白虫夢
「A組の実相寺さん、彼氏できたんだって」
ファミレスでチョコレートパフェを崩すようにちびちびと食べているポニーテールの少女が何の気なしに言う。
その向かい側に座る楠優子は、マンゴージュースのストローにつけていた唇を離した。
「マジですか?」
「マジですね」
「嘘ですか?」
「嘘じゃないよ。吉やんが言ってたもん」
優子はショートボブの髪を押さえ、頭を振った。それほど信じられない出来事なのだ。
A組の実相寺というのは、優子達が通う市立裏野高校二年女子の最下層に位置している人物で、彼氏なんてものとは無縁な所で生きていると思われていた。
実相寺は基本的に可愛くないし、声も小さく、いつも何を言っているか分からない、ほとんどの女子グループから相手にされないような子だ。あまりにも存在感がないから、影が実体を持った生き物とさえ言われている。
そんな実相寺に彼氏ができたのだ。優子でなくても天変地異がおきたかのような衝撃をうけるだろう。
「しかも、河瀬先輩だよ、彼氏。バスケ部の」
「うっそだあああ」
あまりの驚きに、大声を出し立ち上がる優子。昼時のため、そこそこ混みあっている店内の客の視線が一斉に優子に向く。優子は大衆の目にはにかみ、丸くなるように座った。
「どゆこと? なんで河瀬先輩なの?」
バスケ部の河瀬は裏野高女子の憧れの存在だ。けっして触れてはいけない何か。触れていいのは限られた女子だけのはずで、少なくとも容姿が並の優子には河瀬と付き合うなどという考えは思いもつかない。
「朋ちゃん、やっぱ嘘ついてるでしょ?」
「ついてないって。マジで昨日、吉やんが言ってたの。間違いないよ」
手に持ったスプーンで優子を指し、近藤朋子は言った。
優子と朋子のクラスメイトの吉やんこと吉田調は裏野高のパパラッチと言われるほどの事情通だ。そんな彼女が噂の出所なら間違いはない。
優子はシートの背もたれに深くもたれかかった。
「いい加減、現実を受け入れなさい」
「でも実相寺さんに彼氏って想像できない」
半信半疑の優子に朋子が身を乗り出す。
「ミラーハウス」
ひっそりとした声。
「吉やん曰く、ドリランのミラーハウスから出てきてから、実相寺さん、人が変わったようになったんだって」
ドリランと呼ばれている裏野ドリームランドのミラーハウスには、そこから出てきた人間が別人になっているという噂があった。
優子達が生まれる前に廃園になった裏野ドリームランドは色々と怪奇現象の噂が絶えない場所なので、優子達もその話は昔から知っている。
「ドリランかあ。実相寺さんとドリランてぴったりな組み合わせだね」
「いや、マジだよ? 夏休みになってすぐにドリランに行ったんだって、実相寺さん。で、次の日には河瀬先輩と付き合ってたらしいの」
呆れた笑いを漏らす優子。
「ないですないです、そんなのはー」
オカルトには一切興味のない優子は一笑に付した。
「優子もミラーハウスに行ったら、佐伯と付き合えるかもよ?」
「今、その話、関係ない」
優子に小突かれた朋子が苦笑した。
同じクラスの佐伯貴明に絶賛片想い中の優子は、花火大会に佐伯を誘って即答で断られている。サッカー部に所属している貴明は練習で忙しいのだ。幼なじみの貴明が全てにおいてサッカーを優先する事を優子は知っている。それでも少しは興味を持ってほしかった。
「サッカー部の練習、見に行こっか?」
朋子がいたずらっぽく言うと、優子は頬を膨らませた。
「ただいまー」
夕方、優子が帰宅すると、玄関にいつもは無い大きな靴が一足あった。
「お兄ちゃん帰ってるの?」
リビングから彫りの深い顔が、「おかえりー」とひょっこり現れる。
優子の兄、守が大学の休みで帰省していた。
「就職おめー」
「ありがと」
「夏休みはずっとこっちいるの?」
「ん? 彼女と旅行いきます」
「へえええええ」
夕食の準備が進んでいるテーブルに冷蔵庫から持ってきた麦茶のペットボトルを荒々しく置く優子。そのまま守の隣の椅子に腰かけ、グラスに並々と注いだ麦茶を一気に飲み干した。
「怖っ。なんかあったのか?」
「好きな子に花火大会断られたんだって」
ダイニングキッチンで鍋をふるっている母の清子が笑いながら言った。
「え? 優子、好きな奴いるのか?」
若干シスコン気味の守はショックをうけたが、まだ彼氏がいないと分かって安堵もした。
「貴明君の事、好きなんだよ」
「佐伯貴明? 近所の? マジ?」
清子が頷く。
「もうその話やめてー」
優子がテーブルに突っ伏すと、守が優子の頭を撫でる。
「いいよね、お兄ちゃんは。彼女もいて就職も決まって。順風満帆じゃん」
「どうかなあ? 大変なのはこれからな気もするけど」
守の言うことなどお構いなしに、「彼氏ほしいー」と足をパタつかせる優子。
それを見て、守と清子は優しく微笑んだ。
午前零時。
優子は二階の自室から忍び足で玄関に向かった。
昼間に朋子とあれこれ話しているうちに、ドリームランドのミラーハウスに行ってみることになったのだ。
朋子はもう優子の家の前に来ている。連絡があった。
「どこに行くんだ?」
階段の途中にいる優子は声のする方を見上げた。
守。厳しい顔をしている。
「ちょっとトイレに」
「トイレ行くのに、リュックはいらないよな?」
優子は学校指定のジャージにリュックを背負っている。
「お願い。ちょっと行って、すぐ帰ってくるから」
「だから、どこに行くんだよ?」
目を泳がせる優子。
「えーっと、ドリームランドなんですけど」
「駄目だ」
優子は肩を落とした。守に見つかったら止められるのは分かっていた。だからこそ、こっそり出ていこうとしたのだ。
守は昔からオカルトやら心霊現象やらを嫌っていた。ただの怖がりなのだが、そういうものを必要以上に遠ざけようとしているところがある。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
「駄目だ」
「ホントにすぐ帰ってきますから」
「駄目だ」
「お願いします。もうわがまま言いませんから。朋ちゃんも家の前まで来てるんです」
優子が手を合わせて頭を下げると、守は力なく笑った。
「だいたい、どうやって行くつもりなんだよ? 自転車だと一時間はかかるだろ」
「そこは気合いでがんばる」
「行っていいなんて言ってない」
「ありがと。お兄ちゃん」
手を合わせたまま優子が首を傾げてにっこりと笑う。
完全に優子のペースだった。兄は妹に甘いのだ。
玄関の前には朋子がいた。優子と同じような格好をしている。
「ばれてない?」
「お兄ちゃんに見つかったけど大丈夫。チョロイもんです」
「誰がチョロイだ?」
守が守護霊のように優子の背後に立っていた。
「こんばんは」ぺこりと挨拶をする朋子の後ろに隠れる優子。
「送っていくよ。子供が二人で深夜徘徊なんて駄目だからな」
守の指先で車のキーがくるくると回っている。
優子と朋子は深々と頭を下げ礼を言った。
裏野ドリームランドは静寂に包まれていた。まるで来る者を拒むかのように物々しい雰囲気を発している。
夏になると、肝試しに来た若者が行方不明になったりおかしくなったり、そういう噂があとを絶たないが、それでも若者達は好奇の心を持ってここを訪れる。
優子と朋子は静まり返ったミラーハウスの中を懐中電灯で照らして歩いていた。
ドリームランドが廃園してから二十年ちかく経っており、ミラーハウスの外観は廃屋そのものだったが、屋内は不自然なほどに整っている。
その不自然さに二人は奇妙な感覚に囚われていた。
曇り一つない完璧に磨きあげられた無数の鏡にジャージ姿の少女達の姿が幾重にも重なって映っている。
「さすがに怖いんだけど。お兄さん、ついてこなくて正解だね」
守は怖いという理由で、エントランスゲートの前に車を停めて待っている。
優子の袖を掴んで離さない朋子の顔が徐々にひきつり始めるが、優子はどんどん奥に進んでいった。
「お兄ちゃんがこんなとこに来たら、おしっこ漏らしちゃうよ。で、一番奥だっけ?」
噂によると、午前二時にミラーハウスの最奥の部屋にある大鏡に映りこむと別人になってしまうらしい。
優子はそんな噂を信じていないが、彼氏ができそうにない実相寺に彼氏ができたのだ、何でもいいから確認しておきたかった。
最奥の部屋にたどり着くと、噂通り大鏡があった。
幅三メートル、高さ五メートルの鏡だ。懐中電灯の光を眩く反射している。
「綺麗」
大鏡に映る自分に見とれている優子は感嘆の吐息を漏らした。いつもの自分とはどこか違って見えるのだ。
「二時だっけ?」
「そうだね。あと一時間くらいあるけど、どうする?」
「待つ」
「マジ? お兄さん、心配して警察呼んじゃいそう」
優子は失笑すると、鏡から吹きつける風を感じた。
「風が吹いてる」
「なにも感じないけど」
「ほら、鏡から吹いてきてるよ」
鏡の前に立つ優子の毛先が揺れている。
「ちょっと、冗談やめてよ」
優子には鏡の表面が波打ったように見えた。恐る恐る手を伸ばすと、指先が鏡の中に吸い込まれる。
「なにこれ? マジでヤバイかも」
変な笑いがこみ上げてきた優子は振り返って朋子に言った。
「向こう側に行けるみたい。ちょっと行ってくるから、ここで待ってて」
優子が鏡の前で忽然と消えると、朋子は呆然として立ち尽くした。
空は厚い雲に覆われているが明るい。
優子はミラーハウスから出ると外のまぶしさに目を細めた。
鏡の向こうの裏野ドリームランドは廃墟ではなく、客の姿は見えないが営業しているかのようだ。各アトラクションも風化せずに残っている。
当然、朋子と守はおらず、優子はドリームランドの最寄り駅から電車に乗って裏野市街に向かった。
お金は普通に使えたし乗客もいる。元の世界となんら変わるところがない。ただ、周りの人達の目が虚ろなのが優子は気になった。
どんよりと曇った空から雨が一粒落ちてくる。
足早に自宅を目指す優子。
空が黒に染まり、どんどんと強くなる雨足の中、優子は帰路にある佐伯貴明の家の近くで立ち止まった。
貴明が同い年くらいの女と家の前で話している。
優子は気付かれないように遠くから観察した。雨の中でも貴明がその女をじっと見つめているのがわかる。少し胸が痛んだ。貴明が優子の事を見つめたことなど一度もなかったからだ。
女は背を向けていて優子には顔が見えなかった。裏野高校の制服を着ていることから、優子の知っている人物かもしれない。肩先で切り揃えられた髪が首筋にまとわりついている。その顔が不意に貴明に近づいた。優子の体が硬直する。視線の先で起こっていることから目を逸らせない。唇を交わしていた。貴明の腕が女を強く抱き寄せると、女はその腕を貴明の背中に優しく回す。互いを激しく求めはじめた二人を見かねて、優子は逃げ出した。手を強く握りしめ、泣きながら走った。
優子が自宅に着くと、家の中が暗闇に包まれていた。
玄関で肩をおとし唇を噛み締めている優子はずぶ濡れになっている。
「ただいま」優子はぼそりと口に出すと、廊下を渡って脱衣場で雨に濡れて重くなったジャージとリュックをカゴに放り込んだ。下着のまま階段を上ると、廊下のつきあたりの部屋の前に守が立っている。
「いたんだ、お兄ちゃん」
無反応の守が優子をじっと見た後、無言で部屋に入っていく。暗闇の中で優子は気付かなかったが、守の目は虚ろだった。
優子の部屋の窓を強い雨が叩きつけている。
暗い部屋の中で、雨に濡れた体をベッドに預けている優子の頭の中には貴明の事しかなかった。さっき見た光景が瞼の裏に焼きついて離れない。優子は悔しくて涙を流した。あの女のいた場所には自分がいるはずなのに、と強く思った。
ドアを叩く音。守だろう。優子は無視した。今は誰とも顔を合わせたくない。
ドアを叩く音。無視をした。
ドアを叩く音。そのあとに扉が開いた。
「勝手に入ってこないで」
優子は起き上がり守を見た。
守ではない。女が立っていた。貴明と一緒にいた女だ。女の着ている制服から水が滴っている。
優子は目を疑った。その女の顔があまりにも自分とそっくりだったからだ。
女の顔にへばりついた乱れた髪の間から虚ろな目が覗いている。
「誰?」
優子の震える声。
女が優子に近づきベッドに押し倒す。優子の上に馬乗りになった女が両腕をついて優子を見下ろしている。
「私?」
顔を間近で見合わせた優子は、女が自分と同じ人間だと確信した。鏡で毎日見ている顔。見間違えるはずがない。隅々まで優子と全く同じ顔なのだ。
優子が女の顔に見とれていると、女の鼻から何かが出てきた。一センチ程の白い粒のようなそれが優子の顔にぽとりと落ちると、優子は女を押し退けてベッドの隅に逃げた。
ベッドの上に落ちた白い粒がもぞもぞと動いている。その先端にある小さな黒い部分が開き、甲高い呻き声を上げた。蛆のような不気味な白い虫だ。
膝立ちになっている女の鼻と耳の穴からぞろぞろと無数の白虫が溢れてきてベッドの上に落ちる。
怖気をふるった優子は身を縮めた。
ベッドの上をぐじゅぐじゅと身を寄せあって優子に這い寄っていく白虫の大群。
凍りついてしまったかのように動かない優子の体が白虫の大群にじわじわと包まれていく。
優子の顔にたどり着いた白虫が鼻や耳から中に入っていくと、優子の体が大きく痙攣しはじめた。白虫が優子の内側を喰らっているのだ。中に入れない白虫が鼻と耳からこぼれ落ちる。白虫は中に入る場所を探すように動き、やがて優子の穴という穴から内側に入っていった。跳ねるように波打つ優子の体。全身が土気色になり、眼球が窪む。ピンと伸びた手足の指が小刻みに震えている。
白虫が喰らい終わったのか、優子の痙攣が止んだ。土気色だった肌が白く透き通った綺麗なものに変わる。窪んでいた眼球は白虫が寄り集まって形成された。黒い筋が渦を巻いて瞳を形作る。
ベッドの上に立ち上がった優子の体は生命力に満ち溢れている。その足元に転がる女の干からびた体を優子の足から伸びた白虫の塊が貪っていた。
時間にして五分しか経っていなかった。
鏡の中に消えた優子が戻ってきたのだ。全身が水に浸かったように濡れている。
朋子は駆け寄り、優子の両肩に手を置いた。
「どこ行ってたの? 心配したんだよ」
無表情だった優子の顔が不自然な笑みを浮かべる。まるで今まで笑ったことがないような不気味さだ。
それを見た朋子が後ずさる。
「優子?」
「見ちゃったんだね、朋ちゃん」
無理につり上がっている優子の口角から、白虫が一匹顔を出していた。