表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/10

(7)

 彼と僕の新たな関係は、密かに育ってゆく。


 相変わらず僕たちは、傍目には友達である、という風に振舞っていた。会って話す内容に、変化は殆どない。人目につくところでは、実にまともな友人関係を演じていた。

 日々の関わりの中で一番変わったのは、僕の部屋に彼が来るようになった事だろう。一方僕は、彼が働くパン屋に行ったことがないまま。まだ、その覚悟はできていなかったのだ。


 物語の中の恋人たちのように、僕たちは手を繋いだり、愛を囁き合ったりする事はなかった。僕の部屋に彼がきてもそんな事は全然起こらなかった。


 彼はただ、僕と背中合わせに座って、長い時間を静かに過ごした。背中の熱が伝わりにくくて、そのうち上半身だけ裸になって。お互いの背を擦り付けあった。動物が匂いを擦り付けるより下等な行動。

 勝手に息だけが上がる。温い汗もかく。

 吐息が作る軋みと、汗の匂いが部屋に充満すると、彼が僕の名前を呼んでくれる。その声をきっかけにして、彼の手が僕に触れないように、細心の注意を払いながらキスをするのだ。


 彼が僕の肌に触れない理由が、イースト菌のせいだと知った時には、僕とイースト菌が天秤にかけられているのか、とムッとしたけれど。


「匂いがまとわりついてる気がして」


 石鹸で何度洗っても、鼻の奥にイースト菌の独特の匂いが残っているらしい。それで僕に触れると、僕までその匂いが付着する、と言うのだ。


 試しに、僕が彼の手を嗅いでみても、パンの匂いなんて全然感じなかった。大丈夫だよ、といっても彼は自分の手を嗅いで顔をしかめるだけだった。


 イースト菌に嫉妬しなくていい、とわかった筈なのに、僕は普通の恋人がするようなことができなくて、彼をどうやって信用したらいいのだろう、と渦巻く夕焼け色の中に一人取り残されていた。夕焼けの向こうは夜だ。

 星ひとつない明るい夜の象徴が、白くまん丸の穴を空にあけて、僕が嵌るのを待っている気がした。




 夕闇色の不安を抱えて迎えた、大学三年の春休み。


 電車で、三つ向こうの市の中心部へ出かけた時のことだった。

 薄い空に、満開を通り越した桜の枝が、恋い焦がれるように手を伸ばしている。風が吹くたびに、白い花びらが散らされていた。


 暖かな気候は、次には嵐を呼ぶ。


 市内を流れる川にかかった橋を、目的地に向かって渡っていた僕の視界に、慣れ親しんだ人が映り込んだ。


 あ、と思ったのは僕だけではないようだ。

 彼もまさか、行動範囲から離れた場所で、僕と遭遇するとは思っていなかったらしく、きゅっと両眉をあげた。なかなか見ることのできない表情だった。


 彼に気を取られていて、気づくのが一瞬遅れた。彼の手を握る存在がいることに。

 彼の隣にいる女性が、僕の方を誰、と不思議そうに見ている。


 彼の手と彼女の手の間に遮るものはなかった。

 僕の皮膚には触れることがない手。


 ドクン、と心臓が煩いくらいに音を立てた。

 視界の色がこそげ落ちて、バラバラと散る。

 その後に残ったのは灰色の世界だった。


 時間が止まったかのように、僕が見る世界は停止していた。


 握り込んだ右手に、なにかを掴んでいる感触が産まれた。

 拳を胸の前にあげて指を開くと、手の中に小さな鍵があった。

 鍵はいくつもの美しい宝石で飾られていて、どう見ても実用的なものではなかった。


(魔法を使う、その時になったら分かるわ)


 祖母に言われた言葉が不意に思い出される。

 それが今なのか。


 僕は、止まってしまった彼に、僕の中にあるどす黒い想いをぶつけたくなってしまった。鍵の美しさに似合わぬ想い。


「僕、僕以外の……僕しか……」


 想いが強すぎて、言葉にならない。ブツブツと唇を震わせるのは、意味の伝わらないモノばかり。

 それでも、鍵は僕の心を読み取ったのか、キラキラと光り出した。


 そして、景色が色を取り戻し、目の前の彼が動いた。


 僕はゴクリ、と喉を鳴らして


「こんなところで会うなんて、奇遇だね」


 なるべく和かになるよう努めて、話しかけた。

 彼は首を傾げて


「どちら様ですか」


 と返してきた。それは嘘をついているようには見えなかった。


「え、僕……」


「人違いだと思いますよ」


 そう言って、彼と彼女は手を繋いだまま、僕の横を通り過ぎていった。

 振り向くと彼女が彼に


「知り合いじゃないの」


「見たことない」


 瞬時に僕は理解した。

 いや、せざるを得なかった。

 想いを現実にする魔法を、しくじったのだと。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ