第105話 武術科学院の暗部
「──ラ、ラル!? そ、それでは貴方が……だから風たちが……」
ハウンストン先輩の動きが止まる。
リーゼ先輩が、ハウンストン先輩の持つ空になったグラスを受け取ろうとするが
「先輩……?」
先輩が魂を抜かれたかのように硬直していることに
「よろしければグラスを──」
「あっ!」
ハウンストン先輩はハッと我に返ると
「も、申し訳ありません。──私は武術科学院四学年、スティアラ=ハウンストンと申します……初め……まして……」
一瞬立ち上がろうとしたが、下半身に力が入らないのか、寝台に腰をかけたまま申し訳なさそうに手を伸ばした。
グラスを下げにいったリーゼ先輩は、そのことに気付かなかったようだ。
俺はその差し出された細い手──少しでも力を入れようものなら、簡単に折れてしまいそうな弱々しい手──を、そっと握り返しながら
「座ったままでどうかお気になさらずに。──リーゼ先輩も心配されていたようですが、どこかお加減でも?」
失礼な質問かもしれないが、そうきいてみた。
握った手は冷たく乾いていて、つい先ほど鍛練場でみせた漲る生命力のようなものは、今は微塵も感じることができない。
どうしても、なにか”嫌な感覚”が拭えずにいたのだ。
「いえ。そのようなことは。ただ──」
ハウンストン先輩が話しかけた、そのとき。
「ね、姉さま!!」
部屋の扉が勢いよく開いた。
「なんですかオリヴァー。ノックもせずに。それにここではそう呼んではなりませんと何度言ったら──」
「姉さま! な、なぜ部屋から出てるのですか!? 身体の具合でも悪いのですか!? なにかあったのですか!?」
「……まったく。いいから落ち着きなさい」
「落ち着くもなにも、だってずっと外出禁止──あっ!」
背に弓を抱えた男子生徒は、俺と視線が合うと驚いた顔をした。
「ラ、ラークさん! ど、どうして医務室に、も、もしかしてアイザル先輩に! ──す、すみません! ぼ、僕のせいでっ! 本当にすみませんでした!!」
「オリヴァー。少し冷静になりなさい。いったいどうしたというのですか? ラルクさんと何があったのですか?」
「ラルクさ……ん? え? あれ? ラークさんでは……あ! その制服! 魔法科の──」
「ラーク? なに? なに? ふたりって知り合いなの? どういうこと?」
今度はリーゼ先輩がキョトンとしている。
「あれ!? リーゼラルテ先輩! 先輩もご一緒なのですか!」
「すみません。俺から皆さんにわかるよう説明しますので──」
俺は話がややこしくなる前に、ここに来た理由と、門をくぐってから起きたことを簡単に説明した。
◆
「ではラルクさんが弟を逃がして、その身代わりに……なんとお礼を申したら……」
「僕もラークさん、あ、ラルクさんを助けようと教官を探して走り回っていたところだったんです。でもこういうときに限って全然見当たらなくて……そうしたらここに入っていく姉さまを偶然見かけて……。大きな声を出してしまって申し訳ありませんでした──じゃあ鍛練場の方が騒がしかったのはそれが原因だったのか……」
「書物院……私関係ないじゃん……」
経緯を話し終えると、三人がそれぞれに口を開いた。
「礼など必要ありません。通りかかっただけですから。許可を得ずに立ち入ったことを責められこそすれ、礼を言われるなど。それに成り行きとはいえ、アイザル先輩の槍技を受けることができたのは、ある意味僥倖だったとも言えますので」
「あ、あの槍技を受けて僥倖って……でも、僕を助けてくれた人があの交流戦で大活躍したラルクさんだったなんて、アイザル先輩……本当、いい気味です──あ、ラルクさん! 握手してもらってもいいですか!」
「同じ一学年だ。畏まる必要はないし、俺のことはラルクでいい。その代わり、俺もオリヴァーと呼ばせてもらっても?」
ハウンストン先輩の実弟であるオリヴァーの手を握り返しながらそう言うと、
「も、もちろん! なんだ! みんなの噂と違ってすっごい良い人じゃん!」
嬉しそうに、ぶんぶんと手を振り返してきた。
噂──というのが気になるが、おそらく聞かない方がいい類の話だろう。
まだここでの目的を達せずにいる俺は、余計な話を避けようと、そのことには触れずに、
「そういえば、ハウンストン先輩が先ほど口にしかけたことが気になるのですが……」
気にかかることを訊ねてみた。
が、ハウンストン先輩は、忘れてしまったのか、なんのことかわからない、というような表情をしているので
「お加減が悪いのですか、とお伺いした後、ハウンストン先輩は『ただ』、と」
「そのことでしたか。実は、お恥ずかしいことに、半年ほど前から急に体力が衰えてしまって。お医者様も前例のない症状とのことで……でも今日、外出の許可が下りたのです」
「え? 姉さま外出していいの!? じゃあ、武術大祭も出られるの!?」
「許可が下りたのは外出だけよ。剣はまだ──このようなこと、初めてお会いしたラルクさんに話すようなことではありませんでしたね」
「──いえ。こちらこそ立ち入った質問をしてしまい、失礼しました」
「いいえ。心配してくださってありがとうございます。──あのヴァレッタのお気に入り、というのも納得できますね……」
ヴァレッタ先輩の知り合い……なのかな?
まあ、あの人はリーゼ先輩のことも知っていたくらいだからな……
「こんな病気がなかったらスティアラ先輩は私の代わりに交流戦に出ていたはずだったのに! もう! 武術大祭だって剣が優勝して序列一位に返り咲けたのにぃ!」
と。リーゼ先輩が憤懣遣る方無い、といった口調で腕を組む。
「武術大祭……?」
オリヴァーだけでなく、リーゼ先輩の口からも出た単語に、俺は首を傾げた。
「あそっか。あんたは知らないのよね。んと。わかりやすくいうと、武術科学院の覇権を争う大会のこと。剣、槍、弓、斧、鎚、闘気の六派の生徒がそれぞれ予選と本選とで闘うの。ちなみに私は剣。オリヴァーは弓ね」
なるほど。
魔法科にはない面白い大会だ。
「返り咲く、ということは前回、剣は揮わなかったのですか?」
「なに。それ聞く? 私とスティアラ先輩の前で、それを聞くの?」
「……いえ。こっちの事情は疎いもので……」
機嫌が悪くなったということは、つまりそういうことなのだろう。
「リ、リーゼラルテ先輩……」
「なに? オリヴァー。どうしたの?」
「リーゼラルテ先輩が男の人とそんなに親しげに話をしているところを始めてみたので……いつもはとても上品に……」
「い、いやね! オリヴァーったら! 大人の女性をからかうと痛い目に遭いますことよ!」
六つの派閥の争い……
「なるほど。それで──」
「なによ! なるほどって! 言いたいことがあるならはっきり言いなさいよ! 私だって普段は──」
「違いますよ。リーゼ先輩。序列云々と聞いて少し思い当たる節があったので」
本当にこの紅髪の剣鬼が上品に喋るのか……?
もしそうなら、金貨を払ってでも見てみたいものだが。
「ラルクさん。どうされましたか? なにか気がかりなことでも?」
「気がかり、といいますか──」
アイザルの独り言。
はたしてそれと関係するかどうかはわからないが、伝えておいた方がいいかもしれない。
「──俺を学院と関係のない部外者としかみていなかったからだと思いますが、アイザル先輩が興味深いことを呟いていたのです」
「アイザルが?」
三人が揃って俺を見る。
「はい。周囲に人がいない場所でお話しした方がよさそうな内容なのですが……」