謎の飛行物体
時は天正十年(一五八二年)の頃、山城国のある貧しい農家に武者が押し入った。
全身返り血を浴びた凄惨な成り立ちを目にし、夜も更け寝ようとする矢先の善良そうな夫妻は、生まれたばかりの赤子を必死に抱え、ただただ恐怖に竦みあがるばかり。
武者から刃を突きたてられ、食べ物を強要された。突然やってきた災難に震えながらも従うしかない。
家内には囲炉裏が中央にある以外は、隅に薪と藁が積み上げられてあるばかりの粗末な住まい。
ただ外で捕らえてきたのであろうか、鳥かごに小鳥が飼われている。
夫妻は乱暴されることを恐れて脅しに素直に従い、早く出て行ってくれることを願った。
しばらくして屋外が騒がしくなり、人の気配が感じられた。
荒地に立つ一軒家で、耳慣れない物音はすぐに聞き分けられた。
やがて戸をたたく音と同時に怒鳴り声が。
「開けろ、改めだ!」
何度も繰り返される激しい音。
武者から静かにしているよう命じられたが、騒ぎに驚いた赤子が突然泣き出し、かごの中の小鳥が暴れだす。
その声を聞きとめた外の男たちは、更に激しく戸をたたく。
「早く開けろ。開けないとひどい目に合うぞ!」
武者はかんぬきをしっかり閉めたままで、二人にじっとしているように命じた。
夫婦は刀で制されて、泣いている赤子を不安げに抱きかかえているしかない。
「やはり明智奴め、中に居るな。ようし出てこないなら火をつけるぞ」
どうやら、合戦に敗れた一族の残党のようである。
武者はどうせ出て行っても斬られるとわかっているため、覚悟を決めたようだ。
外の様子はなにやら慌しい。なにかに火がつけられる音が聞こえる。
赤子は泣き続けたままで、夫婦はようやく命の危険を感じた。
燃え木の煙が隙間から入り込み、臭いが広がり始めた。
夫はついに決心する。
武者が外を気にしている隙をみて、丸棒を手にしてその背後に回る。
そして思い切り武者の頭をたたいた。
まともに殴打された武者はたまらず横転。その間も煙は充満してきた。
夫は妻を急き立て、一刻でも早く外に出ようとかんぬきを外す。
妻は赤子を抱え、夫は鳥かごに気づき手にとって戸を開けた。
「お助けください!」
大声を張り上げながら外に飛び出す。
しかしながら救いを求める彼らの期待は空しかった。
二人が走り出た途端、男たちの刀が一閃。
赤子と鳥かごはその手から離れ、路上に放り出された。
「これは百姓だ。まだ明智奴は中に居るぞ」
数人が家屋に押し入る。
そして中で少し騒ぎがあって、武者の呻き声がした後は、静けさが戻った。
男たちは血塗られた刀を手にして、中から意気揚々と姿を現した。
と、そのとき急にまぶしくなり、周囲が明るくなった。
頭上からの青白い光の束が地表を照らしている。
男たちは空を見上げた。
そこに見たものは、光輝き、夜空を覆い隠すような巨大な物体。
男たちは、初めて目にする化け物のように思えた。
彼らは恐怖におののき、一目散にその場から逃げ出した。
その物体は動かず、ひたすら地面の一点に光を照らしている。
そこには泣き続けている赤子と、鳥かごで騒いでいる小鳥がいた。
*
暗黒の宇宙、銀河系の中心からおよそ百万光年離れた位置を、猛スピードである物体が移動していた。
その物体からは強い光が放射されており、あたかも小さな恒星のようにも思える。
大宇宙の規模からすると、ほんの小さなゴミ粒にすぎない。けれども、その光源はかなりの速度で、しかも意思をもって目的地を目指していた。
その方向には我々の住む地球を含んだ太陽系があった。
距離からすると相当遠くに位置するものの、徐々に近づいていく。
*
「お父さん、お父さん、お向かいの奥さん、血相を変えて家から出ていらっしゃいましたよ。それもお子さんを大事そうに抱えて、なんだか心配そうな表情でお気の毒。お出かけなのかしら、この時間帯に珍しいわね」
とケイト老夫人は、暖炉の前のソファに腰掛けてひたすら本を読む夫のベンに声かけた。
が、彼からは何の反応も得られない。
「あら変ねえ。また戻られるみたい。何か忘れ物かしら。いやそうじゃないわ、なんだか悩んでおられるようね。また思案に暮れながら車のところまで向かってらっしゃるもの。ねえ、お父さん・・」
その時、ケイトは振り向いてはじめてあることに気がついた。
そして、外の様子を眺めていた窓際を離れベンの所まで移動し、肩に手を添えて改めて耳元で名を呼んだ。
「ベン、お父さん、お隣さんが大変よ」
「なんだ、ケイト、何か言ったか?」
彼は慌ててそばに置いた補聴器を手繰り寄せ、耳に取り付けた。
寄る年波のせいか耳が遠くなっており、普段の会話には難聴を補う機器が欠かせなくなっている。
「お向かいさんの様子がおかしいの。赤ちゃんを抱いて外に出られたのはいいけれど、何か困りごとがあるようで、玄関先を行ったり来たりで一人で思い迷われているようよ。トラブルに巻き込まれたのかしら。私達でお役に立てることがあるかどうか、伺ってみたらどうかと思うのよ」
再び彼女は窓の側に移り、カーテンを引いて外を覗き見た。
夫のベンは調整用のダイヤルで感度を合わせながら、またかと言うような渋い顔つきで答えた。
「買いものか、何か急用が出来て、出かける必要があるんじゃないのか。たいした理由でもないんじゃあ・・」
「あら、車に乗られたわ。どこに行かれるのかしら、とうとう決心がついたようね」
「そうだろうよ。何か理由があるのさ。ケイト、よそのことなどあまり詮索しないほうがいいぞ。それぞれの家庭には外に知られたくない事情があるかもしれないし、ましてや、向かいのご夫妻からすれば我々は、一回りも離れた年寄で話し相手としても嫌がられるだけさ。気になっても見ていない振りを装って、そっとしておく方がいいよ」
リビングで言葉を交わしている老夫妻も、今の住居に住み着いてから、かなりの年月が過ぎている。
子供も男女数人育てたがすでに家から離れ、それぞれの家庭を持って孫も生まれていた。
時々子供の親となった息子、娘が家族を伴ってにぎやかに顔を出すものの、もう何年も二人だけの退屈で単調な生活をこの家で過ごしている。
夫のベンも数年前までは暇つぶしに仕事に就いていたが、耳を悪くしてから、時々散歩に出かける以外は自宅にこもりがちになった。
妻のケイトは定期的なポーカー仲間との集いが唯一の娯楽で、住居や庭の手入れ、清掃をするかたわら、ご近所の動静を観察することも楽しみのひとつとなっていた。
「でも、かなり深刻そうに見えるわ。ご主人も例によって何日かお仕事から帰って来られないと思うし、奥さんの手にあまるようなことでなければいいけど」
「あまりお節介な真似は控えたほうがいい。以前にも君が家の中を覗くって苦情があったばかりじゃないか。困ったことが持ち上がっても今はご主人と簡単に連絡が取りあえるさ」
「あら、あの時は奥さんの誤解よ。私は親切に知らせてあげたのに勘違いされたのよ」
「確かにそうかもしれないし、ご主人から留守中よろしくと頼まれてもいる。だからと言ってこちらから親切の押し売りをすることはないさ。ましてや今は子育てのデリケートな時期で、こちらの好意も逆に相手の神経を逆なでするとも限らない。普段も挨拶程度で、向うから頼ってこない限り、さりげなく見守るのが問題なくていいよ」
「もちろん私も出しゃばったりしないわ。でも主婦としての勘で、今日の彼女は何か思い詰めているような気がするの。間違いであったらいいのだけれど。とうとう車が走りだしたわ。買い物ではなさそうね。いつもの荷袋持ってらっしゃらないもの」
この後も向かいのハワード夫妻に関する話題は尽きなかった。
*
アメリカ、ニューメキシコ州の高山に設置されている天文台に、一人の電波観測技師が働いていた。
彼の名はジョン・ハワード。
仕事は天文台の電波望遠鏡で宇宙から飛来する電磁波を観測、解析することにある。
近年、宇宙に存在する天体、その構造についてはかなり解明されてきてはいるが、まだまだ未知な部分が多い。
電波望遠鏡での探査は、その想像を絶する途方もない大規模構造の謎に光を当てるべく、一躍を担っているのである。
彼は数年前にニューヨークにある宇宙観測センター本部から、妻のナンシーを伴ってこのニューメキシコ州に転勤してきた。天文台は頂上付近にあり、ナンシーと暮らす町からは、月に日を決めて泊りがけの観測活動を行っている。
彼女は移った当初からニューメキシコの片田舎での生活を嫌がった。
今まで大都会に慣れ親しんでいただけに、どうやら極端に人家の少ない土地環境は彼女の肌に合わないようである。
ジョンは月に何度か、ナンシーのご機嫌を取るために、気の合った仲間同士のホームパーティーやレクリエーション等の寄り合いに疲れた体を押して足を運ぶ必要があった。
観測は一日中、深夜も行われており、所員が交代で携わっている。
その範囲は天文台の位置する緯度から捕獲できる天体に限られている。
現在はコンピューターを利用し、出来る限り自動観測制御が図られているものの、最終的なチェック、判断は所員の役目で、根気のいる仕事には変わりはない。
天文台まで道は整備されているが、居住地からかなり離れており、移動にはヘリコプターを利用している。
ところが天候によっては、ヘリが飛ばせなくなり、しばらく缶詰になることも。
従ってただでさえ不規則な生活サイクルに拍車がかかり、かなり厳しい作業が続くこともある。
けれどもジョンにとり未知の宇宙は、体の疲れなど気にならないほど魅力的な対象であった。
そのジョン夫妻にも去年、待望の赤ちゃんが生まれた。しっかりした医療設備のないこの土地で出産することを、最初ナンシーも不安がったが、直前に彼女の母親がニューヨークからやってきて、無事男の子が生まれた。
母親が滞在中は、子供の世話を手伝ってもらえたが、彼女が帰ってからは、ジョンも休みの間は極力、子守に時間を割くこととなった。
彼も好きな仕事のためならばと、出来る限り妻の負担を軽くするように心がけた。
天文台では夜勤にそなえ、日中に寝ていることもある。
たまに目覚めて外に出ると、岩肌の露出した峰がどこまでも続く単調な風景が広がっている。
森林限界の境に位置する環境で、唯一心をなごませてくれるのが、人を恐れない山燕である。
小さな山燕は、うるさくさえずりながら、所員たちのほんの近くまできてたわむれている。
ただ、これといった変化のない天文台の日常は、毎日同じパターンの繰り返しであった。
ジョン・ハワードの勤務スケジュールも自宅に戻れる前日となっていた。
妻のナンシーも育児に疲れてきている頃でもあり、しばらくは子守に専念しなければと思うと、ちょっぴり帰るのが億劫でもある。
母親がニューヨークに帰ってから、以前にも増して小言が多くなり、夜に泣かれるため睡眠不足だ、家事もままならない、買い物も大変等々、電話で訴えられることが頻繁で、もともと外出好きの都会的な性格のため、愛情をそそぎ労力を惜しまずにする必要のある子育てには向かないのではと、ジョンは考えながら翌日の帰宅の準備をしていた。
その時、管制室から呼び出しがかかった。彼自身の主要な任務は電波望遠鏡がキャッチした信号を分析し、発信源がなにかを特定することにある。
今回も宇宙線のようなものが見つかったのかなと、思いながら足を運んだ。
「どのあたりかね?」
入るなり同僚のマイクに聞いた。
「白鳥座A―2付近です。前回の探査の時は無かったものですから、微かですが一定のマイクロ波が確認できます」
銀河中心からかなり外れたところだ。
「そのあたりの恒星、星団の存在は?」
「ありません。また、この波長からは銀河外の宇宙線の可能性もなさそうです」
「どこかの国の静止衛星・・」
「いえ、それも確認しました。宇宙局からは現在その位置には気象衛星、軍事衛星等はないとの連絡がありました」
ジョン・ハワードはモニターを見ながら、まだ信号が散発的な状況が考えられるため、結論を出し得なかった。
「よし、そのまま照準を合わせ、観測を続けてくれたまえ、それから、他の天文台、本部にもその旨連絡してほしい」
地表からの妨害電波の可能性も残っており、そのまま様子を見ることにした。翌日、彼は予定通りヘリで下界に戻った。
*
自宅に戻るやいなや、予想通りナンシーから悲鳴の入り混じった苦情を、早速聞かされる羽目になった。
「ジョン、私もういやだわ、こんな所で暮らすの。所長さんにお願いして早くニューヨークに帰らせてもらいましょうよ。朝から晩までエドのお相手ばっかり。私もうたくさんよ。退屈で死にそう。おまけに毎日寝不足だわ」
ジョンはやれやれと思ったが、すぐに慰めにかかった。
「ナンシー、子守に大変なのはニューヨークに居ても同じだろ。ある程度大きくなるまで、赤ん坊が深夜に泣くのは仕方ないじゃないか。世の中の母親誰もがそういった経験をしてきているんだし。じゃあ何かい。君はわが子でも赤ん坊は好きじゃないのかい?」
「そんなこと言っているんじゃないわ。私だってエドは可愛いし、愛しているわ。でもニューヨークだったら、両親、姉妹もいるし、お友達も多いでしょ。育児していて泣かれても気が紛れるわよ。ここはどう。お知り合いもわずか。あなたのお仕事の関係の方だけ。おまけに私、あの方たちとは肌が合わないのよ。ご近所の人たちだってお年寄りばっかり。だから気がめいった時、エドに泣かれなかなか寝なかった時なんてイライラするわ!」
これ以上説得しても、火に油をそそぐようだ。
ひとまずナンシーを落ち着かせようと方向転換。
「わかった、わかった。それほど言うんなら一度所長に話してみるよ。だからもう少し辛抱してほしいんだ。僕も今回の休みはできるだけエドのお相手をするから」
なんとかヒステリックな心境を鎮め、休日はベビーシッターに専念することにした。
ナンシーもその間、比較的のびのびと過ごすようになったが、休日が終わる日になって、くれぐれも所長さんにお願いするようにと、ジョンに念押しすることは忘れなかった。
*
天文台に到着するや管制室にまっすぐに向かい、交代者との打ち合わせを行った。
「まだ受信しています。それも徐々に信号は強くなってきています。つまりこの発信源は移動し近づいています」
「彗星では?」
「いえ、キャッチした電波形状からは、太陽に引き寄せられて動いているものと異なります。更に信号源の移動距離を算出してみました。この数字です」
と、モニターにキーボードで打ち出す。
それを見たジョンは信じられなという表情で言った。
「なんというスピードだ。これは。光学望遠鏡で確認は?」
「出来ません。ハッブルで捕えようと試みましたが無理だとの回答です」
「方位は?」
「真っ直ぐ地球に向かっています。このままで軌跡を計算しますと、あと2週間で・・」
「何、そんなに早く!我々の電波望遠鏡で検出した強烈な電波を放ったほんの小さな天体が、想像を上回るスピードで地球に近づいているというのかね。いったい何なのか誰か説明できるかね?」
「いえ誰も。本部の観測センターでも議論していますが、結論は出ずじまいです」
この知らせは特定の機関だけに知らされていた。
観測可能な世界各地の天文台が白鳥座付近に照準を合わせていたが、一般には無用な動揺を起こさせぬよう報道されていない。
意見は種々寄せられている。大爆発を起こした超新星の残骸、中性子星の伝送波、もちろん知的生物の衛星ではないかとか。
けれども、いずれも証明することは現在の技術レベルでは不可能であった。
*
とりあえず、その天体が地球に最接近する数日前に、ジョンは休日のため自宅に帰った。
だが、今回はすぐに天文台に戻るつもりである。相変わらずナンシーは、エドが泣きすぎて困ると愚痴をこぼした。
確かに元気な赤ん坊であった。夜、寝ついてからも平均二、三回は泣き出す。
かなり大きい声のため、否応なく起こされ、ミルクを飲ませあやしながら寝かせにかかる。
彼はナンシーに慰めるように伝えた。
「なに、元気な証拠だよ。無事健康だからこそ声も大きいんだ。その内、泣く回数も減ってくるから大丈夫だよ。そうそう、所長がね、私もここが長いので、そろそろニューヨークに帰そうと思っていたところだと言っていたよ。もう少しの我慢だ」
ナンシーは幾分元気が出たようだ。
出発の前夜も赤ん坊が一回だけ、それも小さな声であったため、かなり楽であったようである。
次の日の朝、その様子に安心して天文台に向かった。
*
「もう数日です。現在、土星軌道付近だと思われます。けれども、世界のどの天文台でも正体を確認できていません。かなり小さな光源が移動している模様です」
「うむ、そうすると中性子星といった天体の可能性もなくなったわけか。とすると、知的な存在物体ということになる」
「ええ、ところが、昨日から送られてくる信号に変化があるんです」
「と言うと?」
ジョン・ハワードは興味深げに尋ねた。
「本来の単調なマイクロ波とは別に干渉波と、それにかなり高波長の偏移波が混在してきているんです。最初のころにはなかった信号です」
「我々に何か知らせようとしているのかね」
「いえ、本部とも連絡をとったんですが、全くのワンパターンの信号で、意味不明とのことです」
その夜ももちろん信号源に照準を合わせて観測を続けた。
その後、信号には変化はなく、相変わらずの波形の繰り返しで、本部の解析の結果も答えは得られなかった。
*
ようやく陽が昇り始め、ジョンも一眠りしようと思った矢先、ナンシーから電話が入った。
かなり慌てている。
「ジョン、エドが妙なの。昨日から泣き声が小さくなってきて、昨夜はとうとう一度も泣かなかったのよ。朝起きてみたら、一人で泣かずにぐずってるの。おしっこも、大のほうもしているのに、泣かずに朝までそのまま。ミルクをあげてみたら、お腹が空いていたらしく、一生懸命飲みだしたの。別に熱があるわけでもないし・・」
「いや、そういう特性は育っていく過程であることかもしれないよ。心配だったら医者に連れて行って診てもらったらいい」
「ええ、そうするわ」
ナンシーは不安そうではあったが、電話を切った。
少し気にはなったが、医者に行けばなんとかなるだろう
。眠る前に朝陽を見ようと建物から外に出た。
周囲の山々が光に照らされ、遠くまで澄みわたる美しい光景。
いつもと同じ景色ではあったが、ふと物足りなさを感じる。
「なぜだろう」
今日は非常に静かである。
ジョンは気のせいだと思いつつ、しばらくして寝室に引き上げた。
*
夕方、ナンシーからの電話で目が覚めた。
「ジョン、今日朝一番にお医者さんに行ってみたの。でもどこも異常はないって言うのよ。医者にもさっぱり原因はわからないって。それで今日一日様子を見ることになったんだけど、泣かないのよ。お腹空いても、便をもよおしても、泣かないの。ママに電話で聞いても、そんなことなかったって言ってるし、喉がおかしくなっちゃったのかしら。ジョン明日帰ってきて。私心配で心配で・・」
結局、明日昼過ぎの便で、とりあえず帰ることに同意した。
今晩どうしても不安ならば、子育ての経験豊富な、お向かいの老夫婦に相談すれば親身になってアドバイスしてくれるはずと答えた。
彼は普段留守がちのこともあり、何かと気を使って接しているが、ナンシーは二人が苦手なようである。
ところが、彼の同僚の一人が、同じように赤ん坊が泣かなくなったと連絡が入った。
奇妙なことが同時に起こるとはと不思議に思いながらも、陽が沈んだ後、観測任務に就いた。
その日も前日と変化はなく、ワンパターンの電波を受信。現時点でもその特徴を全力で調査、解析中だが、一向に答えは見つかっていない。
あと五日で地球に最接近するが、その正体は謎のままである。
各機関はあせった。大変危険なものであったら。
地球そのものに危害を及ぼすものであったら。
一方で、大国は秘密裡に不測の事態に備え、緊急の軍事的な迎撃態勢に入った。
*
「お父さん、お父さん、お向かいさんやっぱりおかしいわよ。お昼前に外出先から戻られてからも、お子さんあやしながら抱いて家から出たり入ったりで、なんだか落ち着かない様子よ。どこか具合が悪いのかしら」
ベンは今日1日ハワード家の実況を聞かされ、少々あきれ気味でケイトをたしなめた。
「ケイト、カーテンにさえぎられているとはいっても、覗き見するのもほどほどにしたほうがいいぞ。逆に気づかれて、迷惑に思われているかもしれないよ。ましてや、誤解されたにしても前科があるのだからな」
「まあ、失礼ね。私は心配してみてあげているのに。それに今日はとうとう洗濯されなかったわ。いつもは洗い物を干したり玄関回りを掃除されるんだけど、家事どころじゃないんだわ」
「たまにはそういう日もあるさ。他の用事に忙殺されたり、体調を崩したりでいつも通りにいかないことなど誰にもあることさ。いよいよとならば遠慮せずに言ってくるんじゃないか」
彼もケイトの熱心さに根負けしたか、溜息を吐きながらもある程度関心を示さざるを得なかった。
「そのいよいよかもしれないわよ。奥さん、家から出てこちらの方を見ているわ」
その言葉にベンは読みかけの本を閉じて、慌てて立ち上がった。
「今までこんなことはなかったわ。弱っておられて顔色も悪いようだし、助けを求められているように思える。でもためらっているようね。あら、また家の中に入っていかれたわ。なんだか踏ん切りがつかなくて諦めたみたい」
「ほんとうなのか。君の気のせいじゃあないのか」
「間違いないわ。普段と違って取り乱しているようね。ご主人もいらっしゃらないし一人で心細いんだわ。ねえお父さん、こちらから尋ねてみましょうよ。もしかしたらこちらに来たいんだけどお若いから遠慮なさっているのかもしれないわ」
「だがなあ、訪問してもしこちらの一方的な思い込みだったとしたら、それこそ監視していたように思われて以前の二の舞になってしまうよ」
ベンは直接見ていないこともあってあくまで慎重である。
「でも本当にトラブルに見舞われておられるのだったら、確かめておかないと後で後悔することになるわよ。そういえばいつも聞こえる赤ちゃんの泣き声が聞こえないようだけど、そのことと関係あるのかしら。いずれにしても私だけでも行ってみますからね」
ベンは一瞬ある種の疑問が頭に浮かびあがった。けれどもすぐに立ち消えてしまった。
不思議とそれは好奇心を刺激し、理由を知るには行く以外にはなさそうだった。
彼はケイトに伝えた。
「私も行くよ」
と。
*
ベンとケイトの老夫妻は今まさにハワード家の玄関に立っていた。
陽も落ち辺りはすっかり暗くなっていた。
二人とも緊張の面持ちで、あまり意味はないが身づくろいを気にしている。
一応、これから切り出さなくてはならない訪問理由を幾通りか打ち合わせを行っており、ぶつぶつつぶやきながらゆっくりと歩いて来たのであった。
ベンは念のため補聴器をチェックする。
そして深呼吸して言った。
「じゃあ、チャイムを押すよ」
「ええ、いいわよ」
とケイトが伝える。
ベンが押すと、家の中からくぐもった返事があり、彼らが来ることを予期していたのか、名前を問われもせずすぐに扉が開いた。
これには二人とも面食らった。
事前に用意した突然の訪問のお詫びと理由の言葉を、切り出す必要はなかった。
部屋の中には眼の周りを真っ赤に泣きはらしたナンシーがいた。
すっかり疲れ切って参っている様子がありありとわかる。
そばの小型のベッドに赤ん坊が寝かされており、手足をバタバタ動かしむずがっている。
近くのソファにはオムツが散乱しており、哺乳瓶が無造作に置かれていた。
これを見たケイトは顔を曇らせ彼女に近寄り、
「まあ、なんてことでしょう。いったいどうしたの、何があったの、さぞ辛かったでしょうね。一人でくよくよ悩むことはないわ。なんでも言ってみて、お手伝いするわ。もう大丈夫よ」
と言いながらその体をそっと抱きしめた。
その行為は隣人というより肉親そのものであった。
ベンもこの予想外の展開に驚きながら、とりあえず立って眺めている以外なかった。
ケイトの心情が通じたか、ナンシーも徐々に落ち着きを取り戻したようだ。
ケイトはトラブルの原因が赤ん坊にあると当たりをつけた。
「可愛い赤ちゃん。でもどこか具合でも悪いのかしら?」
彼女は嗚咽で詰まりながらも説明し始めた。
「今まで夜泣きがひどくて大変だったんですけど、昨日からエドの様子が変で、全く泣かなくなってしまったんです。主人とも相談し今朝病院に行って診てもらったんですけど、どこも悪くないって。別に喉も悪くないし、ミルクも今まで通りよく飲むし。ただ、泣かないからエドの訴えていることがわからなくて、困ってしまって。もしかしたら、私が泣きすぎだって文句言ったから罰が当たったんじゃあないかって・・」
ケイトは即座に打ち消した。
「そんなことあり得ませんよ。疲れてしまっているから感じる被害妄想よ。でも変ねえ、何か原因があるはずよ。今もエドちゃんだったわね。ぐずぐず機嫌悪そうだけど確かに泣いていないわね」
赤ん坊の様子を窺い、彼女の困窮に同情したのであった。
その時、今まで見ていただけのベンが口を挟んだ。
「妙だな」
「どうしたの、何か気になることがあるのお父さん?」
ケイトが尋ねる。
「いやね、私には今もこの子の泣き声がはっきり聞こえるんだがね」
彼は補聴器に触れながら答えた。
その言葉を聞き、二人の目がベンに注がれた。
*
翌朝、ジョンはナンシーとの約束で帰宅の準備をしていたが、一区切りついて昨日と同様に表に出てみた。
やはり異常なほど静かである。いつもと何かが違う。
周囲には相変わらず山燕が飛び回っていた。
その瞬間、彼には理由がわかった。
「鳴かないんだ。いや、鳴くのが聞こえないんだ」
なぜだろう。
なぜかとジョンは不思議に思った。
今朝もナンシーからエドが泣かなかったと電話が入ったが、昨夜は向かいの老夫妻に泊りがけで助けてもらったそうで、不思議なことに、ご主人の耳にはエドの泣き声が聞こえたとのこと。
その内、彼を迎えにきたヘリが山頂に到着。
昼過ぎに出発のため、操縦士と一緒に食事を摂った。
唯一入る地元のニュースを見ようとテレビのスイッチをひねる。
ところが、モニターには彼の子のエドと同じように、赤ん坊が泣かなくなったため病院で診てもらおうと、列をなしている母親の姿が映しだされている。
いずれも心配そうに、大事に赤ん坊を抱えている。
この現象はニューメキシコ州だけでなく、アメリカ全土、いや世界中で発生しており、パニックになっていると報じていた。
「世界中!」
ジョンにある推論が頭をよぎった。
確か、向かいのご主人は耳が悪く補聴器を介して声を聞き取っていたはず。
彼は食事を中断し、足早に電話室に向かう。
そして本部を呼び出し彼の見解を語り、早急に調査を依頼した。
「そんなことあり得るだろうか?」
疑心暗鬼ではあるものの、調査結果を待つ。
その日、予定を変更しそのまま天文台に残ることにした。ナンシーに言い聞かせ、不満そうであったものの、渋々納得させた。
*
その夜勤務に入ったが、所員は一様に緊迫感に包まれていた。
全ての目が、宇宙の彼方からのシグナルを映し出すモニター、計器類に注がれている。
ひっきりなしに入ってくる電話、ファックス。ジョン・ハワードもその対応に忙殺されていた。
世界中の宇宙観測機関も同じであろう。
その電波発生源が地球に到着するのにわずかの日数しか残されていないのに、いまだに正体は不明のまま。漠然とした危険の予感を誰しも抱きながら、関係者は固唾を飲んで見守っていた。
膠着状態が破られたのは明け方近く。
いや、モニターからぷっつりと電波の受信が途絶えたのだ。
「計器の故障か?」
急遽、点検を実施したが異常はみられない。
他の天文台に確認してみると、同じように信号は消滅したとの回答。
念のため、エリアを拡大して繰り返し走査してみたが、電波は捕捉できなかった。
「いったいなにが起こったのか?進路を変えたのか?危険は去ったのか?」
皆一様にキツネにつまされた気分で、解答の出ない疑問に直面してしまった。
朝、ナンシーからの電話が入った。
「ジョン、エドが明け方大きな声で泣いたわ。私にも聞こえたのよ。大急ぎで起きてミルクを飲ませたの。そしたら美味しそうに力一杯飲むじゃない・・これほど嬉しいことはなかったわ。神様への祈りが通じたのよ。私が悪かったわ。もう二度と泣き声で夜眠れないって不平を言ったりしないから・・」
うれし涙と興奮の入り混ざった口調で、感激がひしひしと伝わってきた。
表に出ると、山燕がうるさくさえずりながら飛び回っている。
これこそいつもの光景である。変わり映えしないものの安心できるなじんだ光景。
この瞬間、無意識に抱いていた不安が解消したことをあらためて悟った。
昼過ぎ、受信電波の調査依頼の解答が返ってきた。
「実はまだ完全に解析された訳ではないんだが、人工的に作られたことは間違いないよ。しかも君の推測が正しい可能性が高い」
「と言うと?」
「うん、送られてきた信号は、当初のマイクロ波に重複して、干渉波、偏波が混在したものだが、更に一定の時間間隔で複雑なロジックをもったベクトル波形が観察されたんだ。その中に、人間の乳児が泣く発声帯と小型鳥類のそれと同質の波形がサンドイッチされていることがわかった。もしそれが今回の異常現象の原因とすれば、二種類の音声に対して、我々に聞き取れなくする遮蔽効果を及ぼす創造された信号であったと推測できるね。ところで君の言っていた補聴器なんだが、周波数を変調していることでその効果を免れ、それを利用している人だけには聞こえたものと思われるよ」
「何の意図があって送られてきたのかね?それで、正式な結論は出るんだろうか」
「もちろん専門家も懸命に解析を続行しているが、今まで我々が体験したことがない波形パターンらしくて、相当高度な技術力をもった生命体が創造したものとの認識だよ。まだかなり時間がかかりそうだね」
ジョンは報告を聞きながらも、送られてきたシグナルの理由、なぜ消滅したのか、出そうもない答えに当惑し、謎は深まるばかりであった。
*
「よかったわね、お向かいの奥さん元気になって。一時はげっそりやつれて顔色が悪かったけど、嘘のように明るくなって、難を言えば赤ちゃんのよく泣くこと。確かに面倒みるのは大変。私にいつでも来てくださいって。大歓迎ですって言われましたよ」
「おいおい、その言葉に甘えてあまり頻繁に行くんじゃないよ。何といっても向うからすると世代が違うんだからな。いずれは迷惑がられるのがおちさ。あとでがっかりしない程度のお付き合いにしておいたほうが賢明だよ」
「その点私もわきまえているつもり。でも今度クッキーの焼き方教えてほしいって。以前のギクシャクした近所付き合いからするとびっくりするほどの変わりようだわ。やっぱりあの時訪問して良かったわ」
「確かに、その点私も見直したよ。たまには君の予想が当たり感謝されることもあるんだとほっとしたよ」
「まあ、なんて言い草なんでしょう。でもあの時赤ちゃんの泣き声、なぜお父さんだけに聞こえたのかしら。後でわかったのだけど世界中の人が聞こえなくなったのに」
「さあ、それはさっぱりわからんよ。私も赤ん坊の付き添いで泊まることになるとは思ってもいなかったな。ただひとつ言えることは、耳が遠くなっても役に立つことがあるってことだよ。障害即、悲観するべからずとの教訓だったのかな」
*
そのころ、太陽圏外への軌道を運行する一台の宇宙船があった。
船体は動力源を維持する必要からであろうか、白銀色にまぶしく輝いている。
しかし、その内部には乗員らしき生命体は存在していなかった。
デッキとおぼしきゾーンには様々なランプ、モニター類の点滅する機器が、あたり一面に設置されていた。
そのうちの一台が別の機器に信号を送る。
『ああ危なかったな。あれ以上近づくと、無数の電波を受けて船体にひどいダメージをこうむるところだった』
反対側の一台が応える。
『以前に来たときは二種類の信号に探査の妨害をされたので、今回はそれをブロックする対策を講じ再チャレンジした。ところがどうだ、たった五百年で地表どころか、惑星軌道にすら近づけないとは。いったい何が起こったのだろう?』
別の一台も加わった。
『いずれにしても、危険を冒すわけにはいかない。あの惑星はあきらめ別の天体を目指そう』
それぞれが独立した意思を持ち、相互に意見交換しながら行動を決めているようである。
宇宙船は銀河に散らばる次の目的地に向かい飛行していた。