第73話 記憶の糸
「朝か……」
結局、あれから一睡もできずに夜明けを迎えてしまった。
やはり睡眠不足は体力では補えないのか、頭は石が詰まっているかのように重く冴えない。
今日も厳しい鍛錬が待っているというのに、こんなことで大丈夫だろうか。
いつもなら目が覚めてしばらくすると、夢の内容なんて忘れていってしまうというのに、今日見た夢は鮮明に記憶に焼きついている。
クロカミアの、死に行く彼女の涙で溢れた瞳が、僕に伸ばした指先が、そして彼女のもとに最後まで届くことのなかった僕の叫びと、この右手が──すべての映像が、まぶたを閉じればそこにはっきりと浮かび上がる。
「……ミア……」
「シュウエイ……」
夢の中の僕が口にした名を呟く。
ひとつは知らない名だが、確かに僕は夢の中でそのふたりの名前を必死に叫んでいた。
シュウエイ──クロカミアやクロカキョウの知り合いの名なのだろうか、それともクロカミアを惨殺した張本人の名なのだろうか。
誰だかはわからないが、その名を口にした瞬間、僕の鼓動は早鐘を打ち始め、理由のわからない不安に襲われた。
まるで僕がその人のことを知っているかのように。
『邂逅者』──。
前世の魂を引き継いで生まれた者──。
お師匠様の言葉が脳裏を過ぎる。
「夢の世界、あの人たちがいる世界で本当に起こったことなのか……?」
だとしたら……彼女は……
あの夢を最後に……
死……
良くない方向へ引き寄せられる思考が、僕の不安を掻き立てる。
「顔、洗ってこよう……」
僕は鈍重さが抜けない頭を二度三度振ると、このことは後でお師匠様に相談してみよう──と部屋を出た。
◆
「おはようございます、聖者さま。朝食の支度が整っていますが、すぐに召し上がりますか?」
水場で顔を洗っているところに後ろから声をかけられ振り向くと、すっかり体調を戻した様子のエミリアさんが、手ぬぐいを持って立っていた。
「……おはようございます、エミリアさん……ありがとうございます……」
軽く頭を下げて手ぬぐいを受け取り、顔を拭く。
昨晩、お師匠様とエミリアさんと三人で食べた夕飯の席で『キョウ』と名乗ったにもかかわらず、エミリアさんは僕のことを聖者と呼ぶ。
「エミリアさん、その聖者っていうのいい加減やめてくだ──」
「聖者さま! いかがなさいましたか? 顔色がすぐれませんが! 失礼します!」
顔を拭き終えてそのことを咎めようとしたところ、サッと表情を曇らせたエミリアさんが僕のおでこに手を当ててきた。
「え? あ、ああ、少し嫌な夢を見てしまってなんだか寝付けなくて……」
「それはいけません! 少しの間そのままでいらしてください!」
僕はエミリアさんの突然の行動にたじろぐも、おでこに当てた反対の手で肩をがっちり抑えられてしまい、身動きが取れずにされるがままでいた。
「──いかがでしょうか」
「あれ……?」
するとさっきまで感じていた倦怠感が抜け、頭も身体もまるで水晶のように爽快に澄み渡った。
不安も消え去り、まぶたも軽い。
「なんだか……すごくすっきりしました……」
「それは良かったです! 食堂で温かいスープをご用意しておきますので!」
「あ、え? あ、はい、それはどうも……」
パタパタと食堂へ急ぐエミリアさんの後ろ姿を眺めながら
「魔法、なのかな……?」
まだエミリアさんの手のひらの感触が残るおでこを撫りながら独りごちた。
◆
「あ、お師匠様、おはようございます。カイゼルさんたちの様子はどうですか?」
食堂にはお師匠様がすでに起きており、いつもの場所に座っていた。
「おはよう、童。あのデカブツのことなら心配いらないよ、あと三日もすれば起きてくるだろう、他のふたりもね」
デカブツって……カイゼルさんっていったいどんな人なんだろう。
でも良かった、苦労して採ってきた甲斐があったな。
「そうですか。エミリアさんと一緒にいた男の人も?」
「ああ、問題ないよ──それよりマールの花を取りに行ったことを後悔するんでないよ?」
ん? 後悔?
風の精霊のことを言っているのかな?
両眼が黒くなっちゃったから──。
片方だけであれば眼帯で誤魔化せるけど、両方ともなるとそいいうわけにもいかない。
「今さら後悔なんてしませんよ」
まあ、そうそう人前に出ることもないと思うし。
僕は軽い気持ちでそう答えた。
「なら良いがね」
「お師匠様、少しよろしいでしょうか」
僕はエミリアさんの姿がないか確認すると、声を顰めてお師匠様の隣に座った。
「実は久しぶりに夢を見たんですが──」
そして夜に見た夢について意見を求めた。
「それはまた穏やかじゃないねぇ」
クロカミアの最後を聞いたお師匠様は、表情と口調に嫌悪が滲んでいる。
いつエミリアさんが食事を持ってくるかわからないので、所々端折ったかたちになってしまったが、内容は伝わったようだった。
「そうなんです。僕も朝から気分が悪くて……」
「でも、いよいよ記憶が蘇ってきているのかもしれないよ? リーフアウレ様と交わした契約も影響しているかもしれないね」
「え? 精霊が?」
「……童や、お前さんがティアを助けた時のことを詳しく話していなかったね。この話を聞いて童が混乱するといけないと思ったから、時期をみて聞かせようとも考えたんだが──」
お師匠様がなにか考えを巡らせるときによくする、額の皺を指でなぞりながら
「ティアを助けてくれたとき、お前さんが口にしたのは、『クロカキョウ』という名だったそうだよ」
そう言ったとき、食器の割れる大きな音が食堂に響き渡った。
音に驚いてその方向に顔を向けると──。
「あっ! し、失礼致しました! 新しいスープをお持ち致します!」
慌てて厨房に駆け込むエミリアさんの後ろ姿が視界に入った。
僕がクロカキョウと名乗った? い、いや、それよりも今はクロカの名をエミリアさんに聞かれたかもしれないってことの方が重要だ!
「お師匠様! 今の話──」
あたふたする僕の言葉を遮り、平然とした表情のお師匠様が口を開いた。
「あの娘なら安心おし。──お前さんの妹弟子になるんだからね」