閑話 いくつかの心残りはあるものの (後)
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時は暫し遡り──
ミスティアが見えざる敵からの執拗な攻撃を受けている頃──。
「はあッ、はあッ、す、すみませんッ! 門番さんッ! すみませんッ!!」
レイクホールの街を出入りする唯一の門、魔厳大門の中ほどにある門番の詰所に叫び声が響いた。
「すみませんッ!」
急かすような口調で叫ぶ声に、何かあったのか、と、詰所の奥で休憩を取っていたハングが窓口に向かうと──そこには酷く慌てた様子の少年が立っていた。
質の良さそうな外套を羽織り片方の目には眼帯を着けた少年だ。
「なんだお前、どーした? そんなに慌てて、母ちゃんがいなくなっちまったのか?」
ハングは見覚えのない子どもだったため、大方初めて来た街で親とはぐれ、迷子にでもなったのかと見当をつける。
「はあッ、はあッ、少し前に、う、馬が出ていきませんでしたかッ!」
「馬ぁ?」
しかし、ハングは子どもからの予想外な質問に目を丸くした。
「大きな馬なんですが!」
「ああ、ちょっと前に出てったぞ? 俺は奥にいたから見てねぇが、あの飛ばし方は騎士様じゃねぇか?」
ハングが休憩を取るために奥に行き、夜食の腸詰を口に放り込んだ直後に結構な速度で外へ出て行く馬の蹄の音を聞いていた。
この街でそんな馬の乗り方をするのは辺境伯か騎士団くらいのものだ。
どちらにしても夜食を放って出ていったところで間に合うわけがないし、身分の高い人物であるのに変わりはないから自分が顔を出したところで用無しだろう──そう考えたハングはそのまま夜食を楽しむことにしたのだった。
そのことを少年に伝えると
「やっぱり! ありがとうございます! その騎士様を探しているんです! どっちに行ったかわかりますか!」と、身を乗り出してくる。
「いや、だから見てねぇって」──門番としては到底褒められるような回答ではないが、ハングはそう正直に答えた。
元は衛兵だったハングが腰を悪くして門番の職に移動してから八年になるが、(過去の一度を除いて)深夜にここを通ったのは先の辺境伯と騎士団以外にはいなかった。
レイクホールの門番が他の街の門番と違い仕事に取り組む姿勢が疎かに見えるのは、ひとつには聖教騎士団序列一位の騎士が常に領主の城で睨みを利かせていることにある。
スレイヤ王国最強と謳われる聖教騎士団の、さらにはその頂点である序列一位の騎士がレイクホール街内にいる、というだけでこの街に危害を加えようとする者に対しての抑止力となっているため、(結界の効果もあるが)賊や不埒者が侵入する心配がない。
そしてもう一つは、魔厳大門──という特殊な門の仕組みにあった。
レイクホール歴代の領主が連綿と魔力を注ぎ続けているこの門は、敵意や悪意を持つ者が街に入れないという点に於いては魔道具による結界と似た効果ではある。が、ひとつ大きく異なるところは、門を通った魔力を持つ生きとし生けるもの全ての情報を領主の城に厳重に保管されている禁書に自動記録されている、という点にあった。
この門を通行するものは門を通ると同時、即時に禁書に照会され、悪意のある者は無論、過去レイクホールで犯罪を犯した者や、それに準ずる悪しき行いをした者は門を通ることができない。
そればかりか門の横にある隠し部屋に軟禁され、尋問を受けることになる。
当然現在も魔力の記録は日々行われている。ゆえにこの街の門番は形式上配備されているだけに過ぎず、ハングもその例外ではなかった。
軟禁された不届き者の尋問を行ったことも、ハングは過去一度しかない。
したがってハングが街を出ていった馬に乗る人物の姿や向かった先を答えられない、ということも無理からぬことなのであった。
余談だが三百年前にスレイヤ軍が攻め入ってきた際にもその効果は如何なく発揮された。
だが、そのときはたったひとりの第一階級と思しき魔術師によって破られてしまった。とはいえ、それ以前とそれ以降はその名の通り厳戒な護りを誇っている。
「わかりました、すみません。──では、ちょっと街の外に出たいので馬を一頭貸していただけませんか」
ハングの答えに僅かに表情を曇らせた少年が、息を整えつつハングに願い出る。
「馬ぁ? ここの厩舎にいるのは名目上は領主様の馬だ、なんでお前みたいな誰とも知れねぇ子どもに貸さなきゃならねぇんだ!」
しかしハングは(今回は)門番らしく至極もっともな答えを返す。
だが、少年はやや考えを巡らすような素振りをした後「今出ていった騎士様の家の使用人扱いの者なのですが」と話を切りだし、続けて「実はカイゼル様をお迎えにあがるためにお嬢様は馬を出されたのですが、これを忘れてしまわれまして……」と声を潜めるとハングの顔を見る。
「カイゼル様だぁ?」
ハングは、なぜこの少年が聖教騎士の名を知っているのか気になったが、少年が薄明かりの中、外套のポケットからチラッと見せたものの方が気になり「……なんだそりゃ?」と、首を捻りながら近付いた。
すると少年は
「お嬢様の……下着です。湯浴みをされた後、下着も身に着けずにすぐに飛び出してしまわれたのです。このままでは身体が冷えて悪い病に罹ってしまうから、私にお嬢様を追いかけてお渡しするようにと……ご主人様が……」
そう言い、パッと下着のようなものを引っ込める。
「騎士様が下着を穿かないで出てったから走って追いかけてきたってのかあ!?」
「そんなばかな」と、ハングは訝しげな視線を少年に送る。
「はい! ですからとにかく急いでいるんです! 当家には馬が一頭しかいないので!」
「んなこと言っても、お前の顔なんざ見たこともねぇぞ」
「当然です! 普段は外に出られないのですから! それよりも急いでください! あぁ、このままではお嬢様が重い病に! ご主人様になんとお伝えすれば良いか!」
「おい、おい、下着穿かねぇくらいで死にゃあしねえだろ、ったく、だからお前の顔なんざ知らねぇっての、そこまで言うんならどこの家の使用人か言ってみろよ」
「絶対に口外しませんか!? 下着を履いていないなどとお嬢様の矜持に関わりますので!」
「んなこと知るかよ! 俺はただ誰ともわからねぇ奴に馬を貸すことはできねぇと言ってるだけなんだ!」
「──わかりました、イリノイ様にはそう伝えます。門番さんが馬を貸してくれなかったと」
「んあっ!?」
『イリノイ様』──その名を聞いたとき、ハングの背に冷たい汗が流れた。
腰を悪くしてから八年間、毒にも薬にもならない、不偏不党の立場で人生を送ってきたハングの危機管理能力が最大限に反応し、激しく非常警報を鳴らしている。
このままではお前の立場は危ういぞ、全てを失うことになるぞ、と。
少年は踵を返し今にも立ち去ろうとしている。
ハングはその背に向かって慌てて声を掛けた。
「ちょ、ちょっと待て! 今お前、イリノイ様って言ったか!?」
「はい? 私はそう言いましたが。門番さんが『聖教騎士団序列二位のミスティアお嬢様が病気になろうと知ったこっちゃない』とハッキリ言ってのけたくらい、私もハッキリと私のご主人様であるイリノイ=ハーティス様に門番さんが馬を貸してくれなかったと伝える』と言いましたがなにか?」
イリノイ=ハーティスといえば泣く子も黙るレイクホールの影の実力者だ。
なんでも今の領主のおしめを替えてやっていたから領主はイリノイに逆らえない、とか、領主の城に唯一許可なく出入りができる人物だ、とか、レイクホールだけではなく試練の森をも掌握し、獰猛な魔物どもを飼いならしている、だのイリノイに関する恐ろしい噂は枚挙にいとまがない。
自然──ハングの背筋がしゃんとする。
さらにミスティアはイリノイ=ハーティスが掌中の珠のように大切に育てた最愛の孫だ。
それだけでなく容姿端麗、優美高妙、花も恥じるほどに美しく輝くミスティアは、レイクホールでは序列一位の騎士と人気を二分するほどに超が付くほど有名な騎士だ。
その名を知らぬ者はこの界隈では老若男女ひとりもいないだろう。
何を隠そうハングもミスティアの熱狂的信者なのだから。
そのミスティアになにかあったら──全てを失うどころでは済まないだろうことは容易に想像が付く。
「お、おい! お前! いや、お前さん! いや、あ〜っ! もうなんだか訳わかんねぇが、ぼ、坊ちゃんはミスティア様の家の者なのか!?」
「だからそう言っています! 私を見たことがないのは当然でしょう! ハーティス家のすべての内情は門外不出となっているのですから!」
「そ、そうなのか、だから……いや、」
こうなってしまってはハングも次第に押されぎみになる。
雲行きが怪しくなったところで少年が「どうなんですか! 私は急いでいるのです! ミスティアお嬢様がこの下着を待っているのですッ!!」」これでもかと畳みかけてきた。
「わ、わかった! そうなら馬を貸さないわけにはいかねぇ、あ、その、なんだ、だから、ぼ、坊ちゃん、ミスティア様が忘れたというヤツ、あの、もう一度確認しても……?」
もうこの時点でミスティアを慮る少年の想いにすっかり絆されてしまったハングではあったが、どうしても少年のポケットの中身が気になり、急いでいるのを承知で聞いてみる。
「いいでしょう、はい、これです」
「──か、皮ッ!? し、しかも黒ッ!?」
が、麗しの君の意外な嗜好にハングは目頭が熱くなると同時に畏敬の念すら覚える。
「馬を! 急いでくださいッ!!」
「な、なんなら俺が届けてやろうか! その方が速い──」
「あなた、ミスティアお嬢様に殺されますよ……」
「おわ! やっぱいい! い、急げ! 馬はそこの奥の好きなのを使って構わない!」
「ありがとうございます! では急ぎますので!」
「お、おい! 坊ちゃん! 俺はハングってんだ! ミスティア様に会ったら俺のことよろしく言っておいてくれ!」
「わかりましたハングさん! お嬢様にはハングさんのお陰で下着を届けられたと伝えておきます!!」
無論、少年が何度か見せた下着のようなもの──は、ミスティアの下着などではなく、少年が羽織る外套のポケットの裏地、であったことはハングは知らない。
しかしこうしてハングはミスティアに名を覚えられ、少年は馬を手に入れられることができたのだった。
◆
ハングは視線をミスティアのスカートから顔に移すと、
「しかし、ミスティア様ほどの騎士様が下着も穿かずに馬に跨るとは──相当慌てていらしたんですね」
ミスティアの覚えめでたいと図に乗り、つい軽口を叩いてしまった。
「…………下着…………?」ミスティアの眉がピクリと動く。
「あ、いえ、坊ちゃんが……」
ハングが言葉を濁すが時すでに遅し。
全てを吐かされたハング。
そして詰所は大惨事になった。
◆
「ハング、明日の早朝から騎士数名が音信不通の同僚の捜索に出るのだが、その前に我が騎士団のカイゼルらが戻ったら私に一報寄越すように伝えてくれ」
ハングにきっちりと罰を与え、未だ意識の戻らないラルクに向け呪詛を吐いたミスティアは
「ラルクのことは……何かあったら力になってやってくれ」
それでもラルクのことを気遣う。
「は、はい! 承知致しました!」
風の精霊、リーフアウレに吹き飛ばされたハングは腰を押さえながら敬礼する。
「待たせたな」
薄ら笑いを浮かべているグストンと口をあんぐりと開けているリサエラに声を掛けたミスティアは颯爽と馬に跨る。
「目指すはバシュルッツ! 貴君ら、気を引き締めていけ!」
ミスティアはふたりに向かい発破をかけると、針のように振りつける雨を切り裂くかの勢いで馬を走らせた。
そしてレイクホールを発った二日目の夜──
ミスティア一行が偶然一緒になったモーリスらと野営を共にしたとき、粗相のあったエロひげをミスティアがリーフアウレで吹き飛ばしたのはまた別の話。
モーリス元殿下が何をしたのか気になるところではありますが……。
次回から第三章『森の庵』の開始となります。