第43話 三度変わる空気
「──遅くなって申し訳ない」
クレッセント教官が入室すると教室は冬の到来のように静かになった。
俺たちをちらちらと窺っていた視線も教壇に集まる。
その中にはミレアとシャルロッテ嬢のものもあった。
普段であれば二の鐘に遅れることなく授業が始まるのだが、今日に限ってはどういうわけか開始時刻から一アワルも過ぎて座学の授業が始まった。
生徒たちも口には出さないが、理由はなんとなくわかっていた。
俺としては特にどうでもいいことなので気にはしなかったが。
しかしそのために俺は授業開始に救われることなく、ジュエルとリュエルに昨日起こったことをすべて話す羽目となってしまった。
授業開始の鐘が鳴るまで回りくどく話をする。そして鐘が鳴ってしまえば続きはまた明日──というあまりにも稚拙な作戦は功を奏さず、がらがらと音を立てて崩れ落ちた。
鐘が鳴り、フレディアにまつわる話をし終えても(犠牲にし終えても)授業は始まらない。
俺の話を聞いたジュエルとリュエルは『英雄も魔王(魔女)も出てきた……』と喜んではいたが、それでもふたりの瞳の輝きは一向に収まる気配はなかった。
話を終わらせようにもジュエルが『今の話にはロティという人は出てきてないけど、いつ出てくるの』と言われてしまい、また顔をひきつらせることになってしまったのだ。
思った通り、今度は『俺ひとりシュヴァリエールに行かせている間、フレディア自身はいったいなにをしていたの』──と顔を近付けて訊いてきたのだ。
いったいいつから俺とフレディアの話を聞いていたんだろう。
学院内でも常に三位階程度までの印を結んでおいた方がいいかも……
そう思わずにはいられない瞬間だった。
──結果。
フレディアだけを当て馬にすることに気が引けた俺は、フレディアの行動──俺の代わりに貴族の館に行き、ロティという女性と食事をした旨──を話した。
俺とその館の貴族との関係は『俺を鍛えてくれた師匠の知人』としておいた。
昨日の訪問も、『その世話になった貴族に挨拶に行く約束をしていた』と。
しかしここでフレディアが痛恨の一撃を放つ。
『俺の話を聞くよりもレイアさんからの手紙を先に読んでしまった方がいいんじゃないのか?』と促しても、しきりに首を横に振って俺の話に聞き入っていたフレディアが──
『え? そんな貴族はいなかったよ?』と。
フレディアにも詳しく説明していなかったから仕方がないが、まったく敵か味方かわからない奴だ。
だから俺は疑いの目をしているジュエルに対して『その人は国に使える仕事をしているから忙しくて滅多に館には帰ってこないんだ。昨日も家の人に会いに行くだけだった』と答えた。
『国に仕えるってどんな仕事?』と聞かれれば、『貴族だから多くは話せないが、都の掃除だったり、兵隊の鍛練だったり』と答える。
あながち間違いではないからその辺はすらすらと説明できた。
そこまで話してようやくふたりが(フレディアも)納得してくれた──はいいんだけど……
『なにその猫! ジュエルも会いたいの!』『ラルクさん! 私も会いたいです!』となってしまったのには驚いた。
獣人族に分類されるリューイが猫に興味を持つのは当然といえば当然かもしれないけど……
しかしもっと驚いたのは『今度コンスタンティンさんにふたりを連れて行っていいか相談してみよう』──と思えるほどに、ふたりに心を許していた自分の心理にだった。
その中には『獣人族なら寝小丸のことが判るかもしれない』という考えもあるが。
スレイヤ出身ではないこの三人になら、俺のことを打ち明けてしまっても……
なんとなくそんな感情が芽生えてきた。
しかし俺のことを聞いても迷惑がかかるだけかもしれない……
そんな揺れる思いに自問自答していたところ、
『──遅くなって申し訳ない』
教室の扉が開いたのだった。
「授業を始める前に──」
クレッセント教官が難しい顔をして生徒を見渡す。
「──来月の紅白戦に関する緊急議会が開かれていたために本日の授業開始が遅れてしまった。気になっている者も多いだろうから結論から伝えるが……」
やはり遅れた原因は紅白戦が理由だった。
言葉をいったん区切った教官の視線が、俺のところで一瞬止まった──ような気がした。
「──今年の紅白戦は中止となった」
教室内が一斉に騒つく。
紅白戦が伝統ある行事だとは聞いていたが、そこまでのことなのだろうか。
「教官! 質問よろしいですか!」
「ノースヴァルト、なんだ?」
「中止になった理由はなんですか?」
真っ先に手を挙げたノースヴァルトが立ち上がると、教室は再び静かになる。
生徒全員が壇上に立つ教官の次の言葉を待った。
「──最高議会での決定だ。実は我々教官も理由は知らされていない」
忌々しげな面持ちの教官から発せられた言葉に教室の空気が変わる。
静かなことには変わらないが、極度の緊張をはらんでいる。
最高議会?
教官にも知らされていない?
くどいようだが成績にさえ影響がなければ、紅白戦が中止になろうが特段思うことはない。──のだが、最高議会やら仰々しい単語が出てくると、それとは別に気になってしまう。
「教官、噂が真実か確かめることはできますか」
「噂?」
ノースヴァルトから続けれれた質問に教官は眉をひそめる。
生徒のほとんどが知っている話題だ。
教官の耳にも入っているとは思うのだが……知らないふりをしているのだろう。
「はい。あるひとりの生徒が自己保身のために、紅白戦の中止を学院側に申し入れた、とか」
ほぼすべての生徒が一斉に俺を見る。
「ノースヴァルト、お前はその噂とやらをどう思っている」
教官は俺のことは見ずに、ノースヴァルトから視線を外すことなく質問で返した。
「俺は……そうは思いません」
少しの躊躇いはあったものの、ノースヴァルトははっきりとそう答えた。
ノースヴァルトがそう答えたことで生徒たちが、視線を俺から教壇に戻す。
「そうか、それならそれでいい。実は私も他の教官からその噂を聞いたのだがな、さすがにそれは噴飯物だ。考えてもみろ、何百年と続く紅白戦をたったひとりの生徒の意見で中止になどできるものか。紅白戦が中止となったのは近年に於いては過去一度、七年前の騒乱の年、お前たちの記憶にもあるだろうが、やむを得ない事情に見舞われたあの年だけだ」
納得したのかわからないが、ノースヴァルトが腰を下ろす。
あの日を境に、ノースヴァルト率いる貴族の連中が俺に突っかかってくるようなことはなくなった。
好意的とまではいかないが、お互いに適度な距離を保ったまま、波風が立つこともなく学院生活は続いていた。
ひょっとしたら、身体を張って漆黒の矢から助けたことをどこかで追い目に感じているのか──先ほどのノースヴァルトの回答にもその辺りが感じられる。
「今回は学院の上層部からの一方的な達しによる中止の決定だ。だが……喜べ、その代わりと言っては何だが──」
教官は、『喜べ』と言っている割には苦虫を噛み潰したような表情で続ける。
「──毎年冬に開催される武術科学院との交流戦の前倒しが決まった。開催日は顕現祭の前日、本来、紅白戦が行われる予定だった日だ」
教室の空気がまた変わった。
それは戸惑い、興奮、そして──
「今回、武術科学院は特別推薦登録選手枠に、第一階級冒険者集団『銀風の旋律』創設者スコット教官と、護衛としてレイクホール辺境伯とともに入都される聖教騎士団、序列一位の騎士団長が参戦するそうだ」
──絶望だった。