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 三年生の冬、彼の母が亡くなった。

 クラスメイトの誰にも、僕にさえ。個人的に連絡することもなく、彼は暫く学校を休んだ。先生からその事を告げられて、僕は彼に裏切られたような気持ちになった。

 彼の中で僕は特別になっているとどこかで驕っていたのだと、自分自身の気持ち悪さに気付かされた。


 センター試験の直前になって登校してきた彼は、それまでと変わらないように見えた。


 クラス中が彼の身内の不幸を知っていたけれど、皆、自分の受験が現実で、彼の不幸事は所詮、他人事でしかなかった。僕はそれでいいと思っていた。


 その日の昼休み、僕は彼に呼ばれて、あの通路を通って倉庫の教室が並ぶ廊下へやってきた。


 イチョウの木はすっかり葉が散ってしまって、幹と枝が冬の景色に溶け込むように、ひっそりと立っていた。

 受験が差し迫る三年生と違って、まだ時間に余裕がある下級生の声が、上階から響いてくる。でも、その音は僕たちの間にある繋がりを脅かすものではなかった。

 窓の外ではイチョウの木の周りを、小さな雪が、黄色の葉の代わりに白く舞っている。


 冷たさが、鉄筋コンクリート造りの廊下からも、壁からも、そして窓ガラスからも。僕たちに触れていた。


 彼は僕をここに呼んだくせに、全然言葉を口にしない。ただ、イチョウを見ているだけだった。

 だから、僕が何か言うしかなくて、大変だったみたいだね。そう言うと、彼はキュッと口を結んで、それまでのリズムと変えずに何度か瞬きを繰り返した。


「俺、受験やめたんだ」


 白い息が窓に丸く付着するくらい、ガラスに顔を近づけて、彼は短くそう言った。それから、額をゴツンとガラスに押し当てた。

 声が震えていたのは寒さのせいだろうか。


 僕は彼から目を反らせなかった。


 黄色いイチョウの色を纏った彼も美しかったけれど、冬の最中。色をなくしてしまった彼は千切れそうで、僕は、紅葉の先にある綾を見せつけられていた。


 僕が彼に見とれている間に、彼は少しずつ、どうして受験を辞めたのか、辞めてどうするのか、ということについて話してくれた。


 彼の家はパン屋を営んでいて、彼の両親二人とお手伝いのパートのおばさんが一人。それでギリギリ回している店だという。


「本当は、高校ももう辞めようと思ったんだけど、父が、あと少しなんだから出ておけ、っていうからさ」


 彼はそう言って、口の端だけで笑った。


 高校を出たらすぐに家の手伝いをすることに決めた、という。元々、家業を継ぐつもりだったらしい。進学先に決めていた大学は、彼が勉強が好きだから行くといい、と言われていたところだった。


「パン屋が考古学なんてやっても仕方ないからな」


 彼の父は、行きたければ行っていいと言ってくれたようだが、彼にそれほどの情熱がなかったのか、それとも母を亡くしたことで心が折れたのか。それは僕には分からなかった。


 ただ、彼はこれを聞いてほしいだけなんだろう、と思った。

 その相手が僕だという事実が、この上なく僕を幸福にした。

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