5.共感する脳
綾が出て行くと、それからようやく鈴谷は佐野を席に案内した。一人だけだから、カウンター席だ。佐野がコーヒーを頼むと、鈴谷は「それだけ?」とそう訊いた。どうせ、取材の謝礼金は出さないのだから、せめてもっと注文しろとアピールしているのだ。
「じゃ、チーズケーキでももらおうかな?」
そう佐野が言うと、「チョコレートケーキの方がコーヒーには合うのじゃない?」と鈴谷は言った。それで佐野は「じゃ、チョコレートケーキで」と注文を言い直す。
「付和雷同ね。自分の意見がないわ」
すると鈴谷は、その佐野の反応を受けてそう言う。
「酷いな。意地悪を言わないでよ」
と困ったような顔で佐野がそう言うと、彼女は「冗談よ」とそう返した。それから彼女はコーヒーとケーキを用意すると、カウンター席から出ようとする。それに彼は慌てた。
「あっ 聞きたい事があるのだけど…」
それに彼女は「分かっているわ。さっきまで議論していたお客さん達の分の片付けをしたいだけ。少し待ってて」とそう返し、店の奥に進んでいった。
ところが、一歩角を曲がって、佐野から見えない位置まで進んだ途端、突然に鈴谷は腕を掴まれてしまったのだった。
「キャッ!」
短い悲鳴。それほどは響かない。
腕を掴んだのは、人相の悪い男だった。
……誰?
恐怖を覚えた彼女は必死に記憶を辿る。そして、その男が先に議論していた原発復活派達の一人である事に思い至った。“そういえば、一人だけ店の外に出なかった気がする”と思い出す。
――まさか、論破された復讐でもするつもり?
男は言った。
「よう、あんた。凄いんだな。知識がバカみたいにある。さっきの講義のついでに、俺の話を聞いてくれよ」
「なんでしょうか? お客様」
冷静になるよう努めながら、彼女はやや大きな声でそう言った。気付かれないように佐野を呼ぼうと考えたのだ。男は彼女を掴んだまま、肩を竦めるような動作をする。
「そう、怯えるなって。まぁ、なんだ。俺は色々と危なそうな連中と関わりがあってよ。今日の連中もその一つだ。もっとも、あいつらは俺が知っている中でも、かなりの腰抜け揃いだけどな。むしろ、大人しい」
それを聞いて、鈴谷は掴まれた腕を外そうと身をよじった。
「だから、怯えるなって。話を聞け。俺は人殺しってのが見てみたくってさ。それで、そういう連中と積極的に関わるようにしているんだが……」
その言葉に鈴谷は驚く。
「佐野君! 来て!」
と、そして大声を上げた。
「いやいや、怯えるなって。大丈夫だから」
「そんな話を聞かされて、怯えない人がいますか!」
「だから、最後まで俺の話を聞けよ」
男はなんとか鈴谷を宥めようとしていた。が、そこで佐野が驚いた様子でそこにやって来たのだった。そして、鈴谷が腕を掴まれているのを見る。
「どうしたの? 鈴谷さん。そいつは、誰?」
彼を見ると人相の悪い男は「チッ」と言う。それから鈴谷の腕を放すと、二人を一瞥もしないで、そのまま店を出て行った。
鈴谷はそれを見て、大きく息を吐き出す。「ふぅ」と。安堵したようだ。
「なにあれ?」
「さぁ? でも、助かったわ、佐野君。ありがとう。あなたと知合いになって、初めて良かったとそう思える」
「やっぱり、酷いなぁ」
「冗談よ」
そう言って笑うと、鈴谷はこう言った。
「お礼に、今回はちゃんとあなたの話を聞いてあげようかしら」
「いつもちゃんと聞いてよ」
佐野は困ったような顔で笑った。
「……つまり、村上君の知合いの女の子が、ロボットの殺人未遂事件らしきものを経験していて、そんな事があるはずがないと考えた菊池さんは神経症を疑っているって訳ね。それで、文化方面から考察する為に、佐野君は私を頼って来たと」
佐野の説明を一通り聞き終えると、鈴谷はそう感想を言うように彼の話を要約して確認した。佐野はそれに「うん」と頷く。
「でも、残念だけど、私には有効なアドバイスなんてできそうにないわよ。神経症の治療なんて専門外だし、それに、そもそも情報が少な過ぎるから確かな事は何も言えない」
その鈴谷の言葉に佐野は慌てた。
「いや、もちろん、村上君の助けになれれば一番なんだけどさ、それだけじゃなくて、今回の記事の為にも話を聞きたいんだよ。鈴谷さんなりの、ロボットに関する考察を。ロボットが殺人を犯すという恐怖症を生み出す文化的な背景みたいな話とか」
それを聞くと鈴谷は苦笑いを浮かべた。
「漠然としているなぁ……。でも、いいわ、今回は助けてもらったし、なんとか喋ってみようかしら」
それから彼女は少し考えるような仕草をするとこう言った。
「佐野君。ロボットが人間と関係するモデルとして犬が採用されたって話は知っているかしら?」
「ああ、菊池さんの所で聞いたね」
「うん。なら、そこからちょっと考えてみてね。ロボットに対しても犬に対しても日本と西洋じゃ、その関わり方の発想に違いがあるようには思えない?」
「うーん… そう言われても、ロボットはなんとなく分かっても、西洋の人が犬とどう関わろうとしているのかなんて知らないし」
それを聞くと、鈴谷は少しだけ困ったような顔になった。
「まぁ、実を言うと、私もそんなには詳しくないのだけどね。ただ、向こうの犬の心理に関する本を読んでみると、“犬は人間を支配しようとする”なんて事が書かれてあったりするの。“だから逆に犬を支配しなければいけない”とかね。そして、ロボットに対しても似たような発想をする場合が西洋では多いような気がするのよ。ほら、昔から、ロボットの物語って、人種差別問題をテーマとする場合が、とても多いでしょう? 支配され差別を受けているロボット達が反乱を起こすというような」
そう言われて、佐野は思い出してみる。確かに、ロボットを異人種と見立てている物語が典型的に思える。佐野の表情から彼が納得したと判断したのか、鈴谷はそれから言った。
「これって、西洋の人がロボットを支配する対象として捉えているという事よね。それに対して、日本ではそんな物語は少ないように思える。ロボットを異物としている場合も非常に多いのだけど、支配被支配という関係性ではあまり捉えていない。
もっとも、私も統計を取って調べた訳じゃないから、確証は持てないけどね」
佐野はその言葉に納得した。
「なるほど。分かる気がするよ」
「それで、この原因だけどね。いくつか考えられるけど、まずはやっぱり、日本では異人種や異文化を持つ人々と暮らす機会が少なくて、“異人種”って存在にリアリティが持てない事があると思うの」
「まぁ、島国だしね。そうなるよね」
「そうね。そして、日本が女性原理的な特色を強く持っている事も原因じゃないかと思える。因みに、理性やルールを重視するのが男性原理で、感情や協調性を重んじるのが女性原理ね。日本では、ロボットも女性原理的に捉えようとしているのかもしれない」
そこで佐野は感想を述べるように言った。
「日本では、女性の社会進出が遅れていると言われているのに、女性原理が強いんだ」
「まぁ、おかしく思えるけど、男性原理や女性原理って生物学的な性別の事を言っている訳じゃないから。それに、価値観の差の問題もあるかもしれないし。例えば社長になるとか、社会的地位を高める事に価値を見出していない人も日本では多くいるのかもって要因もあるのかもしれない。それも男性原理的な発想だしね。
……ただ、日本神話の神の頂点は天照大神で、天照大神は女性でしょう? なのに、女性の社会的地位が低いっていうのはやっぱり変に思えるわね。女性の方が、負担が大きいらしいし。って、少し話が逸れちゃったけど」
それから一呼吸置くと、鈴谷は続けた。
「話を続けるわよ。日本文化がロボットとの関係を支配被支配で捉えないっていう原因には、日本人が“物と共感する脳”を持っている事もあるのじゃないかって思うの。これは先の女性原理とも関係があるけどね」
「物と共感する脳を持っている? どうして、そう言えるの?」
「“もったいない”って言葉があるでしょう? これは世界でもとても珍しい言葉だそうよ。それに、日本の神道は万物に霊が宿るとしているアニミズム的な宗教だけど、これも物と共感する脳があるからこそ、育ったのじゃないかと思える。更に付喪神と言って、歳経た道具に霊が宿って妖物となるって考えもあった。物が壊れるのを見ると、人間って痛みを感じる神経が動くそうだけど、日本人は特にこれが強いのかもしれない」
佐野はそれに頷く。
「なるほどね。でも、どうして日本人は、物に共感してしまうのだろう?」
「それは難しい問いよね。ただ、仮説くらいならあるわよ。日本人って、母音に対して左脳が……、つまり言語脳が使われるのだって。だから、似たような音を出す、虫の声や川のせせらぎなんかを聞く場合にも、言語脳が使われている。こういった特性を持つ文化は世界でも珍しいのだとか。西洋だと、非言語脳が使われるらしいのよ。
日本語では、母音が重要視されていて、母音一音に意味があったりする。それで、母音にも言語脳が使われるのじゃないかという仮説を読んだ事があるわ。
川の音などに対しても言語脳を使っている所為で、日本人はアニミズム的な世界観を抱き易いのかもしれない。それは自然が言葉を発するという幻想に通じるように思える」
そこまでを聞き終えると、佐野は軽く机を指で叩き、リズムを取るような動作をした後で、こう言った。
「つまり、それが日本のロボットに対する文化的な背景って事? それが、今回のロボットが殺人未遂をしてるって感じてしまう神経症にも関係していると」
鈴谷は頷く。
「そうね。飽くまで、神経症だって予想が正しかった場合だけど。その被害者の彼女は、ロボットに人権を与えようって団体とも関係しているのでしょう? ロボットに共感し、アニミズム的に捉えているのかもしれない。なら、異世界の怪物としてロボットを見ているのではなく、もっと内的な嫌悪感や違和感のような恐怖を、ロボットに対して抱いているのかもしれないわ。
話を聞いていて、なんとなく物理的に被害を受けると言うよりは、ロボットに対する嫌悪が、その原因にあるような気が私はした。自分が狙われているって恐怖ではない。平たく言うと、彼女はロボットを嫌いになりかけているように思える。
一応、念を押しておくけど、私達はその彼女に一度も会った事がないし、彼女がそれを体験した状況をまったく調べていない。つまり、情報が不足し過ぎている。だから確かな事は何も言えないわよ」
「分かっているよ。そこはちゃんと気を付けるつもりでいる。ただ、村上君が言うには、その彼女は別にロボットに対して、特殊な思想を持っているって訳じゃないみたいなんだけどね」
「なのに、ロボット人権団体に関わっているの?」
「大学のサークルが、ロボット人権団体と関わりがあるって知らなかったみたい。入ってから知ったんだって。因みに、その団体の名前はQQ会というらしい」
「キューキュー会?」
「アルファベットでQね」
「ふぅん。付喪(九十九)神の九十九から取ったのかしら? まぁ、そこはそんなに重要じゃないわね。でも、少なくともその彼女はその団体との関わりを断たなかったのでしょう? なら、充分にロボットに共感している側の人間だって思えるけど」
「かもしれない。就職した先も、介護ロボットを使っている介護寺だっていうし」
「それは興味深いわね。やっぱり、ロボットに対する潜在的な恐怖心が、彼女にそんな幻影を抱かせているのかもしれない」
「それなのに、わざわざロボットがたくさんいる職場を選んだの?」
「反動形成って言ってね。自分の潜在的願望を打ち消したい場合、その人はその行動をより強化してしまうものなのよ。今回の場合は、ロボットへの恐怖を否定したいから、むしろ積極的にロボットに関わろうとする……」
そこまで言いかけて、鈴谷はその自分の説明を否定した。
「いえ、ごめんなさい。今のは忘れて。思わず精神分析の真似事をしてみちゃったけど、これはちょっと憶測が過ぎたわ。精神分析は反証不可能性…… つまり、正しいかどうか検証する事ができないって問題点が指摘されているのだけど、今の反動形成はその一つなの。検証ができない。だから、この反動形成を持ち出す場合は、より慎重な態度が望まれる。少なくとも情報が不足しているその彼女に対して、用いるべきじゃないわ」
それを聞くと佐野は思った。
“流石、鈴谷さん。中々、厳格な態度だなぁ”
それから、こう言う。
「まぁ、そうだね。僕らはまだ少しもその彼女の事例を調べないで意見を言っている。下手な事は言うべきじゃない。そう言えば、その彼女を実際に知っている村上君は、神経症はないって言っていたな」
「ふぅん。なら、悪戯や嫌がらせの可能性も考えた方が良いって事かしら?」
「嫌がらせ? その彼女は、大学時代と今の就職先で、それぞれロボットの怪しい行動を体験しているんだよ? ちょっと、偶然が過ぎない? それとも、その彼女がターゲットって事?」
「そうは言ってないわ。ただ、ロボットを嫌悪する人達ってのは、意外に多いものなのよ。宗教とか、それ以外でも。今日、思想的に偏った人達に関わったから、今の私はよく実感できちゃうのだけど。例えば、キリスト教のある一派は、ロボット……、特に人型のロボットを作る行為は、人間が神の真似をする愚かしい行為だって否定しているし、日本でも機械という非自然物であるロボットを受け入れるのに躊躇している神道家の人がいるらしいわ。仏教だって、山川草木悉有仏性の中に、ロボットを含めるべきかどうかで一部では議論になっているみたいよ。果たしてロボットに仏性はあるのか?ってね。その彼女が働いているっていう介護寺は、恐らくロボット肯定派だと思う」
「仏教が、ロボットを肯定しているの?」
「そう。一心に人々を救うために労働するロボットの姿は、当に仏そのものだって、そんな事を言っている人達がいるの。それがプログラムされた行為である事は、充分に理解していながら、それでもね。まぁ、大切なのはそれを私達がどう受け止めるのかって事だから、分からなくもないわね」
そこまでの説明を聞くと、佐野は腕組みをしてこう言った。
「つまり、ロボットを肯定的に受け入れようって団体に対するように存在する否定派の団体が、ロボット人権団体と、その介護寺にそれぞれ嫌がらせをしているかもって事が言いたいんだね、鈴谷さんは。別々か同一の団体かは、分からないけど。
その彼女がそれを体験しているのは、彼女がそういった団体と関わっているからで、確率的に高くなる、と」
「まぁ、そうね。ただ、もしそうなら、その彼女以外にも証言が多くなりそうだけど。もっとも、ロボットを肯定したい団体が狙われている所為で、それが表沙汰になっていないだけかもしれない」
「ああ、ロボットが人間に危害を加えるなんていう不都合な事実を握り潰してしまっているかもしれないって事か」
「うん」
その鈴谷の反応を受けると、佐野は頭を数度掻いた。
「なら、取り敢えず、僕がこれから調べてみるべきなのは、その方向かなぁ? 嫌がらせをしている団体がないかの確認」
「村上君の知合いの女の子に会っても、どうせ神経症かどうかなんて佐野君には分からないから? 村上君を介して、その女の子の情報は得られるし」
「いや、それもあるけど、そっちの方が記事にし易そうに思えて。でも、いずれはその彼女にも会ってみたいけどね」
それに鈴谷は「なるほどね」と応えると、こう続けた。
「ところで、大体、私に話せそうな事は以上だけど、どうかしら? 少しは役に立ちそう?」
それに佐野は、顔を明るくしてこう答えた。
「もちろん。有難く記事に使わせてもらうよ」
それに鈴谷はニッコリと笑う。
「そう。良かった」
その笑顔を受けて、佐野は仄かな期待を抱いた。今、デートに誘えばいけるかもしれないとそう思う。彼は彼女に気があるのだ。それで「今度……」と、そう言いかけた。しかし、
「ん? 何?」
と、そう彼女から聞き返されると、そこで言葉が止まってしまう。こんな事を思ってしまったからだ。
“ここでデートに誘って、もし断られたら気まずくなる。それよりも、何か取材を言い訳にしてデートに誘える機会を待った方が無難だ”
それで彼はこう続けた。
「いや、なんでもないよ。今日は、ありがとう」
そして、礼をすると、やや躊躇しないでもなかったが、そのまま喫茶店を出て行ってしまった。そんな彼を見て、鈴谷は「やっぱり、ヘタレね。佐野君は」とそう呟いた。