(8)
『こうするべきだった』と後から思うとき。
それと双子のように生まれるのは、過去に戻ってもきっと僕はそうしないだろう、という確信めいたもの。
本当は、手を繋いでいる人が誰なのか、聞けばよかった。
でもあの時の僕はそうしなかったし、過去に戻っても僕はきっとそれを聞けない。
彼女が誰か、なんて僕にはどうでもよかったんだ。
彼が僕しか見えなくなればいい。
僕のことだけ考えて欲しい。
ずっと、抱えてた薄汚い独占欲。
あの場面に遭遇したのは、単なるきっかけに過ぎなかった。
そうして、ただ想いをぶつけるために魔法を使ってしまった僕の前にいたのは、僕のことをすっかり忘れてしまった彼だった。
彼の声が遠ざかり、現実を受け止めたくない僕だけ、橋の上に残された。
鋭敏さを喪って、そこに立ち尽くした僕の肩に『知らない誰か』がぶつかった。肩がどん、と押された直後、邪魔だというような舌打ちが、くっきりと耳に刻印される。
何とも思わなかった。
それよりも、はっきりと浮き上がって来たのは、彼と僕との関係性。僕の存在は彼にとって、こんな肩をぶつけて舌打ちをするような関係になり下がってしまったのだろうな。
想像すると、頬を張られたような衝撃が降りかかってくる。
泣けばいいのか笑えばいいのか、震える唇の端はどちらも選んでくれなくて。
僕はその場から逃げ出した。
桜の花の開花は、去年はいつもより早くて、満開のソメイヨシノとハクモクレン。漆喰壁のようなユキヤナギ。白い花弁と黄緑色の芽吹きの中を、ただひたすら「いなくなりたい」いう呪詛めいたものを吐き出しながら走った。
家に帰るのに、来た時と同じ列車は使えなかった。彼と鉢合わせるのは避けたかった。
それで、違う列車に乗るために選んだ駅へ行くバス。
その路線バスに乗ると、ハイキング帰りの年配の乗客で犇いていた。僕は他人の汗の隙間で、ようやっと安心して、幾度も幾度も、生きていることを確かめるように息を繰り返したのだった。
何を信じたくないのか、わからない。
僕が彼の記憶を消したことなのか。
彼が女性と手を繋いでいたことなのか。それでいて、僕に向けた表情に罪悪感のようなものは見えなかったこととか。
そもそも、あそこで出会ったのは、本物の彼だったのか。
息が落ち着いてからも、僕の頭はぼんやりしていた。
あれが魔法なのか。
いやそうだ、疑いようがない。
祖母に聞いていた通りだった。
魔法使いの血が呼ぶ『鍵』。
それを正しく使うことが魔法使いの使命であると。
僕は正しさを間違えてしまったのだ。
次の日。
僕は、彼が働くパン屋に、彼が僕のことを忘れてから初めて訪れた。
不自然にならないように、ディスプレイのガラス窓からそっと中を盗み見る。
パン屋には彼以外に二人。
彼の父だろう男性と、初老の女性がいた。
初老の女性は、午前中だけの手伝いだと聞いていた。あとは彼の父と彼の二人でまわす、小さな店。
無口な彼が、ぎこちない笑顔を見せながら接客している。そうなるまでに、彼も努力したのだろう。
僕のことを忘れても、きちんと社会に溶込んで必要とされる彼の姿を見ると、喉が熱くなった。
パン屋での彼の姿が、どうしても眼球に焼き付いてしまって。それからの数日間、僕は自室で泣いて頭をかきむしったり、ベッドの支柱を蹴飛ばしたりした。あまり寝られなかった。そして、何も解決しないまま時間だけが経過した。霞みがかった頭で外に出た僕が選んだのは、もう一度、彼が働くパン屋に行くことだった。
初日のようには取り乱さなかった。
接客してくれたのは彼だった。
ただの客と店員。
その関係だけを新たに構築して。
そして、僕はそれから今までの一年間、彼の記憶が戻ることを願いながら、毎日同じパンを買いに行くようになったのだった。
しかし、もう彼の記憶が戻ることはないのだろう。
僕がそう思い始めたのは冬を間近に控えた時だった。
あれから、あの鍵を掌に握ることが、だんだん自分の意思でできるようになっていたが、彼の記憶に関することは願えなかった。
魔法を使わずに、鍵を呼び出すだけ。鍵の美しさは、悪魔のよう。美しいものの恐ろしさに、もっと早くに気付ければ。
彼の記憶を戻すために、祖母が残した文献や書物を読んだけれど、手がかりはなかった。
パン屋に通っても、客と店員という関係は崩れない。
彼が僕を思い出すことはない、と考えたのは、ただの諦めだった。でも、その諦めは僕を幾分か楽にもした。
次に桜が満開になったら僕はもう、あの店に行くのをやめよう。
彼との思い出の中にあるものとは違う、公園のイチョウの木。その落葉を見ながら、僕はひっそりと決意したのだった。
そして今、僕が罪を犯してから一年が経ち、また春が来た。桜が開くのは早い。
僕たちの、二度目の別れが近づいていた。