第77話 僕の中の僕
「聖者さま、クラックにも発言の場をいただいてよろしいでしょうか」
カイゼルさんが『兄者! 某は厠へ行って参るぞ!』といって席を外したことによってようやく食堂に静けさが戻ってくると、その機をうかがっていたのかエミルが隣に座るクラックとやらに目配せをする。
「あ、もちろん、……えと、初めまして、お師匠様……イリノイさんとは遠い親戚で、少し前からここで生活をしているキョウと申します」
クラックとやらは、くすんだ金色の髪を手でかき上げ、
「助けてもらったことに対しては礼を言う。だが、エミルには金輪際、一切近付くなよ? ブレナントの聖女のエミルに聖者なんて呼ばせて良い気になってるかもしれないが、本来、お前みたいなガキが相手してもらえるような女じゃねえんだぞ?」
つまらなそうに口を開いた。
「……え?」
「ク、クラック! なんてことを──」
「いいからお前は黙ってろエミル。お前は子どものころから人が良いから思っていることを言えないんだ。だから俺が代わりに言ってやる」
「止めて! クラック! あなたなにを考えているの!?」
エミルの制止も聞かずにクラックは立ち上がり、
「いいか? キョウとかいうお前、エミルと俺は幼馴染なんだ! 小さい頃からお互いのことを知っているし、愛し合ってもいる! 命を助けた弱みにつけ込んでエミルに言い寄るなど俺が許さないからな!」
人差し指の先を僕に向ける。
「な、クラック!? どうしてそうなるの? どうしてそんな恩を仇で返すような──」
しかしクラックはエミルの言葉を遮り強引に腕を掴む。
「早く立て! エミル! いつまでもこんなとこにいないでさっさと帰るぞ!!」
「きゃあ! 痛い! 止めてクラック!」
鍛えた冒険者の手で力一杯掴まれたら、いくら聖女であっても少女であるエミルの細腕では抵抗することなどできない。
エミルは顔を歪ませ悲痛な叫びをあげる。
「エミル!」
僕は反射的に中腰の姿勢を取り、いつでもエミルを庇えるように身構えた。
「ちっ! 早くしろ! ったく昔からとろいところだけは変わらねえ、だいたい考えても見ろ! あんなとこに人鬼がいたこと自体が怪しいじゃねえか! お前のことを攫おうとしたこいつが人鬼を焚きつけたのかもしれねえだろ! 気味悪い黒い目をしていやがるこいつが魔物かもしれねえんだぞ!」
「い、痛い! 離してクラック!」
「──いいから、俺の言うことを聞けッ!!」
なかなか立ち上がろうとしないエミルに苛立ったクラックが、掴んでいたエミルの腕を手加減せずに振り払う──と、
「きゃあ!!」 ──エミルの華奢な身体は床に打ち付けられ、悲鳴を上げながら倒れ込んでしまった。
──ドクン
エミルの悲鳴が僕の脳を震わせた瞬間──心の奥にあるなにかが脈を打った。
クロカミアさんが苦悶の表情を浮かべるも、なにもできずにいた夢の中──。
あのときの悲鳴とエミルの悲鳴が結び付く──。
直後、スーッと身体の温度が下がっていくような感覚を覚える。
クラックの許すまじ言動に、激しい怒りが体中に滾っているというのに、不思議と頭の中は波風ひとつ立たずに落ち着き払っている。
横たわるエミルの姿を見て、激昂に駆られれば駆られるほど冷静になっていく。
そして自分でも驚く程に冷淡な声が口から漏れ出る。
「……おいクラック……いい加減にしろよ……?」
静かな、しかし怒気のこもる僕の声に、クラックは少し怯むも
「な、なんだよ! エミルは俺の女だ! 俺がこいつになにをしたところでお前には関係ないだろう!」
エミルを指差し、なお強がってみせる。
「お前の女……? エミルはまったくそう思っていないようだが……?」
「な、なにを! どうなんだエミル! 俺と一緒に帰るだろう? 強くなりたいんなら俺が一から鍛えてやるから、な?」
クラックが声を柔らかくして自分の許へ手招きする。
しかしエミルは上半身を起こすとクラックをまっすぐに見つめ──
「私は帰りません! まだなにも成していませんから!」
猫なで声のクラックにも靡くことなく言い切る。
エミルの表情からは『私は強くなる』という決意と覚悟がうかがえた。
「な、なぜだ! エミル!」
エミルの口から予想だにしていないかった回答を聞いてクラックが目を瞠る。
エミルの決意をより強固にした理由の中には、皮肉にもクラックたち仲間を護るということも含まれているというのに──。
僕はそんなエミルの想いを無下にするクラックという男に
「……らしいぞ? で、どうするんだ? ひとりで帰るのか? 魔物犇めく試練の森の五つの層を突破して。 こっちとしてはお前がどうなろうと知ったことではないが」
同情の余地なく言い放つ。
「──ぐっ!」
クラックは言葉を返せず、エミルを見下ろして悔しそうに歯噛みする。が、すぐにクラックは抑えきれない感情とともに怒りの矛先を僕に向けると
「このガキッ!! てめえがっ!」
「──止めてクラック!!」
僕に向かって掴みかかろうと足を一歩踏み出す。そしてそれを止めようとエミルがクラックの前に身体を割り込ませたとき──
「おやおや、なんだか面白いことになっているねえ。なんだい、恋の縺れかい?」
まさに一触即発の空気の中、飄々とした態度のお師匠様が、食堂の中へ入ってきた。
お師匠様は従えている女性ふたりに「お前さんたちはそこへお座り?」と促すと、
「わたしがン十年前に通った道だねぇ、美しきなり、されど醜きかな、恋の三角関係、というやつだね?」
僕たち三人のことなど気にもかからない様子で、いつもの席に「よっこらしょ」と腰を下ろす。
そしてお師匠様はお茶をひと口すすると
「童、話が済んだのなら、そろそろ──」
静かに湯呑を置き、
「精霊様にお戻りいただいたらどうかね?」と僕の顔を見る。
お師匠様の言葉に、僕は周りを見回すと──そこには無数の光の珠が浮かんでいた。
これ……僕が……?
冷静でいたはずなのに、知らず知らずのうちに精霊を呼んでしまっていたのだろうか。
僕は慌てて精霊に姿を消すよう指示を出す。
幸いにもこの中に精霊を見ることができるのは、お師匠様以外にはいないらしい。
「……なるほどねぇ……そういうことかい。──童、お前さんの中のお前さんが見えた気がするねぇ」
「え? 僕の中の……僕……ですか……?」
ご機嫌そうに頷くお師匠様、僕の向かいに立ったままでいるクラックと神妙な面持ちで僕の隣に座るエミル、異様な雰囲気に顔色を青くしている女性ふたり、そしてお師匠様の言葉の続きを待つ僕──。
食堂内は、次に誰が声を発するのか──お師匠様以外の全員が静寂に息を飲んだ。
屋敷の外に振り続ける雨の音と、炉の炭が、パチリ、とはぜる音しか聞こえてこない。
そして──
「いやあ! この屋敷の広いこと広いこと! 厠に行くだけで迷ってしまいましたぞ! お陰で我慢の限界を越えて、あわや庭で済ますところでしたぞ!」
カイゼルさんの登場によって、また食堂の空気が一変した。
「おや? 皆さんどうされたか! 手洗いなら案内して差し上げるぞ!」
もしかしたらカイゼルさんはこの庵に必要な存在なのかもしれない。