0.ロボットが普及した社会
ロボットの定義は、実を言えば非常に曖昧だ。一般的には、人や動物の姿を模した、自律行動を執る機械をイメージするのかもしれないが、アームしかないような工業用の自律作業機械をそう呼ぶ場合もあるし、実体のないWeb探索プログラムをそう呼ぶ場合もある。
ロボットの語源“robota”は強制労働を意味するから、それらが人間の為に何かしら労働をすることを考えるのならば、それらをロボットと呼ぶことにも一応は納得ができる。愛玩用のロボットだって、可愛がられる事を“労働”と見做すのならば問題なく当て嵌まるだろう。
技術や経済のみならず、文化、心理的な意味合いにおいてもロボットという存在は、非常に興味深い。完全な人間の創作、人工物であるにもかかわらず、人間のイマジネーションを著しく刺激してきた。その要因の一つには、単純な道具を超えた人格を、そこに想定している事が挙げられるだろう。言葉や行動でコミュニケーション可能であり、かつ異質な存在。その概念の登場はフィクションの中だったが、それは人間にとってパートナーであると同時に敵対者でもあった。
ただ、そういったフィクションの中のロボットは完全に異質な存在だとも言い切れない。ある一面を捉えるのならば、もう一つの人間を意味しているようにも思える。
ロボットという概念を利用し、クリエイター達は、その創作物の中で人間を描いて来たのだ。或いは、人間社会を。
技術の発達に伴い、フィクションの中の存在でしかなかったロボット達は現実化していった。2000年辺りから、徐々に商品としてそれは売りに出され始め、初めは玩具の一種に過ぎなかったものが、やがては“強制労働”の語源に相応しい愛玩以外の労働力としての価値を期待されるようになっていった。
人間社会の歴史において、軍事利用を目的に技術開発が行われ、そこで発展した技術がやがては人間社会に広く普及し、社会発展に大きく貢献したという事が何回かあった。インターネットは、元はアメリカが国防強化の為に立ち上げたARPANETが起源だし、ロケットだって、大型兵器の開発を禁止されていたドイツが軍事兵器への転用を期待して開発したものだ。
そういった事実を踏まえ「軍事がなければ、人間社会は技術発展を達成できなかった」といった主張をする者がいるが、これは少々論理の飛躍が過ぎるだろう。実際、むしろ軍事を抑える事により、技術発展及びに経済発展に成功したと一部の人間達に考えられている国が存在する。
日本だ。
第二次世界大戦に敗北した日本は、当初、軍事を持つ事を許されなかった。その事が幸いし、経済技術発展の為に資源を注力できた結果、高度経済成長を達成したのではないか、という分析をしている人間達が世界にはいるのである。
この分析がどこまで妥当と言えるのかは分からないが、少なくとも技術発展の達成が必ずしも軍事に頼らなければ為し得ない訳ではない点は確かだろう。言うまでもなく、軍事が関わらずに充分に発展した技術だって数多くあるのだから。
そして、ロボットの技術発展においてもそれは起こった。もちろん、ロボットの軍事面での利用がその技術力を押し上げたという要因もあるにはあるのだが、特に日本社会においては、“労働力不足”という深刻な社会的問題こそが、その技術の発展と普及を促す原動力となったのだ。
アメリカなどでは移民の受け入れによって、社会の高齢化とそれに伴う労働力不足に対応していたが、日本は島国という土地条件の所為で伝統的に他の民族や外国人と共に生活をした経験が少なく、そのノウハウや外から人間を受け入れる精神的な基盤が出来上がってはいなかった為、移民の受け入れが難しかった。結果として、日本社会は労働力不足をロボットの開発と普及で解決しようとしたのだ。
特に高齢化によって急速に拡充が求めれる介護福祉分野では、ロボットの活躍が期待されるようになった。
労働とは経済においては生産活動を指す。その為労働力不足とは、生産力が落ちる事を意味する。生産力が落ちるのだから、当然、生産する事ができない物が出てくる事になる。つまり、余分な労働力がない状況下で介護福祉分野に労働力を割けば、社会は代わりに何かを犠牲にしなければいけないのだ。
或いは、それは飲食店などのサービスかもしれないし、医療サービスかもしれないし、ゲームの類かもしれない。
インターネットを利用すれば、物流を効率化する事で、労働力を節約できるが、それでもそれは充分ではなかった。
そして、更に注記すべき点がある。
国際競争力の問題と日本が水や硫黄といった一部の例外を除けば、資源に恵まれない国であり、海外からの輸入がなければ生活が成り立たないという現実だ。当然、輸入する為には、それに見合った富を生み出し、それを輸出する事で外貨を稼がなければいけない。もちろん、金融資産や特許権などの知的財産による収入もあるにはある。しかし、それら収入源は盤石なものとは言い難いし、そもそも一部に集中し易い性質を持つ為、広く社会一般を潤す事にはならない。
これら事実を踏まえて考えて欲しい。
介護福祉分野は、言うまでもなく輸出が可能な産業ではない。人間が直接サービスを提供する仕事なのだから当たり前だ。だから当然、介護福祉分野に労働力を割けば、国際競争力を落とす事になってしまう。それでも、まだ日本国内で自給自足ができるのならば、それは深刻な問題にはならないかもしれないが、前述したように日本には資源がないため、自給自足は不可能だ。
この問題を解決するには、輸入を減らす…… つまり、国内の自給力を高めるか、産業を活性化させ、輸出を増やす他ない。問題が悪化していけば、生活水準は下がり続ける事になる。
そして、ロボット産業の活性化は、労働力不足問題の改善と輸出増を同時に行える方法なのだ。ロボットは、労働力を補うだけでなく、製品として海外に売る事も可能だからだ。日本社会がそこに“賭けた”事も理解できるのではないだろうか。
ただし、実は国がロボット産業の推進を行ったのは、原子力発電所から出る核のゴミの破棄処理をロボット達に行わせる為だったという説もある。もっとも、これが事実かどうかは分からない。真偽のほどはかなり怪しい。しかしこれが正しいとすれば、事態は皮肉な展開を迎えたと言わざるを得ない。
何故なら、ロボットの普及によって、日本社会は再生可能エネルギーの普及に成功したからだ。
ロボットの普及の為には、稼働エネルギー源が必要になるのは言うまでもなく、できれば、それはどこでも充足が可能であり、安価であるものが望ましい。そして、太陽電池はそれら条件を満たしていたのだ。
その為、ロボットの普及と共に太陽電池も普及していった。今では晴れた日には、折り畳み式の太陽電池、或いは柔軟性のあるシート形状の太陽電池を広げ、外で日光浴をしているロボットの姿が日常的に観察できるようになった。もちろん、通常のコンセントでの充電も可能だが、大量生産により太陽電池の製造がより安価になると、日光浴がロボットの主な充電方法として定着した。そして、それが定着すれば、当然の流れで、ロボットの充電以外にもその太陽光発電は利用されるようになっていった。
充分に電力がある状態なら、ロボットの太陽電池を外部に接続し、家庭用電源の一部として活用しようとするのは自然な発想だろう。もちろんロボットの為の太陽電池製造によってスケールメリットを活かせるようになり、太陽電池が安価になった事実も、普及の為の大きな要因となった。太陽電池ばかりではなく、ロボットに備わった蓄電池も同じ様に活用されたのは言うまでもない。
一部、風力発電もロボットの電源とする試みがなされたようだが、騒音や安全性の為か広く普及するまでには至らなかった。
労働力不足問題が、太陽電池についてもあるのではないかと思われるかもしれないが、それは大きな問題にはならなかった。何故なら、まだ労働力の減少が深刻になる前に、太陽電池のある程度の製造と設備投資を行ったからだ。太陽電池は維持費が安価である為、製造さえしてしまえば、労働力不足の状況下でも問題なく発電が行える。太陽電池は、維持費がかからないエネルギー資源という点において、次世代への大きなプレゼントでもあった。
これは日本社会におけるエネルギー自給率を高くする事を意味してもいるから、国際競争力の維持という面でも大きな貢献を果たしていると言えるだろう。
そして、ロボットが普及した後は、労働力不足はもう心配する必要のない状態にまでなっていた。人間の仕事をロボットが奪ってしまうという問題すら起こっているほどだ。
ロボットが充分に普及し、人間の生活上のパートナーとしてその存在が当たり前になる頃になると、当然、経済以外の社会文化もロボットという存在から大きな影響を受けるようになっていた。ロボットの存在により、人間社会は変質してしまったのだ。
人権問題、思想、心理、宗教、哲学、娯楽などなど…… 人間社会は自分達が生み出してしまったその新たな隣人をどう扱えば良いか、また、どんな影響を受けるべきなのか、それを模索していたとも言える。
ロボットの存在は明らかに、単なる道具の範疇を超えていた。
それは人間にとって、多くのクリエイター達が描いて来たように、もう一つの別の人間なのだ。アニミズムだとそれを否定するのは軽率だろう。そこには“人間とは何なのか?”という非常に難解な問い掛けが絡んである。
仮にロボットに人格がなくても、そこに人間ははっきりと“何者か”を観てしまう。
そして、例えどんなに拒絶したくても、既に人間社会はこの隣人と共に生活する事を避けられなくなっている。
既に彼らは人間社会に溶け込み、混ざり、一体となっているのだ。その融合の中で起こる様々な反応は、場合によっては、苦しみや戸惑いとなって表出しもする。しかし、或いはそれはロボットという存在からもたらされたものではなく、本質的には、飽くまで我々人間の別の形が、そこに、そのような形で噴出しただけなのかもしれない。
だから、その意味で言うのであれば、彼らはやはり人間なのかもしれない。いや、人間だと定義すべきものなのかもしれない……