第83話 思わぬ誤算
激しい剣戟の音を背に、滑るように神殿内へと侵入する。
入り込んだと同時、壁にピタリと身体を付けて敵の気配を伺う。
敵は隠れ者だ、姿を消している可能性が高い。
眼を閉じると全神経を集中させて、あの"嫌な感覚"を探り索敵する。
近くには……いないようだな……。
お師匠様が言うには、精霊は魔物の気配を感じ取ってくれるそうだ。
隠れ者を魔物と捉えていいものなのかわからないが、今はアクアとリーフアウレを信じるしかない。
僕は眼を開けると、付近には敵の気配がないことを伝えるべく隣のエミルを見る──と、心配そうに眉を寄せている、僕より少し背の高いエミルと目が合った。
ブレナントの聖女であってもカイゼルさんと隠れ者の戦いを目の当たりにして臆さずにいることは難しいのか、表情は強張り身体は小刻みに震えている。
兄でもある僕はそんな妹の緊張を少しでも解してあげようと、
『大丈夫、近くに敵はいないよ』
エミルの冷たい手を握り
『深呼吸してごらん? ──そうしたら大好きな言葉を思い浮かべるんだ。食べ物でも家族でも神様でもなんでもいい』
モーリスの受け売りだが、なにも言わないよりはマシだと、できる限りの笑顔で『やってごらん?』と促す。
エミルは一瞬戸惑った様子を見せるが、僕の言う通りに瞳を閉じて深呼吸をする。
『ありがとうございます……聖者さま。ご心配をおかけいたしました』
そう言うエミルの表情は、もういつものように目尻の下がった柔和な顔付きに戻していた。
どうやら身体の震えも収まったようだ。
うん、モーリスはやっぱり偉大だ……さすがは元殿下……
劇的な効果を見せたモーリスのおまじないに心の中で称賛を贈ると、サッ、と気持ちを切り替え、今度は内部の構造を確認する。
今いるのはだだっ広い空間だ。
四隅には大きなかがり火が焚かれていて、室内の全容が見渡せる。
部屋の形は正方形に近く、一辺は優に百メトルを越えているだろう。
天井は──かがり火の灯りが届いておらず、確認できない。相当な高さがあるようだ。
そして正面の壁にはこの部屋にあるもうひとつの出入り口が見える。
先までは暗くて確認できないが、おそらく奥へと続いているのだろう。
『あそこだな。──真ん中を突っ切るのは危険だから壁沿いに進もう』
握っていた手を離すとエミルが惜しむような声を出す。が、手を繋いでいては有事の際に対応が遅れる。
僕は心を鬼にしてエミルの前に立つと、エミルを視界に収めつつ、まだ鳴りやまない金属音を後にして奥の通路へと進んだ。
◆
大部屋から見えた入口へ辿り着き、通路を奥へと進む。
ここもかがり火が一定の間隔で焚かれていて視界は良好だった。
通路は大人五人が並んで通れるほどの広さがあり、緩やかな上り坂になっている。
床には大きさの揃った平らな石が隙間なく敷き詰められていて非常に歩きやい。通路の左右にずらりと並ぶ、身体が人間で頭が鳥の像を抜かせば、だが。
不気味な像はかがり火に陰影を揺らめかせ、まるで今にも襲いかかってくるような錯覚を与えてくるのだ。
並んで歩くエミルもこの像が苦手なのか、身体を僕に寄り添わせてくる。
この通路までは剣戟の音も聞こえてこないが、カイゼルさんが起こした、あの地震のような衝撃は伝わったはずだ。
今は気配こそ感じないが、その衝撃に気が付いた敵がいつこの通路を通って外に向かおうとするかもわからない。
アクア、リーフアウレ、頼んだぞ……
僕は慎重に慎重を重ねて通路を進んだ。
しばらく進むと奥から吹いてくる風が強くなってきた。そのことから間もなく何かしらの部屋なり空間に出るのだろうと予想をつける。
そしてしばらく歩き──二百メトルは登って来ただろうか、僕とエミルは次なる部屋に出てきた。
敵は……大丈夫そうだ。"嫌な感覚"はない。
真っ先に空間内の索敵を終えた僕は、部屋の中を確認する。
この部屋は天井も、そして四隅も確認できないくらいに薄暗かった。
広いのか、狭いのか、見当が付かない。
ここにもいるぞ……
部屋の中央には、この部屋で唯一視界に収められるものである、巨大な二体の像──ここまで何度も目にしてきた鳥人間の石像──が、異様な存在感を放っている。
この部屋の明かりはその不気味な石像が手に抱えているかがり火だけだった。
おそらく神を祀る部屋──なのだろう。
『聖者さま! あそこを!』
不気味な像の顔を見ていた僕が、エミルが指さしている石像の足もと辺りに視線を移すと──大勢の人が倒れている様子が、真上にあるかがり火の明かりによって照らし出されていた。
『行ってみよう!』
エミルを連れて石像の下まで移動する。
するとそこにはぐったりと横たわる多くの人の姿があった。
全員女性のようだ。
この人たちが今回の救出目的である、『国中から攫われた女の人』なのだろう。
数を数えると、全部で二十九人。かなりの数だ。
『この広さなら寝小丸さんも入れる。この人たちを運ぶのを手伝ってもらおう』
僕はエミルと目を合わせて頷き合う。
『中には敵はいないようだがカイゼルさんのことも心配だ。一度戻って寝小丸さんと──』
もう一度ここに来よう、と続けようとしたとき、
「きゃあ!!」
「エミルッ!」
僕の目の前からエミルが消え──いや、宙に浮かび上がった。
「聖者さまッ!」
「エミル!」
反射的にエミルを掴もうと手を伸ばすが、僕の身体は後ろから誰かに押さえつけられてしまっていて自由が利かない。
マズイッ!! 隠れ者かッ!?
そう理解したときにはエミルの手はさらに離れていった。
エミルの身体はゆっくりと宙に浮かび上がっていく。
お師匠様の指示通り僕は一瞬たりともエミルから目を離さなかった。
どこを調べるときも、常にエミルが僕の視界の中にいるようにしてきた。
敵への警戒も十二分にしていた。
それなのに──。
それでも僕は咄嗟に加護魔術を行使しようと、
「くっ! 精霊よ! ラルクの名に於いてエミルを護れ!」
精霊に命令を下す。しかし
「ア、アクア! リーフアウレ! ラルクの名に於いて命令だッ! エミルを護れッ!!
精霊は姿を現さない。
「アクアッ! 出て来いッ!」
僕の切羽詰まる声にも応じてくれない。
すると僕の背後から
「──ふん、小国の精霊使いか。無駄だ……■ ■様の前では精霊は姿を現わせん」
吐き捨てるように話す冷淡な声が聞こえてきた。
「──なッ!?」
こいつらの気配を感じ取れなかったのもそのせいかッ!
エミルが懸命に右手を伸ばし、僕も必死にその手を掴もうと千切れんばかりに右腕を突き出す──が、ふたりの指先は掠めるどころか、次第に距離を離していく。
「──聖者さまッ!」
エミルの悲痛な叫びが広い空間に木霊する。
「──エミルッ!」
いくら叫ぼうともふたりの距離は縮まらない。
「聖者さまッ!」
「エミルッ!」
するとエミルの真横にかがり火の灯りを受けてぬらりと光る巨大な鎌の刃が姿を現し──
「……冒険の真似事は愉しめたか?」
手を伸ばしあう僕たちを嘲笑うようかのような声が聞こえてくる。
鎌の鋭い刃は、勿体つけるかのように、僕に見せ付けるかのように、ゆっくりとエミルの首を、命を刈り取ろうと──。
どれだけ伸ばそうと届くことのない手と手。
刹那、あの夢が脳裏を過る。
クロカミアの涙に濡れる瞳と、エミルの恐怖に怯える瞳とが、夢と現実の世界線を越えて重なりあう──。
そしてこの先に待っているのは僕の目の前で無残な最期を遂げる少女の姿──。
あの夢は……このことの暗示……だったのか……
また……失う……
すべてを諦め、伸ばした手を下ろしかけた弱く情けない、愚かな僕という存在を、
「──キョウッ!!」
エミルの魂の叫びが蹂躙した。
──どくん!
と、その瞬間、胸の奥でなにかが脈打った。
エミルの叫びが僕のなにかをこじ開けようとしている。
──両眼が疼く。
僕は無意識のうちに
「──ミアッ!!」
そう叫んでいた。
その叫びをあげたのは僕の魂か──。
そして──
開かれたなにかから、いつもの言葉が頭の中に流れ込む。
「【普賢三摩耶印──】」
それはとても不思議な言葉──。
しかしどこかで聞いたことがある言葉──。
「──ッ! 九字の印だとッ!?」
僕を羽交い絞めにしていた隠れ者が、驚きの声を発しながら僕から距離を取ったのがわかった。
なぜだかわからないが、その必要に駆られた僕の口から不思議な言葉が紡がれ──自由となった身体は勝手に動き、両手の指が不可思議な形で結ばれる。
「【──臨】」
僕の口からその言葉が発せられた次の瞬間──
頭の中は冷静さを取り戻し、狭かった視野が広くなる。
なにもできずにいたはずなのに、なにも打つ手がなかったはずなのに、次に行動すべきことが理路整然と積み上げられていく。
しかし冷静な思考とは相反して心の一番深いところではなにかが熱く滾っている。
──二度と、
「【アクアディーヌ、リーフアウレ、精霊封じを消し飛ばせ】」
──もう二度と、
「【アクア、リーファ、原初の精霊二柱をクロカキョウの名に於いて使役する……】」
──もう二度とミアを手放すものかぁッ!!
「【────這え! 霧氷の大蛇!】」
僕の周囲に光の珠が浮かび上がるや否や、霧状に姿を変え、次の瞬間には大きな蛇となって敵に襲いかかる。
蛇はエミルの脇をすり抜け、敵がいると思われる場所に牙を剥く。
そして攻撃を受けた敵──隠れ者──が姿を現したときには大蛇に巻きつかれ、エミルと鎌を手放していた。
エミルの身体が地上に落下を始める。
「【リーファ!】」
僕が精霊の名を口にし終えたときにはエミルの身体はふわりと地に足をつけていた。
良かった、もうエミルは無事だ──。
だがこれだけでは終わらない。
──終わらせない。
──終わらせてなるものか。
敵を全滅させるまでは──。
「【大金剛輪印──】」
不思議な言葉とともに組んでいた指の形が変わる。
「【──兵】」
言葉を紡いだ後にはますます集中力が高まり、身体の中から力が湧き出てくる感覚を覚える。
僕の闘志に応えるように言葉も続く。
「【外獅子印──】」
またしても勝手に指の形が変化し
「【──闘】」
言葉を唱える。
この時点で僕の力は頂点に達していることが自分でもわかった。
この広い空間を埋め尽くすほどに精霊が乱舞する。
「【喰らい尽くせ──霧氷の八岐大蛇】」
その言葉と同時に精霊たちが変えた姿はひとつの胴体からいくつもの頭が生えた恐ろしい生き物の姿だった。
見るだけで恐怖する巨大な生き物はその直後、すべての鎌首をもたげて隠れ者に向かって一斉に襲い掛かった。