魔術遊戯 キャッツ・イン・ザ・スカイ
闇のなか、ロウソクの炎がゆらめき、岩肌を照らしている。
不規則にゆらぐ人の影。
うめき声のような響きが、洞窟のなかで反響していた。
暗灰色のローブをまとった男が、ひとり、儀式を執り行っている。
あの世とこの世の境界が薄くなる時代、人の世には未知の力があふれ、魑魅魍魎があらわれる。それらを制して秩序を守る存在がいれば、それらを利用して欲望を満たすものもいた。魔術師とよばれた彼らは、人々から敬われ、恐れられていた。
「渡さん……我が秘宝は、誰にも渡さん」
神域とされた孤島は、邪悪な魔術師の手によって堕ちた。
魑魅魍魎があふれだした島に、彼以外の人間は存在していない。
命の灯火が終わりに近づこうとも、彼は、彼以外の人間を認めなかった。
「我が秘宝を奪わんとする、愚か者どもに、絶対の死を……」
魔境と化した島。恐るべき魔術師が支配する土地を訪れる者はいない。しかし、百年、二百年と時が経てば、偉大なる魔術師の遺産を狙い、訪れる者もいるだろう。数多の魑魅魍魎を排除して、洞窟にたどり着く者がいるかもしれない。
そう考えた彼は、罠を仕掛けた。
最高難度とされる、転移魔術を利用した、死の罠を。
「愚かなる侵入者に、恐怖と絶望、そして後悔を……」
罠にかかった侵入者は、すぐに死ぬわけではない。
時間がある。
迫りくる不可避の死をまえに、苦悩する時間が、たっぷりとある。
「恐れ、絶望し、愚かさを歎き、後悔しながら死を迎えよ」
罠の悪辣さと極悪さを想像して、彼は邪悪な愉悦に浸った。
○
高度、約一万三千メートル。
上空を飛行するプライベートジェットのなかに、逃げ場などない。
十歳になる少女、アリシアは、屈強な男に腕をつかまれ、立たされていた。
少女の前には、ワインボトルを手にした男がいる。
「こいつは、他人の頭を叩き割る道具ではありませんよ、アリシアお嬢さま」
アリシアの敵、オーグは警告した。言葉はていねいだが、嗜虐的な笑みを張りつけている。座り心地のよいソファに腰を下ろして、ボトルからコルク栓を抜いた。
アリシアは、父親の部下である男を睨みつけた。
「わたしをどうするつもり」
「さすがはアリシアお嬢さまだ。そこらの御令嬢とは度胸が違う」
オーグはグラスにワインを注いだ。
グラスを手にとり、香りを広げて鼻に近づけ、一口ふくむ。
優越感を堪能しながら、アリシアをみる。
「心配はいりませんよ。大人しく座っていてくだされば、怖いことも、痛いこともありません。これからボスが、我々の指示通りに動くかどうかによりますが」
オーグは部下に指示を出して、アリシアを別室に連れて行かせた。
計画は順調に進んでいる。
ボスは恐ろしい男だが、娘という弱点は、手の届かない、はるか上空にいる。
「ボスが愛する娘ごと、この機体を撃墜できるかどうか……撃墜できればボスの勝ち。できなければ、そのていどの男だ。恐れる必要はない」
別の組織を巻きこんで練りあげた計画。
身代金など問題ではない。
目的はひとつ。
ボスを死地に追いやり、暗殺すること。
娘を人質にして金を要求したのは、判断を迷わせるための偽装。
金で解決できる可能性をみせつけて、用心深いボスを動かすことにある。
「撃墜の動きはない。あとはボスが、取引現場にあらわれるかどうか……」
こちらの指示に従わなければ、娘が苦痛に泣きわめく様をみせつける。
脅しではないことぐらい、誰でもわかる。
非情の決断がとれないならば、ボスは動かざるをえない。
「娘をとるか、組織をとるか……」
ボスが娘を選べば、それは組織に対する裏切りだ。
俺はボスを裏切ったが、ボスは組織を裏切った。
たとえ暗殺をしくじったとしても、ボスは組織の信頼を失う。
「もう、あんたは怖くない」
娘のアリシアは、別組織のボスである、変態ジジイのもとへ連れていけばいい。すべてを利用して成り上がり、俺がボスとして君臨してやる。
オーグはワインを飲みほした。
取引きの時間は近い。
半ば勝利を確信していたオーグのもとに、連絡が入った。表示された番号は、ボスの動きを監視している部下のものだ。
オーグは呼び出しに応じた。
「よお、オーグ」
「……おまえは──」
知っている声だった。
オーグと同じ幹部のひとりであり、この電話に出るはずのない人物。
「ボスからの伝言だ。一回しか言わねえからちゃんと聞けよ。ボスはこう言われた……『謝罪しよう。お前には夢を見させてしまった。詫びとして、黒猫をおくる』……聞いたな? それじゃあ、あばよ、オーグ」
通信は途切れた。
考える暇もなく、機体が傾き、オーグは膝をついた。
機体は傾いたまま安定している。
乱気流ではない。
「オーグさん!」
「なんだ!? なにが起こった!?」
パイロットの姿が消えた。
操縦席には誰もおらず、機体は高度を落としつづけている。
茫然とする最中、さらに事態は変化する。
機体が揺れる。
機内の気圧が急激に低下しはじめた。
「まさか!?」
オーグは身体を支えながら、ボスの娘を探した。
娘を監視していた部下が倒れている。
非常口が開いており、娘の姿はどこにもなかった。
『詫びとして、黒猫をおくる』
ボスの伝言がよみがえる。
オーグとて組織の幹部として活動してきた。
黒猫という名の仕事人がいることは知っている。
成功率百パーセントの腕前ゆえに、報酬もまた最高クラスであり、黒猫に始末をつけさせるということは、敵に対する最大の賛辞と評されることもあった。
「パイロットの死体はなかった……黒猫がパイロットに変装していたというなら、はじめから……ボス……あんた、まさか……裏切り者をあぶりだすために、自分の娘を、囮にしたのか?」
激しく振動する機体のなかで、オーグは自嘲した。
手痛い敗北。
時間さえあれば、復調もありえただろう。
しかし、生き延びる算段をつける前に、機体に仕掛けられた爆弾が作動した。
○
アリシアを監視していた屈強な男が、音もなく静かに崩れ落ちた。
代わりに立っていたのは、細身の人物。
黒い装束で身を包んでいる。
黒い髪。
黒い瞳。
黒い面で目元以外を隠している。
「そのまま、静かにしてもらえると助かる」
声は高い。
黒い人物が面を外した。
女性のような、少年のような、柔和な顔だった。
「……お姉さ……おにい──」
「お姉さんで正解だ。ぼくの名前はシノブ。シノブお姉さんだ」
シノブと名乗った女性は、渋い表情で、アリシアが見ていた自身の胸を一度だけ見たが、すぐに気持ちと表情を切りかえた。
「初めまして、アリシア」
膝をつき、アリシアに目線をあわせる。
「きみを助けにきた」
それだけで、アリシアは安堵した。
はじめて会った人物であるにもかかわらず、身を任せても良いと感じた。
○
「それじゃあ、いくよ。スリー、ツー、ワン、ゴー!!」
シノブは空へダイブした。
しっかりと固定したアリシアとともに、プライベートジェットから脱出する。
浮遊感。
落ちる。加速度をあげて落下してゆく。
アリシアの絶叫が聞こえる。
仕方がないとはいえ、落下の恐怖を体験させることになった。
申し訳なく思うシノブの耳に、笑い声が聞こえる。
アリシアのものだ。
楽しくなってきたらしい。
なんとも度胸のある少女だ。幼いころの自分を思い出す。
それはそれとして、シノブは装置を作動させた。
巨大な爆発音。
気づいたアリシアが、首をひねって何かを言っている。
シノブはあらかじめ互いの耳にセットしておいた通信装置を作動させた。
「ねえ、シノブ、さっきの音はなに?」
「ジェット機が爆発しただけ。きみは気にしなくていいよ」
アリシアは小さく返事をした。
聡い少女だった。
すべて計画されたものであると、気づいているかもしれない。
「ねえ、シノブ、わたしたちはどこに向かっているの?」
「とある無人島だね」
パイロットに変装して、進路を操作していた。
安全に降りられる島がある。
大海のなかでは小さなものだが、計画を遂行するだけの能力はある。
「ねえ、シノブ、あれはなに?」
「あれというと?」
アリシアが懸命に指をさす方向に、紫色の光がみえる。
見たことのない、不審な発光現象。
落下方向に近い。
身体の傾きを変えれば、さらに近づくことも可能だが……。
「あっ、消えた!?」
確かに光は消えた。
しかし、シノブの常人離れした視力が、不審な物体を見つけていた。
落下とともに距離が近づいている。
「なにかいるよ!?」
「静かに。なにかはわからないが、刺激は避けたほうがいい」
それらも落下しているようだが、シノブとアリシアの落下速度のほうが速い。
垂直方向の距離は近づいている。
シノブは数をかぞえた。
1、2、3、4、5、6。
自身の見ているものに納得がいかず、身体の向きを調整して、横方向にも距離をつめる。
どんどん近づく。
近い。
「あっ!?」
一瞬だけ横に並び、ふたたび垂直方向に距離が開いていく。
「みた!? ねえ、シノブ! いまのみた!?」
「ああ、うん、そうだね。一瞬だったから、よくわからなかったよ」
嘘だった。
しっかりと目撃しており、瞬時に記憶できる能力もある。
興奮するアリシアをなだめながら、シノブは脳裏に刻み込んだ映像を確認する。
灰色。
白色。
茶トラ。
キジトラ。
三毛。
サビ。
四本の足と尻尾をびよーんと伸ばした六匹の猫たちが、顔を向け合い、きれいな円陣をつくりながら大空をダイブしていた。
「猫ちゃんだったよね!?」
「いや、アリシア、それはないよ」
「猫ちゃんだったよ!!」
「いやいや、だっておかしいでしょ? 猫だったような気もするけれど、猫がスカイダイビングをするはずはないよ。どれだけ身体をびよーんと伸ばしたって、空気抵抗とかそんなにないでしょ?」
十歳の少女に空気抵抗の説明をしている間に島が見えてきた。
頭は混乱していてもプロである。
シノブはパラシュートを開き、落下速度をおさえた。
巧みに調整して、海岸に近い、開けた草地を目指す。
最後にふわりと風をつかみ、シノブたちは無事に地表へと降り立った。
「ご苦労だったな、黒猫」
シノブがパラシュートを外していると、海岸方向から黒服の男が近づいてきた。
予定にはない。
計画では、組織のメンバーが二台のクルーザーで島を訪れる。一台を島に残して帰還。だれひとり島には残らない。クルーザーを用意する目的も知らない。
「あんたが黒猫でいいんだよな?」
「正解だよ。それで、誰だい、きみは?」
「組織の一員だ。これでもまあ、幹部の末席についている」
黒服の男は銃を手にしていた。
「活動のメインは殺しだ。単独行動が好みで、今日も俺ひとりだ。そしてこいつは、俺の独断だ」
男が銃を構える。
銃口はアリシアに向けられている。
「さすがはボスのお嬢さん、いや、驚きすぎて言葉も出ないのか?」
「いろいろとあるのさ」
「この状況で空が気になるとは……気の毒にな」
「ちょっとそれどころじゃなかったからね」
「オーグの野郎に何かされたのか? それともスカイダイビングで感覚が麻痺っているのか?」
「感覚がおかしくなっているのは確かだね。それで、きみの独断だと言っていたけれど、アリシアに銃を向ける理由はなにかな?」
男はシノブの動きを警戒している。
口以外を動かせば、すかさずアリシアを撃つだろう。
シノブが身体を張って助けることを想定している。
そしてまずは、確実にシノブを殺しにかかる。
「アリシアお嬢さんがボスの弱点であることは確かだ。だからこそ、オーグのような裏切り者が出てきやがるし、よその組織も調子にのりやがる」
「だからここで、アリシアを始末しようというのかい?」
「そうだ」
「きみたちのボスが、それを許すとでも?」
「処分は覚悟の上だ」
「大層な忠義だね。きみたちは、自分たちのボスのことを過小評価しすぎだよ」
「なんだと?」
「きみたちのボスが、きみの独断行動に気づいていないとでも?」
男の表情が歪んだ。
「これはぼくの推論だけどね。きみはおそらくメッセンジャーだ。きみが生きて帰らなければ、きみのボスは、ぼくに依頼した仕事がうまくいったことを知ることができる」
「……どういうことだ?」
「ぼくが引き受けた仕事は、アリシアを守り、育てることだ。彼女はもう父親のもとには戻らない。ボスの弱点である娘は、ジェット機の爆発に巻きこまれて死んだ。ぼくは依頼に失敗して、アリシアとともに死んだ。そういう筋書きだったんだよ。ぼくが裏社会から姿を消せば、それなりの説得力はあるからね」
娘を囮につかうことはできても、命を犠牲にすることはできなかった。娘の命と組織を守るために、娘との別れを決断して計画を練り、黒猫に仕事を依頼した。
ぼちぼち引退を考えていたシノブは、多額の報酬とともに依頼を受けた。
「きみはこの島にたどり着けるぐらい嗅覚が鋭い。殺しには向いているだろう。けれどきみは、きみが自覚しているように、組織の捨て石だ。組織の長とは視点が異なっている。組織の未来を考えるべきではなかった。自分たちのボスを信頼していれば、それでよかったんだよ」
「……黙れ」
「ぼくを引退させてまで仕込んだ偽装だ。アリシアが生きていると確信できる人間はいなかっただろう。見つけ出すことは困難だ。クルーザーを用意したメンバーが口をきけなくなれば、完璧だね」
「黙れといっている」
「たしかにここでアリシアを始末しておいた方が確実ではあるよ? けれどね、十歳の女の子を殺しておいて忠義面するなんて、どうかしてるとは思わないかい?」
「いいかげんに──」
男が激昂、シノブが最高峰の技術を披露する寸前、アリシアが叫んだ。
「きたー!!」
両拳を天に突きあげて叫ぶ少女に虚をつかれて動きが止まる。草地で対峙する人間たちから数メートルの距離に、しゅたん、しゅたん、と着地していく。
なにが?
猫が。
しゅたたたたんと着地した、計六匹の猫たちは、海岸とは反対の方向に猛スピードで駆けていった。
「隙あり」
「ぐわぁ!?」
シノブの投擲した特殊炭素製の棒手裏剣が、男の手首に刺さった。
「なんだ、さっきの猫たちは……まさか、あれが黒猫の暗殺術!?」
「いや、ぜんぜん違うからね」
あれがなんなのかは、シノブのほうが知りたい。
アリシアに猫を追いかけないよう注意して、シノブは男に近づく。
「きみは知らなくていい情報を知ってしまった。アリシアのこと、ぼくの素顔のこと……どちらかひとつでも、きみの命と引き換えだ。仕方がないから、ぼくの素顔の分は、おまけにしておいてあげるよ」
シノブは、現役最後の殺しを終えた。
○
海上を走るクルーザーにのって、アリシアは島を遠ざかる。
となりにはシノブがいる。
「どこにいくの?」
「べつの島に隠れ家がある。そこでちょっとばかり姿を変えてから、港を目指すんだ。船を降りたあとは、ぼくの故郷に向かう予定だね」
これからのことはシノブから聞いた。
ずいぶん前から、父親に会えなくなる予感はあった。
それが互いのためになることも理解している。
「ねえ、シノブ」
「なんだい?」
「あの猫ちゃんたち、絶対に楽しんでたよね?」
この話題になると、シノブは口が重たくなる。
「なんだったんだろうね、あの猫たちは」
「あの島だけの、特別な猫ちゃん?」
「ふつうの猫でないのは確かだね。ただの無人島のはずなんだけど……そういえばこのあたりの海域に、禁忌とされた島があるとかなんとか……千年以上も前の古い文献。魔術師たちの記録と題された資料集で、完全な創作物だと……」
頭を悩ましていたシノブに、アリシアは宣言する。
「わたし、シノブみたいに強くなって、あの島を冒険するね」
「あの島の調査か……暗殺術を仕込めとまでは依頼されてないんだけど、まあ、強いぶんには問題ないかな」
「うん、わたし、強くなる」
そしていつの日か、猫ちゃんたちとスカイダイブを。
素敵な目標を手に入れて、アリシアは、新しい人生を祝福した。