(6)
春になって、僕は大学に進学し、彼は家業の手伝いに入った。
大学は実家から自転車で通える距離にある。
彼がいるパン屋までは歩いて行ける。
僕の世界は、高校が大学という場所になりはしたけれど、彼との関係という意味においては、それほど変化がなかった。
僕たちは、互いの時間が重なる時に、大学でもパン屋でもない場所で会って、他愛ない話をした。
普通は学校の話や仕事の話をするんだろう。
でも僕たちは、僕たちが重ならない部分の話はしなかった。相手に聞かれれば短く答える。ただそれだけ。
あとは、読んだ本の話だとか、 テレビの話だとか。
触れたくないことや触れられないことは、お互いなんとなくわかっていた。
彼との秘密の場所にあったイチョウの木。
高校を出てからずっと、それに代わるものがずっと見つからなくて。
距離を縮めることもできずに、僕はいつまで彼と、こうやっているんだろう。表面ではうまく関係を保っていたが、それは上澄みだけで、すぐ下には泥が沈殿していた。
そして、大学一年の大晦日の夜中。
彼と一緒に初詣に行った。周りからは新年を迎えた特別感が伝わってくる。
僕は彼と隣り合って歩きながら、全然違うことを考えていた。
彼が妙に静かだ、と。
一年前の冬、彼はお母さんを亡くしている。
それを思い出しているのだろうか。いつもより口数が少ないように思えた。
社の手前にはそれなりに人が集まっていた。高校の時の知り合いにも声をかけられたが、彼はやはり一言も喋らなかった。僕だけ、同級生に返答した。
賽銭箱に握りしめた五円玉を投げ入れて、今年も無事に過ごせるように、と願った。彼も幾らか賽銭箱へ入れた。沢山の硬貨が賽銭箱の淵に当たって落ちていく音の中に、彼の硬貨の音も混ざった。硬貨が混じるように、彼の中での僕も、その他大勢に混ざっているのかと思うと、なんだか苦い。
神社からの帰り道、彼がこっち、と来た時とは違う道を示す。
それに僕は心地よい既視感を抱いた。
廊下から見た秋のイチョウの木。それを思い出すような。
街灯がとびとびに立つ、暗い道を並んで歩く。
僕の肩のすぐそばで、彼の肩が小さく前後して、歩みの速度が同じくらいだとわかる。
細い路地の垣根は、寒椿。
ずらっと並んで、砂利が埋まった道の上に、花がぽたぽたと落ちていた。真っ暗と街灯の光の間に、点々と。口紅のようなねっとりとした赤が足元にいる。
突然、彼がピタリと止まった。それに気づくのが遅れた僕は、何歩か先に進んで、彼の方を振り返った。
「さっき、何お願いした?」
暗いところにいる彼が僕に聞く。
わざわざ止まって聞くことでもないのに。
家内安全と健康、と僕は答えた。
そうか、と彼は僕の前に歩いてきた。
身長が変わらないせいで、近くに立つと彼の目がよく見える。
「お前と俺って友達、なんだよな」
その言葉に、僕の背が冷たくなる。
着込んだはずのコートの中が一瞬で冷えた。
彼との特別な関係を築きたい、というのがいわゆる男女間の恋愛と同等なのかどうか、僕には分かっていない。持て余した不安と彼への想い。
それが彼に気づかれたのかと思ったのだ。
どういう意味、とシラを切ろうとしたら、彼は目を苦しげに細めた。そして僕の左肩を痛いほど握った。毎日、パンを作っている手の平の強さ。
「好きだって言ったら、俺のこと嫌いになるか」
思考が彼の言葉を精査するよりも早く、僕は首を横に振った。そうしたら彼の手の力が緩んで、僕の右足はバランスを取ろうと一歩後ろに下がった。
靴の踵が、寒椿の首を踏む感触がした。