第80話 心の声
「──というわけで、エミルの方からは特になにも……」
「そうかい、ご苦労だったね。じゃあ童は明日に備えてゆっくりとお休み」
僕はエミルと話したことについて、報告にもならない報告を終えてお師匠様の部屋を出た。
今夜の夕飯は明日の作戦の最終打ち合わせをしていたために遅くなり、カイゼルさんとふたりきりで食べた。
クラックと顔を合わせ辛かったので、結果として助かったかたちになったのは偶然だ。
その後エミルの部屋へ行き、それとなく心配事でもあるのかと聞き出そうとした。が、エミルはクラックの言動についての謝罪と、明日の僕の身を案じるばかりで自分のことはまるで話そうとしなかった。
せっかく寝小丸さんと行った作戦会議(?)も役には立たなかったようだ。
「あ、お師匠様に『僕の中の僕』について聞くの忘れた」
自分の部屋に戻ってからそのことに気が付いたが、もう夜も遅いのと明日のことをおさらいしておきたかったのもあって、お師匠様に尋ねるのはまたの機会にしよう──と今夜のところは諦めた。
◆
「そろそろ寝ようか……」
明日の作戦を頭に叩き込み、支度を済ませていざ横になるも、頭が冴えてなかなか寝付けなかった。
明日のことを思い浮かべると血流が早くなり、眼を閉じてすらいられないのだ。
モーリスと特訓していた、ある日の晩に似ていた。
難しい狩りを『明日はラルクひとりでやってみろ』と、言い渡されたとき、その日も今と同じように眠れなかった。
そのときモーリスは『平常心になるための"言葉"を決めておけ』と教えてくれた。
そうするとなにかあったときに自然とその言葉が口から出るようになるのだそうだ。
そして日常と変わらない、落ち着いた精神を保つことができる、と。
人によってはそれが祝詞であったり神の名だったりするらしい。
身体の前で十字を切ったりする"仕草"というのもあるという。
ちなみにモーリスは、と問うと『俺は兄弟の名前だ』と教えてくれた。
自然と出る言葉──そう言われても僕にはピンとこなかった。
家族はもういないし、信じている神もいないのだから。
結局あのときは、なんの言葉にしよう──などと考えていたら、いつの間にか眠ってしまっていたが。
「言葉か──」
思い起こすと、人鬼を前にしたときも、ファミアさんと戦ったときも、寝小丸さんに初めて会ったときも、僕は総じて狼狽えてしまっていた。
身体が硬直してしまって次の行動に移れなかった。
そんなときに集中できる言葉があれば、不測の事態を前にしても落ち着いていられるのだろうか──。
「兄弟の名前か〜」
僕はものは試しとばかりに、モーリスの真似をしてみようと、布団に横になったまま目を閉じた。
ん、ん、ん……
そして兄弟の顔を思い出す。
よし、顔は浮かんだ!
次は──
自然に、自然に、平常心、平常心……よし、今だ!
「──エミル!」
できたばかりの妹の名を叫んだ。
無論、弟(オーガ級)でも良かったのだが、なんとなく余計眠れなくなってしまいそうな気がしたのでエミルにしておいた。
すると……眠くなる、までには至らなかったが
──ぐう〜
それでも少しは落ち着けたようで、お腹が空腹を訴えてきた。
今晩の夕飯は、何度もお代わりをしていたカイゼルさんと違って、僕はなにも口にできなかった。
緊張しすぎてスープすら喉を通らなかったのだ。
『兄者! それでは明日に支障を来たしますぞ! 某の初陣前夜など──』と始めたカイゼルさんを横目に水だけしか胃に入れられなかった。
「今ならスープくらいなら入るかも」
僕は多少なりとも効果を発揮したエミルに心の中で感謝をすると、食堂に行って残り物をもらってこよう──と布団から起き出した。
そして部屋の引き戸を開き──
「うわッ!」
「きゃっ!」
部屋の前で立っているエミルにびっくりして声を上げてしまった。
突然出てきた僕に面食らい、エミルも目を見開いている。
「エミル!?」
どうして僕の部屋の前にエミルが?
エミルを見ると、ミスティアさんから借りた夜着に袖を通し、手には湯気のあがる皿を乗せた盆を持っている。
「あ、あの、聖者さまがお夕飯をあまり召し上がってなかったので……お夜食に粥をと思い……」
あ、そうか! 今日の食事当番はエミルだったっけ!
それで心配して……
「ありがとう、エミル、ちょうど今、食堂に行って残り物をもらってこようとしてたところだったんだ」
なんて気の利く妹なんだろう!
「あの……」
「どうかしたの?」
なぜか盆を持ったままもじもじしているエミルを見ると、顔が真っ赤に染まり、長い睫毛が震えている。
「エミル!?」具合でも悪いのかと心配すると
「聖者さま……あの……先ほど私の名を……」
──!
し、しまった! 聞かれていたッ!?
「い、いや、あれは、なんというか、その、気持ちを落ち着かせようと──」
顔が赤いのはそのせいか! と、必死に弁明する。
「落ち着く……? ──聖者さまは私の名を口にすると落ち着かれるのですか!」
「あ、そ、そういう意味じゃなくて、いや、そうなんだけど、そうなるかなと試しに──」
「嬉しいです! 聖者さま!」
ああ、違うのに!
助けて、モーリス……
◆
「そうだったのですね、そのお友達の方が……機会があったら是非一度お会いしたみたいです」
とりあえずエミルには部屋に入ってもらい、名を叫んだ経緯を一から説明することでなんとか理解してもらえた。
エミルは『妹ですか……』と、少し複雑な表情を浮かべるとその後『血は繋がっていませんから……』となにやらぶつぶつ独り言を呟き始める。
かと思うとパッと顔を綻ばせて『問題はありません!』と手を握りしめて力強く頷く。
表情をコロコロ変えるエミルが少し心配ではあったが、本人はいたって元気そうだったのでそっとしておいた。
この場でもモーリスの名前は出せないので『友達』ということにしておくことも忘れなかった。
「ぷはぁ! ごちそうさまでした! 美味しかったぁ! これで明日に備えて英気が養えたよ! ありがとう、エミル!」
「いえ、この程度のこと……それで、あの……」
「ん? どうしたの?」
「聖者さまにお願いがあるのですが……」
お願い?
もしかしたらそのことを言いたくて僕のところに来たのかな?
僕は昼間みせたエミルの浮かない表情の原因がわかるかもしれないと、
「どうぞ、なんでも言ってみて、僕にできることなら──」
大きく構えたが、
「明日! 私もお連れください!」
無茶なお願いをする妹に開いた口が塞がらなかった。
◆
「──と、いうわけなんです。もう僕ではどうすることもできなくて。エミルにはお師匠様の方からきつく言っていただけないかと」
「エミルがねぇ」
そして僕はいったんエミルを部屋へ返して、再びお師匠様の部屋にお邪魔している。
エミルが明日の作戦に参加したい理由はふたつあるという。
ひとつは僕が危険な場所に向かうというのに、自分だけ屋敷に残っていることが憚れるから、だそうだ。
『僕は助けた人を誘導するだけで、敵の前に出たり危ないことをするのはすべてカイゼルさんだよ』と説明したのだが『誘導であれば私にもできるし、もし怪我をしている人がいればその場で治療ができます』と返された。
それでも『妹を危険な目に遭わせるわけにはいかない!』と断ったのだが、『妹が兄様のことを心配するのはいけないことなのでしょうか!』と涙まじりに言われてしまい、ぐうの音も出なくなってしまった。
我ながら妹には弱いと痛感している。
そしてもうひとつの理由が──。
「心の声、ねぇ、本当にあの娘がそう言ったのかい?」
「はい。確かに『心の声に従いたい』と……」
僕にも理解できない『心の声』なるものだった。
エミルが言うには昼間──僕とクラックが騒動を起こしかけたときのことだが──エミルがクラックに突き飛ばされて悲鳴をあげ、僕の態度が急変したとき、エミルの胸の奥で声がしたそうだ。
その声がなにを言っていたのかを聞いてみたのだが『今はまだお答えできません』と話してくれない。
『そんなことであれば理由にはならない』と、もう一度問い質したのだが『いずれ時が参れば必ずお伝えします』の一点張り。
結果的に、僕が『連れて行けない』と言っても聞き入れてもらえなかったので、回答をいったん保留にしておいて、お師匠様からエミルに言ってもらおうと考えたのだ。
それに確かに昼間のあのときは、僕自身も胸の中でなにかが起こったような気がした。
そのことと『僕の中の僕』のことと、関係があるのかもついでに聞いてみよう、と、お師匠様の部屋に来たというわけだった。
「ひょっとするとあの娘も『邂逅者』なのかもしれないねぇ」
額の皺をなぞるお師匠様の口からまたその言葉が出てきた。
邂逅者──。
いわゆる『前世』の魂を受け継いで、現代に生まれてきた者のことだ。
先日お師匠様から僕が『邂逅者』である可能性が高い、と話されたのは記憶に新しいが、今また耳慣れない言葉をここでも聞かされるとは──。
「それは、エミルが僕と同じ……?」
「本人が『邂逅者』という言葉を知っているかはわからないが、もしかしたらそれを確かめたいのかもしれないね」
「確かめる? エミルはどうやって確かめるっていうんですか? 敵の真っ只中で」
しばらくお師匠様は無言でまぶたを閉じていたが、
「ハンッ! そういうことかい! ──あの娘もやるもんだねぇ、若い頃の私を見ているようだよ」
エミルの考えていることがわかったのか、眼をかっと見開いて鼻を鳴らす。
しかし、僕の頭ではまだそこまでは至らず、
「え? お師匠様、そういうことってどういう──」
お師匠様に答えを求めるも、
「童ッ!」
「は、はいッ!」
目の前にいるにもかかわらず大声で名を呼ばれ、僕は居住まいを正した。
するとお師匠様は
「明日エミルを連れて行っておやり」
優しい声に調子を変えてそう言った。
「え? いいんですか!? エミルを連れて行っていいんですか!?」
僕はお師匠様の方からエミルに『ダメだ』と言ってくれるものと思い込んでいたので二度も確認してしまった。
「ああ、構わないよ、そのかわり、いいかい? 童、あの娘から片時も目を離すんでないよ」
「片時もって、そんなの無理──」
「無理って思うんならエミルにそう話すんだね、兄は妹の面倒を見きれません、とね。昼間わたしが言ったこと覚えているかい?」
どうしてここでその話になるんだろう、と僕は首を傾げる。が、そのことは頭の片隅に置いてあったのですぐに答えられた。
「もちろんです。さっきは聞けなかったので、この後聞こうと思っていましたから。『僕の中の僕』ですよね?」
「ああ、お前さんの中のお前さんだ。あの娘がしようとしていることはね、そのことにも関係があることかもしれないよ」
「エミルと? 『僕の中の僕』が? どういうことですか?」
お師匠様の顔を覗き込むが、
「それを明日確かめるんじゃないかい。──明日になってみればわかるだろうさ」
上手くはぐらかされてしまった。
そして僕は無い頭でどうにか答えに辿り着こうとうんうん唸った。
『あの娘も考えたもんだね……健気というか、いじらしいというか……』
お師匠様の意味深な呟きも気にならないほどに。