6.ストーカー被害
長谷川沙世は、就職先である介護寺の事務室にいた。もちろん、仕事をしているのだ。食費や医療費、その他費用をパソコンの会計ソフトに打ち込んでいる。既に夕刻を回り、辺りは暗くなっていた。勤務時間は既に過ぎている。だから、この作業が切りの良い所まで終わったら、彼女は帰るつもりでいた。しかし、後少しで一段落着きそうなところで、彼女を呼ぶ声が聞こえて来たのだった。
「長谷川ちゃーん。ちょっと来てくれないかね?」
お爺さんの声。それに沙世はピクリと反応する。ショートカットキーでパソコンをロックすると軽くため息を漏らして立ち上がる。
彼女がこの介護寺に就職できたのは大学時代に入っていたサークルの伝手という事もあったが、そのサークルのお蔭で、ロボットの操作に慣れているからという事もあった。彼女が在籍していた“ロボットとの新たな生活の方法を考察する友の会”では、旧式のロボットから最新式のロボットまで幅広く触れる機会があり、経験を積むのに役立ったのだ。
彼女が声のした方に向かうと、お寺で住み込みで介護を受けているお爺さんの一人が、子供の背丈くらいの人型の介護ロボットを前にして四苦八苦していた。どうも立ち上がる為に介護ロボットを利用したいようだが、巧く動いてくれないらしい。
「どうしたのですか?」
そう沙世が尋ねると、お爺さんはホッとしたような表情を浮かべた。
「ああ、助けてくれよ、長谷川ちゃん。さっきから、なんでかこの子が動かなくなってしまって」
そう言われて、沙世はロボットの腰の辺りを見てみた。ロック・スイッチがオンになっている。このロボットはやや旧式で、偶然に手が触れる位置にロックのスイッチがあるという欠陥があるのだ。それで、事故的にロックされてしまう事がよくある。
沙世がロックを解除すると、直ぐにロボットは動き始める。それを見て、お爺さんは喜びの声を上げた。
「おお、ありがとう。やっぱり、ロボットの扱いは長谷川ちゃんじゃないと駄目だなぁ」
それに困ったような顔で笑いながら、沙世はこう返した。
「いえ、少しロボットを知れば、誰でもこれくらいできますよ」
しかし、お爺さんはそれを認めない。
「いやいや、福本君ではこうはいかないよ。彼は介護ロボットを避けているみたいだしなぁ」
沙世はそれを聞いて思う。
“介護ロボットをたくさん使いまくっているこの介護寺で、ロボットを避けてどうするんだ、あの坊さんは?”
しかも、この寺では介護ロボットを尊いものとしているのだ。商売上の建前なのか、本気でそう考えているのかどうかは沙世は知らなかったが。
福本というのは、この介護寺で働く若い僧侶の一人で、今日はその彼の宿直の日だった。しかし、どうにも彼は勤務態度があまりよろしくなく、それでなのか、ロボットがどうこうの前に彼が宿直の時は、老人達はできるだけ沙世を頼ろうとするのだ。もちろん、沙世が帰る前までの話だが。
それから、事務室に帰るついでに、沙世は宿直室に寄ってみた。福本は呑気にも寝転がってテレビを観ていた。
「福本さん。お爺さんに呼ばれたら、ちゃんと行ってくださいよ。声は聞こえていたはずでしょう?」
「いや、呼ばれたのは君じゃないか」
「それでも、行くのがあなたの勤めでしょう?」
「だって、どうせロボットの事だろう? 私は機械音痴でね。ロボットは苦手なんだ。ロボットは君に任せるよ。大体、ロボットを扱えるからって君は雇われたのじゃないか」
それを聞いて、沙世はその憎らしい坊主頭を殴ってやろうかと思った。その彼の態度からは、そもそも自分は坊主で、介護なんて自分の仕事ではない、とでも言いたげな雰囲気が如実に感じられた。
「分かりました。もう、いいです」
それから沙世はそう言って、事務室に戻ろうとした。ところが、そこで福本がこう話しかけてくるのだった。
「ところで、長谷川さん。今度の休みは暇かな? できれば、一緒に遊びに行きたいと思っているんだが、どうだろう?」
デートの誘い。
沙世はその言葉に驚く。どうして、この流れで、女の子をデートに誘おうなんて思えるのだろう?
「謹んで、お断りします」
怒りながら沙世がそう返すと、「そりゃ、残念」と福本は言い、両手で坊主頭をピシャリと叩いた。ノリが軽い。
“まったく、サンノキさんといい、こいつといい、どうしてわたしは、こう問題ありの男にばかりモテるのかしら?”
事務室までの帰り道、沙世はそんな事を思っていた。ただ、それから“いや、ま、アキ君はかなりマシだけど……”と、そう思い直す。そしてそれから「これは本当に、彼の告白にわたしがあんな態度を執った罰だったりして」と、小さく独り言を言った。
その時だった。
事務室までの通り道は、片側が大きなガラス戸になっていて、外を広く見渡せるのだが、そのもう暗くなった外の風景の中に、大きなロボットの姿が見えた気がしたのだ。ただし、ロボットであるかどうかの確証は持てない。シルエットは角ばっていたが、頭には髪の毛が見えていたような気がする。
不気味。
沙世は少し怖くなった。何か妖怪にでも行き逢ってしまったような感覚に陥る。
「ロボット人間……」
そして、そう呟いた。ちょうど、アキの告白の事を思い出していた所為で、大学時代にあった“ロボット人間”の噂話に思い当たったのだ。なんでも、半分はロボットで半分は人間のような姿をした何かが大学の近くを徘徊しているのだという。それは口で、やたらリアルなロボットの稼働音を表現しながら歩いているらしい。沙世は遭遇した事がなかったが、何人も見た人がいるというのだ。或いはその正体は、単なる変な趣味の人なのかもしれないが、それでもやはり不気味には思える。
“まさか、同じものじゃないわよね?”
と、沙世は思ったが、大学とこの介護寺は距離がかなり離れているので、それはないだろうと思い直す。
それから彼女は事務室に戻ると、気を取り直して作業の続きを開始した。作業は直ぐに終わった。それで彼女は退勤手続をすると、誰も周囲にはいなかったが、一応「お先に失礼します」と大きな声で言ってから寺を出て帰路に就いた。
お寺の近くの街灯の少ない暗い道を進みながら、沙世は先の大きなロボットのシルエットを思い出していた。あれは絶対に寺のロボットではない。あんなに大きなロボットは一体もいないはずだ。ならば何処かの家の迷いロボットだろうか? この辺りを夜中にロボットが歩く用事などあまり考えられないので、彼女はそう思ったのだ。だがしかし、あれほど大きなロボットが迷っているのを、沙世は見た事がなかった。それで想像をしてしまう。
ロボット人間。
“もしも、あれが、本当に何か怪しいものだったら……”
そう想像すると、沙世は少し怖くなってきてしまった。寺だけあって、近くには墓場もある。今、先のロボットに遭遇したなら、彼女は悲鳴を上げてしまうかもしれない。まるでホラー映画の中に飛び込んでしまったかのような錯覚を彼女は覚えた。
そんな気分で長谷川沙世が道を歩くのは、大学時代のサンノキの事件以来だった。その件で彼女は、村上アキに守ってもらったのだ。それでなのか、彼女は不意にアキの声が聞きたくなった。通話機能も持つ情報端末機を取り出す。だが、こんな理由で電話をかけたら馬鹿にされそうだと思って止めた。もっとも、彼が口では馬鹿にしながらも、内心では喜ぶのだろうと彼女は分かっていたのだが。
“あの時は、本当にサンノキさんが化け物みたいに思えたっけ”
それから彼女は当時を思い出した。
後少しで大学を卒業するという頃、長谷川沙世はサンノキに別れ話をした。その時、彼は驚くくらいに無表情だった。
「そうか。確かに、そういう約束だったからね。駄目だと思ったら、いつでも別れて構わないと」
淡々と彼はそう語った。
沙世は彼がもう少しくらいは動揺すると思っていたので、その反応に安堵した。ただ、安堵しながらも、あまりにも平坦な彼の様子に逆に仄かな不気味さを感じてもいたのだが。
「ごめんなさい。しばらくお付き合いしてみたけど、わたし、どうしてもサンノキさんの事を恋人だとは思えなくて」
彼は沙世のその言葉に「うん」と大きく頷くと、こんな事を言った。
「君が僕の事を恋人と思えないというのならそれは仕方ない事だ。いや、むしろその方が正常な反応だとも言える。僕達の関係性は、そういうものではないと思うんだ」
それに沙世は「ええ」と返す。するとサンノキはこう言った。
「恋人同士ではなく、これから僕らは、別の関係で付き合っていこう。例え恋人として別れたって、それで関係が終わるはずはないのだから」
その時、その彼の言葉を沙世は、これからも友達としては付き合っていこうといったような意味だと捉えた。普通は誰でもそう思うだろう。しかし、これは後で分かった事なのだが、それはどうもそんな意味ではなかったらしいのだ。では、どんな意味かと訊かれたら、未だに沙世には分からないのだが。
「はい。これからも、よろしくお願いします」
沙世が笑顔でそう応えると、サンノキは「分かってくれて、嬉しい」とそう言った。妙な言い回しだと沙世は思った。フッたのは自分であるはずなのに、なんだか逆に自分が説得されたような感じになっている。しかし、その時はそれほど沙世はそれを気にしなかった。とにかく、これで無事に済んだと思って安心をしていた。
しかし、実は無事に済んではいなかったのだが。サンノキの常軌を逸した行動は、この時に発現し始めたのだ。
初めて異変が起こったのは、その次の日だった。沙世は親元を離れて、アパートで一人暮らしをしているのだが、その彼女の部屋にはロボットが一体いる。もう随分と長い間一緒に生活をしているので、サークルでロボットの怪行動に頭を悩まされていた時も沙世はこのロボットからは恐怖を感じなかった。このロボットは、沙世が大学に進学した時に親がプレゼントしてくれたもので、子供くらいの背丈だ。愛玩用であると同時に簡単な家事を手伝ってくれたりもする。決して高級ではないし多少型は旧かったが、それでも安物ではない。しかも新品だった。
一体、どうしてこんな高い物を?
と、沙世は不思議に思ったのだが、このロボットに様々な防犯機能がついている事がどうやらその理由らしかった。泥棒や強盗が家に侵入して来れば、警告を発したり警備会社への通報を行ってくれたりするし、GPS機能だってある。沙世が情報端末機さえ持っていれば、このロボットにはその居場所が分かり、なんと命令すればロボットが勝手に沙世のいる場所にまで案内してくれるという機能すらも備わっているのだ。
沙世の親は、一人暮らしをする娘が心配で、彼女を守る為に、そんなロボットをプレゼントしたらしい。
なんだかな、と沙世は思う。もう、高校を卒業した娘に対し、少しばかり過保護であるようにも思える。ただ、沙世はロボットが好きだったから、ありがたくその防犯用も兼ねるロボットを受け取ったのだが。
沙世はそのロボットに“ロイ”と名付けていた。そしてその日、そのロイが、沙世がアパートに帰って来るなり、「お客さんから、メッセージを受け取っています」と訴えて来たのだ。どうやら彼女のいない間に、訪問者があったらしい。誰だろう?と思いながら、沙世は「再生して」とそうロイに言った。すると、ロイは録音されている声を流し始めた。なんとそれはサンノキだった。しかも、彼はこんな事を言っていたのだ。
『やぁ、沙世君。僕がいるのに、君はまだこんなロボットを飼っているのだね。いや、それはいいんだ。彼とも一緒に暮らせる自信が僕にはあるしね。
それで用件だけど、僕としてはそろそろ君との生活を始めたいと思っているんだ。取り敢えず、僕の君の部屋でのテリトリーを決めたい。明日、また行くから待っていてくれ』
そのメッセージに、沙世が非常に驚いたのは言うまでもない。
一緒に暮らす? 一体、何の事?
彼女としては、すっかり別れ話が上手くいったつもりになっていたから、ほとんど訳が分からなかった。それで彼女は何か誤解があったと考え、それから直ぐにサンノキへ電話をかけたのだった。サンノキは彼女の電話に直ぐに出た。嬉しそうに「やぁ、君か」とそう言う。
「サンノキさん。メッセージを聞きました。あの…、一緒に暮らすって何の話ですか? わたし達は既に別れました。恋人同士の関係は既に終わったはずでしょう?」
沙世は必死にそう言う。しかし、それに対してサンノキは非常に飄々とした口調でこう返すのだった。
「ああ、その通りだ。僕らの恋愛関係は終わった。しかし、その代わりにもっと別の新しい関係が始まったのだ」
沙世はそれを聞いて、どう捉えれば良いのか分からない異様な恐怖を感じた。この人は、何を言っているのだろう?
「新しい関係?」
「ああ、そうだ。新しい関係。或いは、それは今まで人類が経験した事のないものかもしれない。恋愛関係ではないそれは、むしろ親子関係に近いと言えるだろう。しかし、親子関係ほどに押しつけがましくはない。もっと……」
そこで沙世は恐怖のあまり電話を切ってしまった。明らかに異常だ。もし、彼が性質の悪い冗談を言っているのでなければ、何かしら精神に異常をきたしているとしか思えない。幸い、その日はサンノキから彼女に電話がかかってくる事はなかったが、彼女はそれから言い知れない不安に苛まれたのだった。
次の日、沙世は20時過ぎになるまでアパートに帰らなかった。もちろん、サンノキの事を避ける為だ。出掛けている途中で、数度、サンノキから電話があったが、無視するとそれ以降はかかってこなかった。それで彼女は安心し、もう流石にいないだろうと考え戻ったのだがしかし、それでも彼は部屋の前で彼女を待っていたのだった。
沙世の部屋はアパートの一階にあり、道の途中からその姿が見えた。
「ようやく、戻ったかい。沙世君」
道路にいる彼女を見つけると、彼はそう淡々と言った。怒ってはいなかった。いや、それどころか感情の片鱗すらも感じ取れなかった。
「待っていてくれと言ったのに、酷いじゃないか」
それから彼はそう続ける。首を横に振りながら沙世ははこう返した。
「わたしはそんな約束はしていません。あなたが勝手に言ったんです。それに、わたしの部屋に住むなんて話にも納得はできません。帰ってください」
サンノキが興奮していないようだったので、沙世はそう言ってみた。理性的に話し合えば通じると思ったのだ。ところが、それを聞くとサンノキは青白い顔でこんな事を言うのだ。
「何を言っているんだい? 君だって、僕らの新しい関係に了承してくれたじゃないか」
そして、一歩沙世に向かって近づいた。恐怖を感じた彼女は、後ずさった。これは、危ないかもしれない。そう思う。沙世のその怯えた様子を受けて、サンノキは表情を少し歪めたように思えた。それに身の危険を覚えた沙世は、それから直ぐに逃げ出した。
サンノキは逃げ出した沙世の後を追って来た。彼に沙世に危害を加えるつもりがあるかどうかは分からない。しかし、逃げておいた方が無難である事は確かだった。
長身のサンノキは足がかなり速かった。沙世も女性にしては速い方だが、それでも直ぐに追いつかれてしまうだろう。しかし、沙世のアパートの近くには派出所があった。そこに滑り込めば助かるはずだ。これは偶然ではない。彼女の親がわざわざそういう場所を見つけてきたのだ。彼女は過保護な親にその時ばかりは感謝をした。
派出所には幸い、電灯が灯っていた。警官が不在の場合も多いのだが、今はどうやらちゃんといるらしい。
「助けてください!」
そう言って沙世は派出所に駆け込んだ。警官がビックリした表情で、そんな沙世を見る。彼女は振り返ったが、サンノキは追って来てはいなかった。沙世が派出所に向かっているのを察して、追うのを止めたのかもしれない。
沙世は警官に訳を説明をすると、それから自宅まで送ってもらった。サンノキは現れなかった。無事、自宅に辿り着く。沙世は警官にお礼を言った。その警官によると、この程度ではストーカー規制法の適応はできないとのことだった。
「もしも、また何かあったら連絡をください。あまりに酷いようでしたら、ストーカー規制法も適応できますので」
そう言うと、警官は帰って行った。
一人になると、沙世は少しばかり違和感を覚えた。沙世が戻るといつも「お帰りなさい」とロイが挨拶をしてくるのに、その日は何もなかったからだ。
まさか、サンノキに何かをされたのか?と思って居間に行くと、ロイはそこで項垂れていた。ただし、ただ単に電力節約モードに切り替わっていただけだった。沙世は直ぐにその原因を悟る。
「なるほどね。やっぱり、部屋の中じゃ日当たりが悪いのか。充分に充電できなかったみたい」
沙世はそう独り言を言った。今までは、太陽が出れば外に出て、日向ぼっこにより太陽電池で充電するという設定にロイをしていたのだが、彼女はサンノキを恐れて、部屋の外に出る事を許さない設定に変えていたのだ。沙世の部屋は一階にあるから不安だった。見ると、いつもはほぼフルに充電できているのに、今日は半分ほどしか電力が溜まっていなかった。
沙世は軽くため息を漏らす。
「電気代もかかっちゃうなぁ、これは」
その次の日は、休日だった。何も用事はなかったが、サンノキが恐かったので、沙世は何処か彼に見つからない場所へ行こうと考えた。ところが朝食を食べ終え、出掛ける前になんとなく不安になってドアスコープから外を確認すると、サンノキがドアの前で待機している姿が目に入って来たのだ。
「ヒッ!」
思わず彼女はそう小さく悲鳴を上げてしまった。怖気立つような恐怖を感じる。しかし、彼女は冷静になると、警官が何かあったら連絡してくれと言っていた事を思い出した。それで連絡を入れる。警官は直ぐに来てくれるという事だった。すると、その少し後でまるでそれを察したかのようにサンノキは消えてしまった。それから警官がやって来たので、一緒に近くを探してもらったがサンノキの姿は何処にもなかった。
「もしかしたら、私がやって来るのに気付いて逃げたのかもしれませんね」
警官はそう言うと帰って行った。沙世は腑に落ちない思いを抱えながらも、そのまま出かけ夕方頃には帰って来た。ところが、それからしばらくが経ち夕食を食べていると、ドアのチャイムが鳴ったのだった。彼女は悪い予感を覚えた。
ドアスコープから確認すると、やはりそこにはサンノキの姿が。彼女はドアフォンからサンノキに言った。
「サンノキさん。迷惑です。わたしはあなたと暮らす気なんてありません。帰ってください」
すると、サンノキはこう返す。
「違う。君は勘違いをしているだけだ。君は僕と暮らすべき存在なのだ。それに、僕には君と一緒にいて、君の生活を支える準備ができているのだ……」
これは何を言っても無駄だと思い、沙世はそれからまた警官に連絡を入れた。すると、またサンノキの姿は消えるのだった。とても勘が良い。沙世は不気味に思った。もっとも、沙世の態度を受ければ、警察を呼びそうだと予想する事くらいはできそうだが。
そしてその次の日も朝も、サンノキは彼女の部屋の前で待っていたのだった。しかし、同じ様に警官に連絡を入れると消える。タイミングが良すぎる。警官は少しずつ沙世の悪戯ではないかと疑い始めているようだった。
「あんた、それ、盗聴されていたりしないの?」
思い悩んだ末、沙世はそれを友人の立石に電話で相談した。彼女は沙世とサンノキが付き合うのに反対していたので、多少は気が引けたのだが、そんな事を言っている場合ではなさそうだったから。
彼女はサンノキが沙世の部屋を盗聴していて、それで警察に連絡した事が直ぐに彼には分かるのじゃないかと考えたようだ。
「でも、どうやって盗聴器を仕掛けるの?
わたしがいない間に侵入するなんて不可能だと思うのよ。ほら、ロイが留守番をしてくれているから。何かあったら警備会社に連絡が行くはずよ」
「ふん。なるほど。無理そうね」
そう応える立石の声は、非常に呑気だった。彼女の忠告を無視した所為で、沙世が酷い目に遭っているのを喜んでいるようにすら思える。
「とにかく、わたしはとても困っているのよ。何か良い案はない?」
「あるわよ」
「あるの? なら、それを教えてよ!」
すると嬉しそうにしながら、立石はこう言うのだった。
「簡単よ。そういう話は、男に頼るのが一番じゃない」
「男?」
「村上君に決まっているでしょう? こんな時こそ、彼を頼らないでどうするのよ」
沙世はそれに応えるのに躊躇する。しばらく迷って、「でも……」とそう呟くように言った。
「でも、何よ?」
「それだと、アキ君の身が危なくなるかもしれないじゃない」
それを聞くと立石は軽くため息を漏らしてから、やや呆れた口調でこう言った。
「おやおやって感じね……」
その後で真面目な口調で続ける。
「だけど、それは確かにそうかもしれない。でも、多分、村上君にとってはあんたのピンチを知らない事の方が酷よ。
それに、村上君ってあれで意外に小賢しいでしょう? 自分の身の安全を確保した上で、何か解決する為の案を考えてくれるかもしれないじゃない」
そう言われてもまだ沙世は迷っていた。すると、立石はこう言うのだった。
「断っておくけど、あなたが言わなくても私が彼に言っちゃうわよ。もう手遅れだって知りなさい」
酷い言葉のように思えるが、彼女が沙世の為を思って言ったのは明らかだった。そしてその言葉で、沙世は降参したのだ。
「分かった。アキ君に相談してみる」
沙世が相談すると、アキははじめ怒った。「どうして、もっと早く伝えてくれなかったのさ?」と。ただ、その後で妙に活き活きとそのサンノキのストーカー被害を解決する案を説明し始めたのだった。それを聞いて、彼女は“こいつ、実は喜んでいやがるな”とそう思った。
アキは沙世がサンノキと別れた事も嬉しかったし、そのストーカー被害を彼女が自分に相談してくれた事も嬉しかったのだ。
アキの案は単純だった。アキが張り込んで、サンノキが沙世のアパートの前にいるのを確認したら、警官に連絡を入れる。ただし、警官だと分からないように私服か何かで来てもらうようにする。もし、サンノキがそれでも警官が来る前に逃げるようなら、アキが尾行し警官にその居場所を教える。
どんな手段でサンノキが警官が来る事を悟っているのかは分からないが、これならストーキング行為を確認してもらえるはずだ。
次の日の早朝。アキは早速、沙世のアパートの前で張り込みをした。すると、張り込みをして直ぐ、6時頃にはサンノキと思しき男が現れ、沙世の部屋の前で待ち伏せをし始めたのだった。
“こんなに早く来るか…”
と驚きながらもアキは警官に連絡を入れた。私服で来てもらう件も問題なく了承してもらえた。サンノキはそれに全く反応を示さなかった。よく見ると彼は片手に情報端末機を持っていた。時々、それを確認している。アキは多少は変に思いながらも“やっぱり、待っているだけって退屈なんだな”とそう思った。暇潰しをしているのだと考えたのだ。やがて私服姿の警官がやって来た。サンノキが逃げ出す気配はない。それでアキは警官と共に彼を注意しに行ったのだった。
サンノキは警官とアキを見ると、一瞬だけ愕然とした表情を浮かべたが、それでも動揺はしていないように思えた。
警官が自らを警官だと名乗り、「君は何をやっているのかね?」とそう尋ねると、ふてぶてしくもサンノキは「ここは知合いの家でして、出て来るのを待っているところです」とそう淡々と答えた。それを受けると、警官は「ちょっと来てもらえるかな」と言って、サンノキを派出所に連れて行った。
サンノキが連れて行かれると、沙世の部屋のドアが開いた。
「上手くいったみたいね、アキ君」
沙世が顔を覗かせそう言う。どうやら、様子を窺っていたらしい。
「そうだね」
とアキはそれに返した。沙世は微笑むと「ありがとう、助かったわ」とそう言った。アキはそれに「別にいいよ。大した事もしなかったし」と応えると、それから「今日は大学だろう? 一緒に行こうよ」と彼女を誘った。おどけた口調で沙世は返す。
「あら? その手には乗らないわよ」
アキは顔をしかめて言った。
「君が心配なんだよ。あの程度なら、厳重注意で終わりだろうし。登校中に、あのサンノキって人が復讐に来るかもしれない」
「冗談だってば。いいわ。一緒に行きましょう。でも、まだ大学に行く時間には随分と早いし、朝食もまだだし、中で待っててよ。あっ、アキ君も食べる?」
「うん。食べるよ」とアキは返す。実は軽くなら既に食べてきたのだが、沙世の手料理が食べたかったのだ。例え、トーストと目玉焼きとサラダ程度の料理でも。
朝食を待っている間で、アキは先の警官にお礼の電話をかけた。実はついでにサンノキの様子も確認したかったのだが。アキが礼を言うと、警官は「民間人が見張りなんかしないで、それも警察に頼りなさい」とそう説教してきた。アキは素直に謝る。サンノキは大人しく事情聴取を受けているらしかった。連絡先や住所も確認したから、今後彼がストーキング行為をしたら、直ぐに警察は動けるそうだ。
その電話が終わると、アキは部屋の中にいたロイを呼んで頭を撫でた。
「久しぶりだね、ロイ。元気にしてた?」
そう彼が尋ねると、ロイは少し首を傾げてから、「大丈夫です。故障はありません」とそう答えた。そこで沙世が朝食を運んできたので、なんとなく彼はこんな質問をしてみた。
「あのサンノキって人もロイに会っているのかな?」
少し考えると沙世は「一度だけ、会ったかな? 玄関口までなら、来た事があったのよね」とそう言った。
「ふーん」とそれにアキは答える。何か引っかかったのだ。ただ、それが何かは分からなかった。
それから朝食を食べ終えると、二人は少し早かったが大学に向かった。沙世が心配だとは言ったが、アキはまさか直ぐにサンノキが現れるとは思っていなかった。さっき警官に連れて行かれたばかりなのだ。しかし、彼は現れた。
それはちょうど、派出所を通り過ぎ一つ目の角を曲がったところだった。派出所の前を通った時、二人は中にサンノキがいないかと見てみたのだが、奥の方にいるのか、それとも既に事情聴取が終わった後だったのか、その姿を確認できなかった。だから、彼が何処から現れたのかは二人には分からなかった。
何かが走って近付いて来る音が聞こえた。二人が振り返るとそこにはもうサンノキがいた。サンノキは不自然なまでに無表情だったが、息は激しかった。どうやら、全速力で二人を追いかけて来たらしい。
「僕にはあんな取り調べを受けなくちゃいけない理由なんてない」
サンノキはそう言った。沙世を睨んでいる。普通ではない雰囲気。無表情ではあったが、実は彼は激しく興奮しているのかもしれなかった。その不自然さは、無理に表情を殺している結果であるようにも思えた。沙世はそんな彼を見て、恐怖で固まってしまう。しかし、その沙世を守るようにアキは彼の前に立ちはだかったのだった。微かに震えていた。
「沙世ちゃん! 逃げて! 逃げながら、警察に連絡を入れて!」
それで沙世が逃げ出すと、サンノキも走り出した。しかし、彼の道をアキが塞ぐ。それでも強引にサンノキは通ろうとして、取っ組み合いになった。
沙世はその間で警察に連絡を入れる。派出所は直ぐそこだ。連絡を入れれば、直ぐに警官はやって来るはず。警官に場所を説明し終えると、沙世は後ろを振り返った。すると、ちょうどアキがサンノキに突き飛ばされるところだった。身体面では、アキは標準以下なのだ。アキは豪快に転ぶと、建物の壁に頭を激しく打ちつけた。
「アキ君!」
沙世はそう叫ぶ。アキの頭からは、血が流れていた。思わず彼女は、アキに駆け寄って行ってしまった。サンノキにとっては、チャンスであるはずだ。沙世は無防備だ。ところがその時、サンノキは何故か呆然と立ち尽くしていたのだった。しかも、何やらブツブツと独り言を言っている。
「違う。今のは事故だ。人間に危害を加える行為ではない。エラーですらない。禁則事項は破っていない……」
不自然なまでに無表情だったサンノキが、悲壮に顔を歪めていた。
沙世はサンノキのその姿に、底知れない恐怖を感じた。
やがて警官がやって来て、サンノキを捕まえた。アキへの傷害罪と、沙世へのストーキング行為がその罪状だった。
沙世はアキの事を非常に心配したのだが、彼は頭から血を流している以外は、いたって平気な様子に思えた。
「これであのサンノキって人は、傷害罪でしばらくは出て来られないね」
飄々とした様子で、そんな事を言う。沙世はわざと転んで頭を切ったのじゃないかと、軽く彼を疑った。
「私はあの後、あなたは村上君と付き合い始めるものだとばかり思っていたわよ」
立石望がそう言った。
介護寺からの帰り道。“ロボット人間”のようなシルエットを見て心細くなった長谷川沙世は、彼女に電話をかけたのだ。話しているうちにいつの間にか、話題はサンノキが捕まった当時のものになっていた。
「いや、だって、サンノキさんは捕まったとはいえ、軽罪でしょう? 直ぐに出て来るじゃない。アキ君がわたしと付き合っているって知ったら、狙われちゃうかもしれない」
その沙世の応えに立石は「やっぱり、そんな理由だったか」とそう返した。
「でも、そろそろ大丈夫なんじゃないの? そのサンノキって人は、それからストーカー病の治療を受けて随分と大人しくなったのでしょう?」
ストーカー規制法が出来た当初、警告では効果が薄く、数々の悲劇が起きた。結果として警察はストーカーに対し、カウンセリング治療を行うようにしたのだが、それで随分と状況は改善されたらしい。
サンノキもストーカー病と判断され、治療を受けているのだ。
「そうねぇ。でも、今度はなんだかタイミングを見失っちゃってさ。今更、どう言ったもんだか……」
「ははは。面白いわね。でも、タイミングなんてどうでも良いと思うわよ。どんなタイミングでも、あなたからそろそろ付き合わないって言われたら、彼は大喜びするから」
「それもなんだかなぁ……」
そう言った時だった。沙世は視界の隅、近くの林の中に、一瞬、あのロボット人間のシルエットを見た気がした。しかし、よく目を凝らしてもその姿は見つけられない。
「どうしたの?」
会話が途切れた事を心配して、立石がそう尋ねて来た。
「ううん。なんでもない」
気の所為だったかとそう思って、彼女はそう返した。
……しかし、それから数日後、彼女は介護寺でロボットが殺人未遂を犯そうとする怪行動に悩まされ始めるのだった。