第九話「見えない足跡」
酉の月のはじめ。
鐘山環、御槍城へ入城。
今後自らの居城となるその城下で、環は城代、勝川舞鶴と自らの民となった者たちの歓迎を受けた。
そこで何度とも知れず杯を重ね、皆で手を取り笑い合う。
彼らに何種類もの笑みを使い分けて接する環は「だが」とその裏で首を振った。
――程度の深さ、本物か偽りかの違いさえあれ、彼らは支配者には笑顔を向け、こうして歓待するんだろう。
環や、その子々孫々が悪政に奔れば、それを打倒した新政権の支配者に。
それがまた都合が悪くなれば、さらにその破壊者に。
それで、良いと思う。
民が統治者に仁愛や公平さ、あるいは完璧さや英雄的器量を求めるのは、古くから今日に至るまでの性と言って良い。それはどんな世になっても変わることはないだろう。
だが、統治者が民に『それ』を求めてはいけない。
『それ』を求めた時、君と民との間には齟齬が生まれ、やがて軋轢へと変ずる。
君は暴君へと変貌し、民は一揆や暴徒と化す。
――俺と叔父御を隔てる壁があるとするならば、方針や思考なんかじゃなく、その辺りを認識しているかどうかかもしれない。
そして、と環は帽子を目深にかぶる。
夜宴の中で一度、星を覆い隠すほどに見事な三日月を見つめる。その後、視線を方略寺の方角へと移動させた。
――銀夜は、この宴の席をどういう想いで見ている? 目の前の彼らは彼女のことを、どう思っているのだろうか……?
まるで、初恋の相手をとられた童貞の未練だ。
環は肩をすくめる。そして空の酒杯を、『六番屋』より返してもらった鈴鹿に差し出すのだった。
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対面の場は、方略寺であった。
かつては雨の中、その門前でやり合った二人が、今は雲ひとつない夕焼け、寺内の大広間にて、一対一の話し合いをすることになった。
互いに供はない。
銀夜はもう身内がいなかったが、環の方はかなり無理を押し通して単騎、そこで敵に面している。
それでも、障子の裏にはやはり護衛はいるだろう。
「痩せたな」
部屋に入って開口一番、環はそう言って腰掛けた。
「飯、食ってないんだって?」
「……」
「もったいないな。俺なんて、ここを出る時までマトモなもの食ったことないぞ。……あ、それとも毒だと思ってるか? わざわざ、そんな回りくどい殺し方すると思うか?」
「能書きは良い」
環の精一杯の諧謔を、銀夜は突き放すように妨げた。
「弟妹の仇を討ちにきたのだろう。斬るが良い。斬って、お前の私怨を晴らすが良い」
捕縛されて三日ほどは、手負いの獣のように激しく抵抗したそうだ。が、今少女は落ち着いている、というよりも憑き物が落ちたように大人しくなっていた。
それは食事を拒み、生気が衰えたせいかもしれなかったが、気力で言えば、発狂していた時よりも安定しているように思えた。
帝より賜った藤色の玉衣は、戦塵にまみれて色褪せている戦火によって焦げ付き、乱戦に巻きこまれて引き裂かれ、かろうじて肩に引っかかっている有様だった。
……それでも、片時も手放さなかったという。
環は帽子を手に取った。
「……ま、最初はそう思ってた。憎んでいたさ」
長い旅路を経て、だいぶくたびれたそれを、労わるようにしてシワを伸ばす。
「だけど、頭が冷えたのか、視野が広まったのか。お前の立場になって、振り返ってみた」
「私の?」
片目を歪める従姉に、彼は深く頷いた。
「お前はなすべきことをした。そしてその業に相応するだけの地獄を味わった。今さら俺がくれてやるものは、何もない」
その地獄を見せたおのれが言うのもまた、滑稽に思えた。
それでも勝者の声の響きは、我ながら無慈悲なもののように聞こえる。
「鐘山銀夜、お前は解放する。どこへ行くのも自由だ」
銀夜の真紅の瞳が軽く見開かれるのに合わせるようにして、環は顔を持ち上げた。
「村忠はじめ響庭家は、お前の死を望んだ。……ほんっと奴らを説得するのには時間がかかったよ」
だが、村忠は合理的な男だ。領有しようとする土地の、旧権力者を直接手にかけることへの危険を説くと、制止した環の方が呆れるほどに、あっさりと承諾した。
その彼を介して響庭家を納得せしめた。
元々、響庭家には父宗流の殺害に加担したという後ろめたさがある。
その辺りを村忠がほのめかせば、説得自体は容易だった。
問題はここからだ。
少なくとも、彼女にとっては。
「……だが忠告はしておく。お前、父親の下へ戻ったら殺されるぞ」
鐘山宗善は、己の理によって肉親の情を排し、司法に照らして彼女を処断する。
環にさえ分かることだ。より濃く血でつながり、その父の間近でその志を信奉してきた聡明な娘には、瞬時に悟り得たことだろう。
彼女は、鐘山銀夜は眉一つ動かさない。
その態度と表情こそが、銀夜が既に死を覚悟のうえで、そこへ赴く心構えができていることを物語っていた。
「お前が望むなら、別の場所へ放逐する準備もできてるんだがな。俺はお前を許すことができないけど、桃李府を介して朝廷へ引き渡すことも」
「断る。自分の身の処し方は一番よく分かっている」
ぴしゃりと、荘厳な舞台の幕を下ろすかのような、峻厳な拒絶だった。
「そして勝者気取りの温情も大概にしろ。お前が私に勝ったわけではないし、その言い分が正しかったわけではない」
そう言い切ってから、銀夜は長い睫毛を震わせ、伏せた。
「私が、自らの規律と秩序を保てなかったからだ」
……己の弱さを、噛み締めるように。
「私はその禁を破り、己が獣性を剥き出しにした。そのために負けたのだ。私から見る限り、お前はかつてと変わらぬ。悪たれの弱き凡人だ」
環は帽子をいじる手をピタリと止めた。
「意外と、見てるじゃないか」
目深にそれをかぶって、口元の苦笑をごまかす。
「私が処される? 軍紀に照らさば当然のことだ。秩序破りし者の末路としての見せしめとあらば、私は喜んでこの命を捧げよう」
虜囚の身でありながら、曇りなき眼ではっきり物を言う。
確かに身の肉は衰え、骨はやせ細ったが、それでも心の骨子は強く、丈夫になった。
美人絵の如き薄っぺらな綺麗さが、時と試練を経て、ようやく血肉と色を得た。環にはそう見えた。
そして惜しんだ。
「……承知した。翌朝、馬を渡す。早々に父の下へと赴くが良い」
「感謝する」
それ以上の話は無用。銀夜が背に負う気配が、そう語っているのを感じ取り、環は立ち上がった。
踵を返し、半歩進んだ環の背が、「あ」と漏れる小さな声を捉えた。
くるりと向き直った環に、声をこぼした銀夜は恥じ入るように五指を唇に当て、頰を染めた。
「もう一つだけ、お前に感謝しておくことがあった」
やや上擦った声で前置きする。だが指を離した直後には、彼女は一人の姫としての気品を取り戻し、居住まいを正した。
藤色のボロ布は、今の鐘山銀夜が身にまとい、ようやくにして本来の、神さえ宿るような清らかさを取り戻したような気さえする。
「我が身の獣と業とを残らず吐き出し、全てを失った今、この胸に残るのは清らかなる秩序への憧憬のみ。その境地へと至ることができたのは、図らずもお前の所業により、だ。……その一点には、心底よりお礼申し上げる。鐘山環殿」
この従姉妹より土地と城とを譲り受けた少年は帽子の鍔にそっと手を当てた。
「……まったく、惜しいな」
もう少し生き永らえる気になれば、あるいはもう少し早くに悟っていれば、また行く末も違っただろうに。
環は再び腰を下ろして、一人の人間として銀夜に対面する。
淡く微笑を浮かべる少女をじっと正視したままに、頭を垂れた。
「その礼、ありがたく頂戴する。御槍の民も、決して泣かさないと約束しよう。……良き船出を。来世あらば、幸多からんことを。……順門府公子、鐘山銀夜殿」
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冴え冴えとした朝の寒風が、骨身に針を刺すようだった。
夜明け前に身を清めた銀夜の肌は、未だ冷水の露を残したままであったために、ことさら冷たく感じられる。
だが銀夜には、それさえも己の罰であるかのように思えたし、かえってすがすがしくも感じられた。
てっきり敵に殺害ないし鹵獲されたものと思っていた愛馬を返還してもらった銀夜は、その鐙へと片足を上げようとして、大地へと視線を落とし……固まった。
やがて彼女の双肩は小刻みに震え、それが大笑に変わるのに時は必要としなかった。
「……あ、はは……!」
唐突に笑い出した彼女に、馬の世話の任せられていた馬丁が「……何か?」と訝しむ。
「……いや。別に。何もない」
笑いを切った銀夜は、高貴さを取り戻した白銀の髪をたなびかせ、自らの旧領に別れを告げる。
――そう、何もない。
夜通し宴会をしていたにも関わらず、自分がいた大路には、すでに残飯一つ落ちていなかった。見事に、掃き清められていた。
――定法第三十六。臣民は早朝には自らの居住前の往来を、清潔とすべし。
己が定め、自ら筆を執って認めた国法の条文。その表題と仔細を、馬上の少女は今でも諳んじることができる。
――他でもない。足跡一つなく続くこの死途こそが、私の足跡だった。
御槍城主、鐘山環よ。我が地を引き継ぎし者よ。……同朋よ。
そう彼女は城も振り返らず、歩みも止めずに語りかける。
――お前は気づいているか? たとえ統治者が変わろうとも、その行いは、その想いは目に見えずとも民草に根づいていく。たとえそれが一片の花弁の如きものであったとしても、次へと進む土壌となっていく。
そして自分は、とうとう答えを得た。見るべきほどのものは見た。
銀髪の姫は馬鞭の一打を当てる。速度を上げた馬の上で、めいっぱいに新風を吸い込み、肺腑を満たす。
そして朝の光に溶けていき、何者も見ることのかなわない先へと征った。
酉の月末日。
鐘山銀夜、父宗善より白扇を賜り、自刃と謂う。




