第33話 暗雲の兆し
ミスティアさんに馬に乗せてもらいハーティス家の屋敷に戻ろうとしたとき、後ろに座っているミスティアさんからただならない気配を感じた。
「ど、どうしたんですか」
「──ッ声を出すなッ」
頭半分振り向いてミスティアさんを見上げると、さっきまでとは正反対の険しい顔付きのミスティアさんが、広場の先を睨みつけている。
なんだろう、と僕も同じ方向を見る。しかしどれだけ集中して目を凝らしても、暗闇の奥にはなにがあるのかまったく見えない。
ミスティアさんにはなにかが見えているのだろうか。
「…………」
「…………」
しばらくの間、金縛りに遭ったように硬直したままの時間が続く。
あまりの緊張感に激しい尿意を催すほどだ。
「気の所為か……」
しかしミスティアさんがそう言った途端に、ふっ、と張り詰めていた空気が弛緩した。
「ッぷふぅー、な、なんだったんですか!? いったい?!」
僕は肺に入れっ放しだった空気を一気に吐き出して後ろを振り向く。
「いや、何でもない」
そう言うミスティアさんは、もう普段の顔付きに戻っていた。
それを見た僕は安堵の溜息を吐くとともに、全身の力が抜けていく。
(なんだよもう、怖いなぁ)
暗闇が怖いわけではないけど、魔物の話を聞いたばかりだったから嫌な汗を掻いてしまった。
「いくぞ」
声も普段の口調に戻ったミスティアさんが、短くそう言うと馬を走らせた。
◆
通りを駆け、見覚えのある門の近くまでやってくると、後ろからミスティアさんの呟きが聞こえてきた。
すると勝手に大きな門が開く。
おそらくこれも魔術だろう。
馬は速度を落とすことなく門を抜けるとそのまま温室を通り過ぎ、明かりが灯る建物の前まで進むとそこで停止した。
「ここが本邸だ」
今度は僕を先に降ろしてくれたミスティアさんが、馬から降りながらそう説明してくれた。
「馬を休ませてくるからそこで待っていろ」
ミスティアさんが少し先の馬小屋に行っている間、手持ち無沙汰になった僕は『街の人が見たことがない』というミスティアさんの屋敷に興味を惹かれ、ついまじまじと眺めてしまった。
(すごいな……このお屋敷……)
ミスティアさんの屋敷は僕の見たことのない造りをしていた。
ここから見えるところにはすべて木が使われている。それ自体は珍しくはないけど、二階、三階がない。意外にもハーティス家の本邸は一階建てだった。
(どうやって中に入るんだろう……)
玄関と思われる正面の入り口には扉がなく、格子状に細工がなされた板が嵌め込まれているだけだ。
(こっちは……うわ、なんだこれ)
玄関の右側には板が張られた長い廊下がずっと続いていた。しかしそこには壁も窓もない。通路がむき出しになっている。
(寒くないのかな……)
反対側を見ると右側と同じく、むき出しの長い廊下があった。
これで雨風をしのげるのだろうか。
(建物の上はどうなっているんだろう)
少し後ろに下がって屋敷の屋根を見上げると、びっしりと石の板のようなものが敷き詰められている。
(なんだあれ……矢から屋敷を守るためなのかな……? でもそれにしては廊下が無防備すぎ、だよな……)
見れば見るほど好奇心が湧いてきた。
「何を物色している」
僕が屋敷を好奇の眼差しで見回していると、いつの間にか僕の背後にミスティアさんが立っていた。
「あ、す、すみません、珍しいお屋敷だったので……」
「そうだろう、レイクホールでもこんな造りの屋敷はハーティス家だけだ」
「そうなんですか……」
レイクホールでは身分の高い人の屋敷はこの造りが主流だと思ったけど、どうやら違うらしい。
「さあ、入るぞ」
そう言い、ツカツカと屋敷に近付くミスティアさんは、中央にある格子状の板に手をかけると、押すでもなく引くでもなく、左側に滑らせる──すると板があった場所にぽっかりと入り口が現れた。
そしてミスティアさんはその入り口から屋敷の中に入っていく。
それを見て「おお! すごい! かっこいい!」と、僕は感心して思わず声を上げてしまった。
(そういう仕組みだったのか!)
「うるさいぞ、何を騒いでいる、早く入れ」
ひとり興奮していると、ミスティアさんに冷めた視線で叱られ、急いで入り口をくぐった。
◆
想像では屋敷の中は風が吹き抜けていて、すごく寒そうな印象だったけど、そんなことはなく、とても明るく暖かかった。
木の匂いだろうか、心落ち着く香りに自然と深呼吸をしてしまう。
「ここで靴を脱げ」
興味津々に扉のカラクリを見ていた僕にミスティアさんが指示を出す。
「え? ここで、ですか?」
「そうだ」
見るとミスティアさんも一段高くなった木の板に腰掛けて、膝まである革靴を脱いでいる。
ミスティアさんの白い脚に少しドキリとしながら「はい」と返事をして、僕はミスティアさんの隣に座った。
「失礼します」とキノコの入った袋を横に置いて、言われたように靴を脱ぐ。
「脱いだらこの木箱の中に入れておけ」
そしてミスティアさんの真似をして木箱の中にしまった。
歩く度にキュッ、キュッと鳴る長い板張りの廊下を歩いて案内された場所は、新しい僕の部屋──ではなく
「なにやってたんだい、こんな時間まで!」
厨房だった。
「ごめんなさい! ノイ婆! いろいろあったの! ご飯食べながら話すから、早速作って!」
あ、ミスティアさんの人格が変わった……。
「ほら貴様、ぼーっとしてないでそこの台に茸を出せ」
そして僕にはこの口調……。
ま、親戚とはいえ他人だからいいんですけど──と、僕は袋を逆さにして、テーブルの上にドサッとキノコを広げた。
「おいッ! なんだこれはッ!」
「童……」
ミスティアさんが目を血走らせ、イリノイさんが嘆息する。
「あ、す、すみません……」
テーブルの上のキノコは半分以上が潰れていたのだ。
僕が抱えていた際に力が入り過ぎてしまったんだろう。
「いや、でもこれは……」
ミスティアさんが僕のことを後ろから羽交い締めにしたからいけないんですよ。
喉まで出かかったけど、ぐっと呑み込んでミスティアさんの怒りが収まるまで、また首をすぼめて我慢した。
◆
「ここが湯浴み場だ、湯は常に沸いている」
「ここが手洗い」
「ここが食堂、夕食はここでとる」
「そしてここが貴様の部屋だ」
「ありがとうございます」
こってり絞られた後、居候で肩身が狭い僕の唯一の心休まる場所をミスティアさんが案内してくれた。
「夕食ができたら知らせに来る、それまでは好きにしていろ」
そう残すとミスティアさんは部屋から出ていった。
「ふうぅ〜〜〜」
身体を思いっきり伸ばして、息を吐く。
「疲れた……」
モーリスとデニスさんと別れてから、まだ一日も経っていない。
初日からこんなにクタクタになってしまって、この先やっていけるのだろうか。
(気疲れが尽きない……)
肉体的な疲れであればモーリスに鍛えられたお陰とあってか、ぐっすり睡眠を就れば一日で取れるだろう。
しかし精神的な疲れは別だ。
今でもミスティアさんとイリノイさんの怒鳴り声が耳に残っている。
でも、さすがにこの中に閉じこもっている限りは怒られることもないだろう。
よし、ミスティアさんが防衛の任に出立するまではここで大人しくしていよう。
そう胸に誓った僕はイリノイさんが運び入れてくれたのであろう、もうボロボロになってしまっている鞄を開けて、荷物の整理をした。
◆
「疲れたから先に湯浴みを済ませてしまおうか」
既に眠い。
夕飯後に湯浴みとなると起きていられるか心許ない。
そう考えた僕は
「よし、そうと決まれば!」
久々の湯浴みを満喫して疲れた身体を癒すことにした。
「えっと、確かこっちだったよな……あれ?」
迷子になりそうなほど広い屋敷を、ミスティアさんに教わった湯浴み場を探して歩き回る。
(すごいな、これ、全部木でできているのか)
屋敷は外だけではなく、中もすべて木で組み上げられていた。
「あ、こっちか、あったあった」
やっと湯浴み場を見つけて、脱衣所で眼帯を外して服を脱ぐ。
そして湯場に続く木戸を横に引いた。
この屋敷はほとんどの扉がこの形式だ。
慣れるまでは少し戸惑いそうだな──なんてことを思いながら湯浴み場の中に入る。
中は湯気が立ち込めていて、ほとんど視界が効かなかった。
手探り状態で湯のある場所までそろそろと進む、と、
(だ、誰かいる!?)
すぐ先で湯を流す音が聞こえてきた。
(まずいッ!!)
みんなが湯浴みをするのは夕飯の後だろう、などと勝手に決め込んでいた僕が悪い。
このままでは最悪、奴隷に落とされてしまうかもしれない。
(早く見つからないように出なきゃ!)
僕は慌てて回れ右をしてここから立ち去ろうと──したとき、焦るあまりに足が縺れてしまい、派手に転んでしまった。
「いてっ!」
次の瞬間、風魔法だろうか、湯浴み場の湯気が綺麗に吹きさらわれ
「ち、違うんですッ! ごめんなさいッ!」
死すら覚悟をして、僕は膝を折り床におでこを付けて謝罪をした。
すると、かぽーん、と湯浴み場に桶を置く音が響き、
「なんだい童、一緒に入るのかい?」
僕の後頭部にイリノイさんの声がかけられた。