第六話「血戦、干原」(2)
「新組め。見事に敵の陽動に引っかかってくれたな」
順門府軍第二手、亀山柔は予想よりはるか東で開かれた戦端を、鼻で嗤った。
敵の演技の見事さに思わず亀山もまた思わず彼もまた釣られそうになったが、互いが傍にいるのも鼻持ちならぬ、という険悪ぶりが、新組を孤立させ、亀山を救った。
「おそらくあれは、本陣などではなく、環に加わった与力衆だろう。……が」
なればこそ、戦上手の強兵はみなあちらに振り分けられ、山に籠もるのは環とその素人集団であろう。
なるほど慌てる馬鹿はもうけが少ない、と亀山は鼻に皮肉なシワを寄せた。
「功名今なお緑岳にあり。我らはじわじわと奴らを追い込めば良い」
彼の沈着な理屈に従い、兵がのぼり始めた。
……が、それが机上の空論に過ぎなかったことを、彼は間もなく痛感した。
半ば要塞と化した緑岳の構造は、あたかも堅城の如し。
その道筋に従って攻めた寄せ手は、その側面からの銃撃にさらされた。その間断を埋めるかのごとく、矢が弧を描いて飛来して、敵の首筋を射貫いていく。
虎口、枡型にも似たつくり。かつての傑物、鐘山宗円が築いた砦よりも遙かに発展し、かつ鉄砲戦を意識したものとなっている。
櫓にて、それを指揮するのはあの方略寺にて長谷部を捕らえたという、幡豆由基なる弓手である。
その者自身も神技とも呼べる弓の手並みで、こちらの小頭を、小隊を指揮する部将を殺していく。
――まるで、狙える将、殺せる敵を、確実に見極められるかのような……
妄想じみたその予想が、現実のものであるとするならば……
――ど、どうする? どうすれば良い? 被害が甚大になる前に退くか?
逡巡する彼の下に、
「亀山は何をやっておるかぁ!? 何故五百の小勢如き打ち破れんのだぁ!?」
兵たちの喊声を突き破るほどの、女の金切り声が甲高く響き渡る。
そしてその声の主が、今のような壊れた奇声と共に老将響庭を斬殺した光景が、亀山の脳裏に蘇った。
「せ、攻めい! 攻めるのだ! わ、わしは死にたくない! あんな死に方はしたくないぞぉ! 皆わしのために死ねぇ!」
だがその声を振り絞ったところで、答える将兵は誰も存在しなかった。
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狂気に突き動かされたかのような、あるいは絶望の果ての自殺にも近い攻勢は、環を恐怖させるよりも呆れさせた。
「……これのどこが秩序だ」
だが、もはや道筋に従わず、ばらばらとした無軌道無作為な攻撃に対しては鉄砲も弓でも応戦し切れない。
やがて杭や柵に敵の手がかかるようになり、環自身も前線に出て応戦しなければならなくなった。
二本の鎌を手にして、覚王にまたがった環の柵は堅守されたが、やがて数で押し切ろうとする寄せ手の一集団が、一穴を穿つ。
そこから進入を試みる敵兵を防がんと、味方の兵が自ら壁になる。
「……っ!」
歯がみして、顧みる。しかしこちらも手一杯だった。
刹那、矢が二筋環の頭上を通過していった。
環の持ち場より遠く離れたその一穴。そこからぐわっ、と野太い断末魔があがり、 敵の攻勢が和らいだ。
「惑わされんな! 取り決め通り一人じゃなくて一組になって戦え。取りこぼし分はオレがやる!」
櫓の上よりそう檄と矢を飛ばす少女、幡豆由基と視線が合った。
彼女の目つきは咎めるような厳しさを孕んでいたが、その裏にあるものが、今の環には分かる。
「お前の手からこぼれ落ちるものは、オレが拾ってやる。だから迷わず前を見てろ」
環は声なき由基の言葉に強く頷いた。
決意を新たにした大将の傍には、その矢面に、珍しく色市始が立っていた。
「簡単な話だっ、この砦を作ったのは誰だ? 何度この一帯を往来したと思ってる? 地の利は我らにある!」
高らかにそう宣言する始に、環はやや呆れたような苦笑を浮かべた。
「……お前がそれを言うのかい」
「事実は事実ですから」
ふてぶてしくも胸を誇らしげに反らして、始はすかさず答えた。
「それに、嘘は武士の軍略、そうでしょう?」
違いない、と肩をすくめ、一皮剥けたこの旧友を、生まれて初めて頼もしく思えた。
嘘であれなんであれ、今は使える物は乏しく、そのことごとくは使い切る覚悟で、耐えなければならない。
――なんせ、今の俺らは奴らの目算より、数が少ない。
鐘山環は自らの背後にある案山子とその背の指物を顧みて、嘆息する。
――だが、この激しい攻勢こそが、俺らの勝ちの証だ。
風が、その向きをゆっくりとだが変え始めている。
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「本隊および左右の三隊、これより、中央の森を突破して『中丸』を奇襲する! これを落として敵を分断する!」
馬上の人となった戦場の姫は、高らかに宣言した。
「し、しかしその……ともすれば環勢と桜尾勢に挟撃されるおそれが」
「さよう、あくまで勇将新組殿が敵陽動を蹴散らし、亀山殿が搦め手を陥れてから、時間をかけて……」
「黙れぇ! 亀山の名の通り亀の如き、山の如き鈍重さに、神速でもってなるこの銀夜の足を取られてたまるか! それに見よ! 奴らは互いに協力しようともせんではないか! あれこそ、実氏、環の両者の出来合いの共闘が上手くいっておらぬ証なのだ!」
銀夜が馬鞭で示し、わめき立てた通り、岳上の敵兵はそれぞれの持ち場を守ることで手一杯のようであった。
次いで風音鳴らして示した、鬱蒼とした森にも人の気配はなく、そこから続く緑岳の中間の先の兵は、どちらにつくこともできず、右往左往、右顧左眄。あからさまな遊兵となって彼ら自身の立ち位置さえ持て余しているようであった。
だが、彼女の言葉には、自らの見識、将器を信じよう、否信じたいという強い願望が見え隠れしているように、左右の臣には思えた。それが、彼らに突入を戸惑わせる最大の理由であった。
だが、
「もう一度怠惰な口を開いてみせろ……宗忠のようになりたいか」
その恐喝が、良くも悪くも最大限の効果を発揮して、それ以上の抗弁を封じたのだった。
なるほど銀夜の観察眼は、発狂してもなお曇ることはなかった。
自らの中軍先鋒に見立て、両翼である亀山と位町を敵の抑えに専念させる。
森に伏兵の類はなく、むしろ彼女たちの姿を敵より隠し、進路を眩ませる一助となっただろう。
「朝廷の御為、御家の御為、そして規律と秩序のため、突っ込めぇ!」
そう指示しながら、自ら手本を示して先行した。
その馬廻り衆も、大将を見殺しにはできぬとばかりに彼女に続く。
あるいは片手で刀槍を振りかざしながら、もう一方の手を柵にかけてよじのぼる。またあるいは鉤縄を懸けて、力任せに引き倒そうと試みる。
そして木々を突っ切って出現した銀夜勢に、環と実氏の弱兵らは逃げ惑い、奥へと引っ込んでいく。そうして崩した一角から、銀夜は自らの白馬にまたがって吶喊した。
だが、突入した先には、何もなかった。
物資が散乱するばかりで人員の影はなく、板張りの薄い壁が三方を囲う。
その壁には窓の如く人の目線の高さでくり抜かれた小さな穴があった。
方形に、あるいは三角形に作られたその穴が、銀夜たちを戸惑わせた。
ふと、人の気配が浮かび上がる。
首を反らした白髪の鬼女の目に飛び込んできたのは、嘲るように見下ろす、若き悪相の下郎。
猿の如くに壁の上に足をつけていた男は、不敵な笑みを浮かべたままに、その裏へとヒラリ、飛び降りた。
それが、合図であったかのようだった。
穴……いや矢狭間、鉄砲狭間から矢弾が撃ちかけられたのは、次の瞬間であった。
――なんだ、これは。
ばたばたと倒れていく顔なじみの近臣たち。
遺言らしい遺言も、自分のことをどう思っていたのかさえ表明しないまま、屍となり、山となっていく彼らの中心で、姫はかえって逆上した。
「おのれぇ卑劣な罠を! 環を出せぇっ、あの卑怯者め顔を見せろォ! 一騎打ちだ!」
そんな彼女の叫びに応じるが如く、敵陣には動きがあった。
……いや、敵陣が、動いた。
彼女を三方より囲っていた壁が、突入した銀夜本隊の方向へ、内へと倒れ込む。
何人かの兵が下敷きになり、悲鳴があがる。さらにその上から、軽装の伏兵が身を乗り出して切り込んでくる。
「魁組、突っ込め。奴らの高そうな武具、ひん剥いてやれ」
品のないかけ声と共に、その羅刹どもを指揮しているのは、先刻の悪相の青年。刀身の厚いダンビラ片手に向かってくる彼の背後に、彼女は鐘山環の影を見た。
あと数間、駆ければたどり着けるような距離に、かの宿敵は名馬にまたがり屹立していた。
「環ィア!」
少女は甲高く声を張り上げてその敵将の興味をこちらへ寄せようと、我を見よやと叫んだ。
その声に反応したか、環は一対の鎌を手にしたままに、横顔だけをそちらに向けた。
が、空色の瞳には、仇を見る憎悪も、同族を討つ煩悶もなかった。
笑うでもなく、そして嗤うでもなく細められた二つの瞳は、憐れみの色があり、やがて自らの戦場へと視線を戻した。
「ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなぁ!」
恐慌状態に陥った麾下を指揮、叱咤もせず、単騎で銀夜は敵兵の群れへと突入した。
その前に立ちはだかる悪相の青年を、奥歯を噛みしめて迎え撃つ。
「おのれ、おのれ! 下郎がわたしを誰だと!? 姫将月夜の戦乙女順門の麒麟児神の寵児聖騎士救世の天女永遠の神童天道の女神」
壊れたように己の肩書きを繰り返す彼女は、大上段に自らの愛刀を振り下ろす。
だが、その男の背後から小さな獣のような影が飛び出した。
少年、と呼ぶのもためらわれる幼い男の子。彼は腰と頭を低くして蛇行しながら、銀夜の懐へと潜り込む。
逆手に取った小刀が、銀夜の刃に食い込んだ。
火花を散らし、受け止められたその刀を、男の足が蹴り飛ばした。
宙に浮いた銀夜の刀を、男の片手が難なく奪い去る。
脇差を緊急的に抜き取る間もなく、その男は両刀を鋏のように交差させ、銀夜の細首へと沿わせた。
「能書きは終わったかい?」
――何故、こうなった? なんで、わたしが、勝てない。
ずっと努力してきたはずだ。皆の信望に足る戦歴を重ねてきたはずだ。
……誰もそのことには、異を唱えてこなかったはずだ。
なのに、最後の最後に、しかも自分よりも弱いはずの相手に負けるのか?
もしかしたらそれを問える人間は、いたのかもしれない。
彼女の挙動を横暴だ、無謀だと諫める者がいたのかもしれない。
だが、その機会は永久に失われた。
彼女がその手で、言える人物を永久に目覚めなくしたのだから。
~~~
自らの後方が良い意味で安定したのを、実氏は肌で実感し、経験にて確信する。
「鐘山勢、中丸の伏兵にて突出した銀夜本隊を痛打! 大将銀夜を就縛いたしました!」
「羽黒勢は、先鋒を敗走させた後、敵包囲の背後に打って出ました!」
その二報で自軍の勝利を実際に確かなものとした時、実氏は即断した。
「釜口殿」
「はっ」
「環勢の側面につき、援護を。戦局が安定した後は、総大将を喪った敵の掃討をお願いいたします」
「承知!」
「相沢殿は山を下り、背後より敵を襲っていただきたい」
「ありがたい! ご厚情痛み入る!」
――これで、敵の分断は成る。
これは諸将への気配り諸々を考慮に入れた動きであり、武将らの動きや返答には淀みはない。
だが、そんな予定された行動にも、一種の痛快さを実氏は感じていた。
――良い。すこぶる良い。
自らの指揮の案配もそうだが、羽黒圭馬を始め、士卒ことごとくが己の才を発揮させ、躍動しているようにも見える。
鐘山環を押し上げようとする追い風の如き天運。それを実感する。
――それに乗らねば、かえってたたられるな。
苦笑する実氏を訝りながら、命を受けた相沢がさらに進言する。
「敵の後陣も牽制しておくべきでは?」
「ふむ」と唸った連合軍の総帥は、しかし『かの若者』の成功を信じていた。後は成るのを待つだけ、という心地でもある。
部外者であるおのれでさえ、鐘山環の順風を感じ取ったのだ。
となれば、いちはやく、誰よりも迅速にその風の予兆を感じ取っていたあの『彼』が、負傷も癒えぬままでも強いて自分との随行を望んだ彼ならば、必ず成す。
強く頷いた実氏の視線の向こう。東の敵本陣で、ぼっ、と火の手が上がる。
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「退くな、ええい退くな!」
順門府軍の後詰めとして、件の『味方』の警戒に当たっていた同門衆、鐘山貞寛の軍勢は突如の奇襲に混乱していた。
彼とて、無為無策に漠然と構えていたわけではなかった。
が、前線における戦闘の激化が注意をそらした。
……その隙を突いて、『かの若者』は、敵対している自らの家の陣へと潜入した。
潜在的な危険要素、響庭勢の変わり身の早さと侵攻の速さが、その予想を上回った。
……響庭陣中の内情は薄々彼が感づいていた通りのものであり、軽蔑していようとも親しんでいた祖父への弔意を胸に、彼はその残兵たちを言葉巧みに調略し、丸め込んだ。
――まさか、大将を喪ってもこれほど統率のとれた動きができるとはっ!
合戦が始まる前には、実際に狼狽し、右往左往してばかりであったはずだ。
今にも離脱してしまいそうな弱気さえ感じられたはずだ。
だというのに、一転して攻勢に移り、瞬く間に、的確に要所を制圧していった。
「お、おのれ。響庭め、この土壇場に謀反などと! 鐘山から受けた恩を忘れたかっ、不忠者め!」
糧秣や陣幕を焼かれ、盛る火炎が沈んだ夕陽に代わるように赤々と夜の陣を照らす。
たちまちに手勢は打ち減らされ、あるいは逃散し、狭まる包囲の中で、貞寛が吠えた。
「恩よりも、仇の方が人の心には刻まれる」
轟々と音と声とが立つ中で、背の低い若者がすっと前に出た。
左の腕を具足の上より吊り、もう一方の手が長刀を握る。
聞き慣れない陰気な声だが、不思議と喧騒を縫って染み渡るような、ふてぶてしいまでの力強さがあった。
「な、なんだ貴様は!?」
「響庭村忠。あんたらが殺した宗忠の孫さ」
「時流も読めず真っ先に環についたという、例の放蕩息子か!」
そうがなり立てる貞寛に、彼はややわずらわしげに眉をひそめた。
「……たしかに。その村忠には違いない。だが時流が読めないってのは、今この状況下で言えたことか?」
村忠は、ついと刀を持ち上げる。
彼と共に主将の復仇を企図する響庭勢の刃は、孤立した貞寛を囲う。
「無様な降伏か、惨めな玉砕か。宗善親子に盲従した結果、もうその二つしか選べなくなった連中よりかは、僕はよっぽどか恵まれている。栄達も、破滅も、自分の裁量で手にできるんだからな」
~~~
順門府軍一万八千。
それは鳥瞰すれば、はじめ緑岳に寄り添う大蛇の如く見えただろう。
かの蛇の、研ぎ澄まされた牙が正しく一撃を加えていれば、その山岳はもろく砕けていただろう。
だが、理屈とはその通りに行うことこそが難しい。まして、一個人の感情の暴発が、何ら勝算も立てないままに戦端を開いたのだから、成否で言えば否の可能性の方がはるかに高いことは言うまでもなかった。
――実際には、その牙は羽黒圭馬の槍先にて脆くも飛散した。
順門府軍一番手、新組勇蔵討死。
次いで副将、長谷部平歳も討たれたのを契機に潰走。
――その頭部は、鐘山環らに上から押さえつけられ、身動きがとれなくなった。
順門府次鋒、亀山柔は一度は攻勢に出るも、ことごとく阻まれて疲弊。
無茶攻めの結果が表面化した時にはもう遅く、羽黒勢に横槍を突かれ敗走した。
――上手く運用していれば双頭の蛇の片割れとして、桜尾勢の牽制に当てることもできたその尾には、響庭村忠により火がかけられた。
背後を預かる鐘山貞寛は、自身と居残った将兵の助命を条件に投降。
その兵を吸収した響庭勢は、敵の後背を遮断。帰路さえも断った。
――さて、残されたのは無防備に晒されて、退くも進むもできなくなった胴体部のみであった。
実氏はこの直後に攻勢に転じる。
老練な将釜口を環の援護に当てると共に、響庭勢により後ろの安全が確保された相沢勢がさらに敵を背より襲う。
実氏自らも中軍を叩き、敵を二分、三分と輪切りにしていった。
そしてその心の臓……総大将、鐘山銀夜は、環の麾下である亥改大州、良吉らによりあっけなく捕縛された。
伏兵として海を守護していた赤池仲束の船団が、分断された各隊に焙烙火箭を射たことにより、もはや順門府は組織的な抵抗を諦めた。
あるいは降り、あるいは包囲をかいくぐって強行突破して、散り散りになって総崩れとなった。
桜尾家とその客将、鐘山環の完勝と言ってよかった。
~~~
――退き鐘。
遠く聞こえる半鐘の調べを、覚王のたてがみにつっ伏せながら環は聞いていた。
――どっちが勝ったんだっけか? ……いや、まぁ俺らの勝ちか。桜尾家の退きの合図は……貝だものな。
と、順を追って、ゆっくりと状況を飲み込んでいく。
だがそれを理解してもなお、環には喜びは去来しなかった。
現実感がいまいちなくて、駆けずり回った初陣の余韻が、足に沈んで麻痺している。あぶみに掛けた爪先に感覚はない。あるいは自分はとうに死んでいて、今見ているのは夢なのではないか、という気さえした。
そんな青年の意識を現に繋ぎ止めているのが、馬体のぬくもりだった。
「ユキ、被害状況は……」
「成し遂げたな、環公子殿」
「!」
愛馬にまたがり供回りを連れて現れた実氏に、環は同じく馬上にて頭を下げた。実氏も騎乗したままに深々と答礼する。
「おっ、そのじゃじゃ馬、今日はいつになくしおらしいではないか」
「じゃじゃ馬?」
環は戦塵にまみれた幡豆由基を顧みた。途端、厳しく睨み返されて膝を拳で叩かれる。
「あ、あぁ! 覚王のこと」
痛みと共に、一拍子遅れて気がついた環に、実氏は愉快げに目を細め、少年っぽく歯を見せた。
思えばこうして談笑した機会が、試し合戦の折にもあった気がする。
あの際にはこのじゃじゃ馬には振り落とされ、もう一方のじゃじゃ馬にはそっぽを向かれていた有様だった。
その辺りの頃から比べると、ずいぶんと彼女らとの関係も改善されたように思える。
「オレらが夜が明けると同時に追撃に移る。響庭殿もさらなる調略のため、既に発たれた」
「あんにゃろめ」
環は実氏に同伴し、いつの間にか参陣していた副将を思い浮かべ、苦み九割愉快さ一割という具合の笑みを浮かべた。
「で、環殿はどうされる?」
「俺らは、周囲の安全を確保できるまでは留まります。村々に約束しちゃいましたしね」
「ほう、とするならば、我らが順門府領を切り取ってしまうかもしれんぞ?」
ずいぶんと、意地の悪い質問をする。
環は苦笑交じりに首を振った。
「実氏殿がそれをするとは思えませんよ」
「ずいぶん買いかぶられているようだな」
「そもそもこの戦は、実氏殿たちにとっては、攻略対象を風祭府に一極化するための戦。深入りしちゃ元も子もない。それに」
「それに?」
「いずれにつくか、判断するのは諸氏百姓です。臣従を強いても態度を硬化させるだけ。そして、俺らはこの地で彼らに訴えるだけですよ」
信義と誠意は我らにあり。
汝らそれに背き、いずこに顔を向けるや? と。
実氏はうつむきがちに肩を揺すった。しばらくしてから、それは含み笑いとなり、豪快な呵々大笑へと変じていった。
「成長したな。環殿。それも、オレと出会った時のかたちのままに」
「そう言ってくれますか?」
「あぁ。だから自信をお持ちなさい」
――仮にも他国の人間に、なんとまぁ。
と、環は苦笑した。
これより労苦を重ねることになるのは、環のみではない。この桃李府筆頭家老にも、同程度の重圧がかかることだろう。
この成功を妬む者もいるだろう。
桜尾義種は命からがら国に逃げおおせた。自業自得と言え、あの公子はきっと実氏を逆恨みするに違いない。
ただでさえ羽黒圭輔の後援者として不興を買ってきた。義種と実氏の決裂は、この一件を機に表面化することだろう。……実氏の本心など、関係なく。
仮にあの男が桃李府を継げば、 その権勢と才気と善良さが、かえって実氏自身を苦しめるのではないか。
そんな、予感がある。
――その間際にも、実氏殿は笑みと気遣いを忘れない……
本当に、異邦人ながらも尊敬と規範に値する人物だ。
ではな、と右手をかざして馬首をめぐらせた実氏は「あ」と小さく声を漏らし、挙手したままにくるり、向き直る。
「そう言えば、貴殿らの勝鬨を聞いてないな」
「あ……」
と、環もまた小さく声を漏らした。
「皆と喜ぶべき時は素直に喜ぶ。これも大将の器量だと思うがね」
死者を憂うのも、他人の行く末を不安がるのも、まずはその後で良かろう、と。
――かなわないな、この人には。
下馬した環は、苦く緩む目元を、深く覆いかぶせた帽子で隠す。
放した右手を握り拳にして、自分と共に歩んでここまでやってきた士らを見渡した。
シンと静まり、自分の右拳を目で追う彼らを前に、環は一度咳払いしてから
「えいっ、えいっ」
やや迫力に乏しい、掛け声と共に、拳を天に突き出した。
瞬く間に、天に様々な色の声が重なり合って轟いた。
控えめだった本人の予想とは裏腹に、雷にも似た咆哮が、環の耳を突き、肌を痺れさせ、魂を揺さぶる。
激情とも言うべき歓喜の嵐の渦中において、環は頭をはたかれ、帽子をむしり取られて尻を蹴られ、その横暴を咎める前に、誰かの太い腕に首を引っ掴まれる。抱かれる。持ち上げられ、胴上げなる儀式を受けたかと思いきや、その身柄は人へ人へと渡る。
最終的に幡豆由基の番になって時には彼女は受け取らず、「だぁっ」と環は地面に落ちた。
刀槍も飛び、烏帽子や兜も飛び、あげく、奪い取られた環の帽子やら羽織やらも、高く天へと舞い上がる。
環を苛めながらも感涙にむせぶ者もいた、爆笑する者たちがいた。その両方を同時にこなす人々が、いた。
それら暴力的な祝福を受けながら、環の口元もまた、緩んでいる。
――あぁ、くそ。まったく俺は。
ちょっとの火付け役になるつもりが、思いがけない大火を招く。
だがそれでも、不実とも言え不義とも言え不忠とも言え、
――どれだけ理屈を並べたところで、俺は根っこのところでこいつらのことが好きなんだろう。
環はその夜、心の底より笑った。




