っていた。
自業自得みたいな入院生活でもお母さんは底なしに優しかった。
昔から少し怒ったような仏頂面を少しも変えないお父さんの顔を思いだす。
「お父さんはいつもどおり?仏頂面?」
私はそんな言葉をお母さんに投げかけた。
そうね…。とお母さんはうなずいた。
「元気よ。でも、私と二人だけのときはよく笑うのよ。あなたは知らないでしょうけど。恥ずかしいのかもね。」
そう言い残して、お母さんは病室を後にした。
「7階の18号室です。エレベーターに乗る前に手の消毒にご協力ください。あと、院内感染防止のためお持ちでしたらマスクも着用ください。」
面会受付を済ませエレベーターへと向かう。
市内どころか県下でも最大規模を誇る市立総合病院。
倒れてから七尾さんの顔が頭から離れなかった。
今日やっと会える。
不思議と歩みは軽かった。
面会者用エレベーターで7階まで上がる。
ガラス張りのエレベーターからは市街の先の広大な田園風景が雪で染め上げられていた。
市庁舎よりも高い建造物が病院とは、なんとも皮肉な光景かもしれない。
そんなことを思った。
「このまま進んでいただきまして、左側の一番奥になります。受付で済ませているとは思いますが手の消毒とー」
ナースセンターでの記名を済ませ七尾さんの部屋の前まで来た。
本名が掲げられたプレートの部屋をノックする。
「はい。どうぞ。」
彼女の声は、少し、弱々しかった。
「今浜です。」
「今浜さん!?来てくれたんですね!」
彼女の明るい声が聞けた。
ベットの端に腰掛けた彼女は笑顔だった。
あの日、倒れた彼女とは思えないくらい、彼女はよく喋った。
こんな彼女を見たのは初めてかもしれない。
起きてすぐの話、検査の話、会社から連絡があった話、心配してた両親の話。
なんとなく椅子に座るきにはなれず、彼女から少し離れた壁に寄りかかって話をした。
「片目がね…まだ見えないの…。」
そう口を開いたのは、部屋に入ってから随分たってからのことだった。
「先生は、一過性の障害だろうって…。もう片目は見えるようになってきたし…。」
彼女はずっと笑っていた。
こんなに長い時間、彼女の笑顔を見ていたのは初めてかもしれない。
病室に、一瞬の静寂が訪れた。
角部屋、眼科入院病棟は幸運にも何部屋か空きがあったらしい。
それか先生の配慮か、割と病院の小さな雑音もこの部屋には届きにくかったのかもしれない。
「あの、今浜さん!あの撮影の続き、いつやりましょうか?退院したらすぐにでもー」
「あの、そのことで!」
彼女は、どんな顔をするだろう
私は彼女に、ずっと笑っていてほしい。
「お休みでもいいと思うんです。少しの間コスプレから離れたほうがいいと思うんです。こんな倒れるまで続けてちゃきっと身体に良くないと思います。」
彼女から、笑顔が消えていた。
見えているはずの片目で、ずっと僕の方を見ていた。
「私は七尾さんとの撮影がすごく大切な時間なんです。でも、こんなボロボロになるまでして僕に付き合って撮影することないんじゃないかって…。」
彼女はきっとまた無理をしてしまう。
「今回だって、たまたま大丈夫でしたけど、もしかしたら次はー」
でも、少しでも僕の話しを聞いてくれれば…。
多少怒るかもしれない。
でもまた、笑って撮影の予定を言ってくると思う。
そう思っていた。
「止めてください…。」
彼女の、呟きが、時を止めた。
ふらふらと立ち上がった彼女は、さっきまで僕を見据えていた視線は、今は無機質な床を見ていた。
音も、空気も、光もその一瞬はこの世界から消えた…。
冬の早い日没。
太陽はもうすぐ今日の役目を終えようとしていた。
小雪が舞う窓の外、温かい病室。
この温度差は私達の間にもあるのかもしれない。
手狭な個室病棟の一室には廊下以上の静寂が流れていた。
面会時間も、あと僅かだ。
「今浜さんは私のなんなんですか…?」
私の口から溢れた言葉はひどく刺々しいものだった。
今浜は、下を向いていた。
ノイズのかかったような視界は俯いた今浜を捉えていた。
違う、こんな事を言いたいわけじゃないのに。
「なんでなんですか…なんでわかってくれないんですか…」
これも違う、これは、自分が言われなくちゃいけない言葉だ。
「なんで何も言ってくれないんですか?」
私は、叩きつけるように叫んだ。
「僕は、七尾さんのことが大切なんです。こんなの間違ってます。けど、七尾さんは僕にとってー」
バシン…
気づいたら、私の手は今浜の頬へと伸びていた。
放物線を描いた今浜のメガネは病室の角へと転がっていった。
手のひらは赤く、少しヒリヒリした。
人に手を上げたことなんて今までなかった。
今浜は、私を見ていた。
何も、まるで私が見えていないような、そんな目をしていた。
「ごめん。」
そう言って今浜は少し頷いた。
「今まで本当に楽しかった。ありがとう。」
部屋の隅に転がったメガネを拾いあげ、私に背を向けた。
なんで、なんでそんな言葉を今言うの?
後ろを向きあるき出す。
病室の扉が、閉じられたとき、それは確信に変わった。
今になって、こうなって、初めてわかった気がする。
手を伸ばしても届かなくて、微笑んでも褒めてもらえない。
見えない片目から涙があふれるのがわかった。
「私、ずっと今浜さんのことが好きだったんだ…」