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(9)

 桜が満開になった日。

 生憎の嵐だった。


 玄関で靴を履く僕の耳には、風雨が家を叩く音が、くわんくわんと響いている。

 傘はあまり役に立たないかもしれない、それでも持って行った方がいいだろう。


 僕が傘立てから一本引き抜いたのは、もう何年も使っている黒い傘。ボタンと柄に点々と錆が浮いている。


 パン屋へのいつもの道。石畳は雨に濡れて、花びらが表面にくっついていた。

 ソメイヨシノは不憫だ。咲いたと思ったら直ぐに散って。


 生温い強風が傘をあおって、雨が足元を濡らす。


 パン屋に着いた時にはすでに、ズボンの膝下は色が変わっていた。

 ドアを開けて店内に入ると、店の奥から彼が出てきた。


 僕はいつもと同じパンをトレーに乗せようとして、はた、と止まった。チーズマフィンがなかった。

 プレーンとオレンジピール、そしてココアはあるのだが、チーズだけが売り切れてしまったのか、いつもの場所になかった。仕方なく、ロールパン二個だけを載せて、僕はレジに向かった。


 これが最後。

 ロールパン二個ではポイントはつかないから、今日はお金だけ、と考える自分は滑稽だった。


「いつもありがとうございます。いつものマフィンが売り切れになってしまっていて、申し訳ありません」


 会計をする彼から初めて、ありがとうございます以外の言葉を聞いた。

 僕は、いえ。と、視線をカウンターの上に滑らせた。


 早く店から出よう。


 そう思ったのに、彼は一向にパンが入った袋を渡してくれない。


「お客さんにこんな事を聞くのは失礼なんですけれど、同じ高校に通ってた井戸田さんですよね」


「え、」


「俺は井戸田さんと同じクラスだったはずなんです、でも全然覚えてなくて。卒業アルバムを見ていたら、学園祭写真のところに小さく俺と井戸田さんが一緒に写っていて」


「あれ、そうでしたか?」


 僕は彼が持っているパンの袋を掴んでやんわりと引いた。しかし、彼、こうは袋を離してくれなかった。

 外では嵐が吹き荒れて、パン屋の薄い窓ガラスがガタガタと音を立てている。


「僕もう帰らないと」


 そう言って浩の方を見たのは失敗だった。

 彼は真摯に僕の方を見て、口をへの字に曲げていた。頑固さを滲ませるその表情も、僕はとても好きだった。


「井戸田さんは知っているんでしょう、俺が何を忘れているかって」


 春が騒いでいる。

 彼は思い出せない中で必死にもがいていた。


「あなたは毎日のように店に来てくれていた。妹が言うんです、橋の上ですれ違った人、兄さんの友達でしょうって。でも俺は全然分からなかった」


「吉田さん、いいんですよ忘れていて」


 何故だろう、すんなりとそう言うことができた。

 僕がやった事は、正しくはなかった。でも。


 僕は、いつの間にか浩の手が僕の手首を握っていることに気付いた。


「いいんです、固執しなくて。忘れていた方が良いことだってあると思いますよ」


 泣きそうだったけど、ちゃんと触れて欲しかったその手を一度でも手に入れられて、僕はその手を僕じゃない誰かに渡そうと思った。


「明日は、チーズマフィン多めに焼きますから。きっと来てください」


 浩の握力が緩んだ。

 僕は上手く笑えているだろうか。


「お気持ちだけ。吉田さん、僕ね今日が最後なんです、ここに来られるの。引っ越しするんですよ。本当は黙っていようと思っていたのですが、チーズマフィンが無駄になるといけないので」


「……この時期にですか」


「この時期だからです。パン、美味しかったです。お元気で」


 浩をパン屋のレジに残して、僕は狂ったような春の中に飛び出した。

次回最終回です。

大変お待たせしました。

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