第69話 交流戦5 『エミリアの心の裡』
ヴァレッタ先輩が立ち止まったのは、エミルと話をした場所と同じ、階段の踊り場だった。
引き分けまで持っていった試合の流れに歓喜する、武術科学院の生徒たちの勝鬨がここまで聞こえてくる。
試合開始前のような静かな場所ではなくなっていたが、それでもやはりここには人の気配はなかった。
「時間がないから簡潔に説明するわ」
先輩が声を潜めて切り出した。
人に聞かれたらまずい話のようだ。
付近には人がいないとわかっていながらも、つい周囲を見回してしまう。
「紅白戦の中止は君を『一本線にしないように』と決めた古代派魔術師による策略よ」
「──は?」
予想もしなかった話の内容に驚き、俺はおかしな声を出してしまった。
せいぜい俺の対戦相手に対する忠告かなにかだと思っていたのだが──。
俺は頭の中で先輩の言葉を一語一語繰り返す。
そしてその意味が腹に落ちた俺は、まじまじと先輩の顔を見た。
ブルネットの瞳もより真剣さを増し、俺を見つめ返す。
どうやら冗談を言っているわけではなさそうだ。
「紅白戦が中止になったのって……俺のせい……なんですか?」
「ええ」
どうやら俺の理解した内容で正解だったようだ。
「どうして……」
「君が一本線になることを望まない人たちがいる、ということよ。この話は後にしようと思っていたのだけれど……サウスヴァルトの当主も関係しているようなの。どこまで関わっているかはわからないけれど──」
「サウスヴァルト家が関与しているんですか!?」
どうしてサウスヴァルト家が?
「実は十月の会議があった日の前日、父の書斎で偶然見てしまったの。紅白戦を取りやめて交流戦を開催させるという書類を」
「あれ? 会議は確か十二月だったと──」
「いえ。本当は十月よ。でも今はそんなことはどうでもいいわ。会議が終わってから私なりに考えてみたんだけれど、どうしても君に答えが行きついてしまうのよ。──だから私の考え通り、古代派の陰謀に間違いないと思うの」
「でもどうしてそんな──」
「君が第一階級魔法師に勝るとも劣らない実力を持っていることを知っている古代派が恐れているのよ。現代派に力が付き過ぎることを。だから今日も君が試合場に現れたら、なにか良からぬ行動を起こしてくるかもしれないわ。いえ、もうすでに君の出場を知って対策をとっているかもしれない。君が大観衆の前で無様な負け方をしたら君の評価は地に落ちると」
俺の評価が落ちる……
そんなことで……
「私はそんなこと全然心配していないけれど……でも大陸最強の騎士と戦わせることになってしまったのは私のせいだし……」
やはりヴァレッタ先輩が一枚噛んでいたか。
「そうだったんですか。わざわざ教えていただきありがとうございます。でも教えていただいておきながらなんですが、どうして今なんです?」
「試合が開催されたからタルカッサスの石の拘束が解けたの」
「タル……?」
「タルカッサス。魔道具よ。その石に触れると取り交わした約束を違えることができなくなってしまうという学院にある魔道具。会議終了時にその魔道具に誓わされたの。会議の前に君に教えてあげられれば良かったんだけれども……」
なるほど。
そんな魔道具があるのか。
ということはつまり、今までは話したくても話せなかったということなのか。
古代派と現代派……
しかし古代派がなにかしようとしているのなら、現代派はどうしているんだろう。
「それでね、実はもうひとつ気になることがあるの」
「なんです?」
「非常に用心深い父が、鍵をあけっぱなしで書斎を留守にしていたことなの。まるであの書類を私に見せようとしていたみたいに──」
ヴァレッタ先輩がそこまで話したところで人の気配が近付いてきた。
先輩もそのことに気が付いたようで早口で俺に伝えようとする。
「線なし君、お願い。現代派と古代派の無益な争いに終止符を打って。君ならそれができる」
「終止符って、俺はなにをすればいいんですか? 具体的になにを──」
「とにかく今日は勝って。君が負けないことは私が知っている。圧倒的な力で大陸最強の騎士に勝って、君が大陸最強を名乗るの。そして現代派、古代派、どちらにも属さない新たなる派閥を作るの」
「新たなって、そんな──」
「いい? 約束して。私の目を見て誓って。必ず勝つと」
「ヴァレッタ先輩……試合は最善は尽くしますけど、その後のことについては要相談とさせてください。──それで先輩、俺からもひとつ聞きたいことが」
「なに? 急いで。案内の係がそこまで来てる」
「エミルが、エミリア教官が出場することになった経緯なんですが、いったいどういうわけがあるんでしょうか」
「エミリア教官……スコットといったかしら、向こうの教官。その男と深い因縁があるようね。議会場の隅でなにか話をしているようだったから。でもそのことなら私じゃなくて直接本人に聞いた方が早いじゃない」
俺が、そうじゃないんです、と言いかけたとき
「──ここにおいででしたか。第五回戦、出場されるのはどちらでしょうか。試合場までご案内いたします」
角を曲がってきた案内係が俺たちを見つけた。
「私よ。──それじゃ、線なし君、諸々の件、頼んだわよ」
「……はい。ヴァレッタ先輩も次はおそらく『紅の剣姫』が出場するかと思われます。あの人は……いえ、ご武運を」
リーゼ先輩の能力を伝えるのは、ヴァレッタ先輩の望むところではないだろう。
俺は言いかけた言葉を飲み込み、武運を祈るに留めた。
そしてヴァレッタ先輩は俺に微笑むと、いくつもの疑問を残して試合場へと下りて行ってしまった。
「……本人にか……本人が教えてくれないから先輩に聞いたんだけどな……」
俺はエミルとふたりきりになることに若干の気まずさを覚えながら、戻った通路の先にある観覧席の扉を開けた。
◆
エミルは俺が出ていくときと同じ姿勢のままでいた。
椅子に浅く腰をかけ、膝の上で両手を揃え、そしてまぶたを閉じている。
声をかけようか、いや、集中の邪魔をしては悪いか。
エミルの内面から滲み出るただならぬ雰囲気を前に、俺はなにもすることができずにいた。
そういえばエミルのこんな姿、始めて見るな……
どちらかというといつもはおっとりとしているエミルだったが、今のエミルは試合を直前に控えて、最大限精神を整えている。
青の聖女──。
まさにその異名の通り、ただ静かに座っているだけのエミルであっても神々しさを感じた。
少し前にも感じたように、いつも手を伸ばせばすぐ隣にいたエミルが、俺の手の届かないところに行ってしまったかのような寂しさを憶えてしまう。
声をかけることですら憚られてしまうほどに──。
「聖者さま……」
エミルの秀麗な横顔に魅入っていたとき、エミルがおもむろに口を開いた。
俺は鼓動が小さく跳ねたが、盗み見ていたことを咎められるわけではないということに気付くと
「どうした? エミル」
優しく声を返した。
「……先ほど私が申した件ですが、私が過去と決別するために必要なことなのです」
過去と?
スコットのことを言っているのだろうと察するが、なぜ決別する必要があるのか。
スコットのことが気に入らないとは言っても、なぜそこまでする必要があるのか。
「エミル、どうして──」
俺は言葉を呑んだ。
震えるエミルを見て──。
俺はエミルのことを知ろうとしていなかった。
エミルがずっとそばにいてくれたから。
俺は兄弟子であることを理由に、エミルと距離を置こうとしていた。
俺はエミルは強いと思っていた。
俺はエミルなら勝手に解決するかと思っていた。
俺は鈍感なんかじゃない。
俺は鈍感を装った卑怯者だ。
そうじゃないとするのなら、なぜエミルは震えているんだ。
俺は、俺は、俺は──。
俺はエミルの正面にしゃがみ、震える小さな手を握りしめていた。
「………………すまない……エミル、俺でよかったら話してくれないか」
「聖……者……さま……」
薄らと潤む瞳は、あのときと同じだった。
始めてエミルと出会った庵でのことを思い出す。
不安に押し潰されそうになっていたエミルは俺のことを聖者と呼んだ。
人鬼の動きを止めた俺の姿を見て、神の御使いと勘違いしたという。
俺が聖者などと荒唐無稽もいいところだが、俺はあの日から妹弟子となったエミルを本当の家族のように大切に思ってきた。
ああ、外の歓声がうるさい。
先ほどまで当たり前のように聞こえていた歓声が、雑音のように耳障りな音になる。
ヴァレッタ先輩の試合が始まったのだろう。
エミルがそのことに意識を向け、立ち上がろうとする。
だが俺はそれを許さずにエミルを椅子に留め置く。
ハッと息を呑むエミル。
ぎこちない笑顔を浮かべて首を横に振る俺。
再び観覧席から歓声が上がる。
試合の行方も気にはなるが俺にはそれよりも大切なことがある。
ヴァレッタ先輩の相手は間違いなく『紅の剣姫』リーゼ先輩だろう。
ヴァレッタ先輩以外の人と対戦していたら心配だったが、魔法科学院主席のヴァレッタ先輩であれば苦戦を強いられたとしても負けはないだろう。
ヴァレッタ先輩には申し訳ないが、今ここでエミルの瞳から目を逸らすわけにはいかない。
エミルの心の訴えに耳を貸さなければ……俺は……兄として……また……
「……話せることからでいい。タルカッサスの石の効果は切れている。俺はエミルを失いたくないんだ。もう、二度と……」
なぜ『二度と』なのかわからない。
俺は無意識のうちにそう言っていた。
「聖者さま……私は──」
まだ震えているエミルが小さな口を開いた。
「──私は今日、スコットと相まみえます。その際、私はある賭けに出ます。聖者さまはきっとお怒りになるでしょう。でも聖者さま。私を、妹であるエミリアをどうか信じてください。私は必ず聖者さまのもとへ戻ってまいります」
そして俺の手を握り返す。
「そのときにはどうか、私のことを力強く抱き締めていただけませんか。勝手なお願いだとは思いますが、聖者さまの腕に抱かれることを心に刻み、私はスコットと対峙して参ります。今はそうとだけ──」
それ以上は聞けなかった。
妹であろうとひとりの人間だ。
決めた覚悟を揺るがすようなことはしたくない。
「──わかった。エミルを信じて俺は待つ。必ず元気な姿で俺のところへ戻ってきてくれ」
一瞬、朝の夢のことが脳裏をよぎるが、縁起でもないとすぐに拭い去った。
「──そうだエミル、この催しが終わったら青の湖に行かないか? 良い場所を見つけたんだ。きっとエミルも気に入ってもらえると思う」
「聖者さま……はい! 喜んで!」
エミルが七年前と変わらない笑顔を俺に見せる。
そのことが俺にはなによりも嬉しかった。
そして──
「──第六回戦に出場されるお方を迎えにあがりました」
思いのほか早く案内が来たことに、俺とエミルは目を見合わせた。
気付けば外は歓声で埋め尽くされている。
「え、あの、前の試合は……」
エミルが案内係に問う。
「武術科学院の勝利で終わりましたが……?」
すると男は、試合を見ていなかったのかと言わんばかりに怪訝そうな表情で答える。
ヴァレッタ=サウスヴァルト敗北──。
その事実を理解するまで俺とエミルはかなりの時間を要した。
やはりリーゼ先輩の能力を伝えるべきだったか──。
しかしいくら後悔しようとも時間は、試合は待ってはくれない。
「ラ、ラルク──」
思考の整理が追いつかないうちに、エミルは案内係に連れられて控室を出ていく。
「エ、エミリア教官──」
俺はそんなエミルを、七年前に家族と別れたときと同じ、心に大きな穴が開いたような感覚を味わいながら見送った。
心に大きな穴が開いたような──。