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樹治名将言行録 ~鐘山環伝~  作者: 瀬戸内弁慶
最終章:順問 ~干原の戦い~
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第六話「血戦、干原」(1)

 ふむん? と、器所実氏は奇妙な唸り声を発した。


「奇襲でも夜駆けでもなく微妙な時節に、真っ向から仕掛けてくるか」

「名将鐘山銀夜らしからぬ、拙劣な攻め。あるいは何らかの奇策の前準備では?」

応じたのは相沢城申であるが、実氏はその意見を否とした。

「うーむ、あれはヤケではないですかな?」


 とは言え、実氏には確証があるわけではない。

 彼は長年の経験と、そこで養われた戦機における嗅覚で、罠がないことを察知していた。

 戦はすべて理屈どおりに行われるわけではない。その不安定さを知っているが故に。


「ですが、未だ動かぬ敵の後ろ備えが気になりますぞ。あれは、響庭の旗印ですが……」

「だが、まるで葬式のような陰気をまとっている」


 もしかしたら敵将に変事が起きた。

 で、急な総攻めを余儀なくされた。

 実情はそんな程度のものかもしれない。


「敵勢、我ら本隊を大きく迂回! 山岳の搦め手に一直線に向かっております!」


 物見よりの報告に「おやおや」と実氏は目に微苦笑を浮かべ、口の右端を吊り上げた。


 ――オレたちには脇目もふらず、味方が死に絶えようとも、環殿お一人を討ち取ろうというのか? 戦略の負けに対する挽回を、一戦の中の、そのまた一縷の光明に託そうと言うのか。……かつては、それで通じていたのだろうが。


 明らかに敵の攻撃は常軌を逸している。

 だがそれゆえに、死兵と化しているだろう。


「その鋭鋒を真っ向から受けるのは、愚策だな。当初の予定通りの対応でお頼みします、相沢殿」

「……環公子に、銀夜の攻めが凌ぎ切れるでしょうか」

「なに、すでに対応は通達しています。圭馬殿もおられる。それに」

「それに?」

「この程度の危機を超えられるかどうか、それによって順門府の主として、桃李府の盟友としての器量が試される」


 相沢城申は深刻な顔のままに頷き、視線を背後へと向けた。

 それに倣って実氏も首を後ろへ翻す。


「気張れよ、若人」


 という言葉をそっと風に乗せる。

 それから背後に振り返り、『かの若者』に改まった顔つきで尋ねた。


「で、どうかね? 合戦の混乱に紛れれば……いけると思うが?」

 具体性もなく、短く問われた彼は、

「やってみる価値はあるでしょう」

 実氏の意を巧みに察し、低く答えた。


~~~


 目を閉じた環の、その瞼の裏には夜が訪れていた。

 本物の夜ではない。過去の月夜だ。

 傍らには祖父が一人でいて、その夜が、かの老公、鐘山宗円との今生の別れだった。


 おのれの髪を撫でつけながら、老人は己の人生を振り返る。


「……ずいぶん、長引いてしもうたなぁ」


 当時は何が? と、聞きたかった。

 今となっては、わざわざ聞く必要もなかった、と思った。


「のう、坊よ。聞いとくれ。わしは、朝廷を討ち滅ぼす気など、もともとなかった。天下を取れたとして、治めるだけの器量がないことは、わしが一番良く知っておった。そして今では、周知の事実よ」


 冬の澄んだ空を見上げる。

 天に満ちる星々を統べるかのように、黄金色の満月がのぼっている。


 そう、例えるならば己の描いた世界のありようとは、あれこそが理想であった。

 老人は、想いの丈をそういう言葉から紡ぎ始めた。


「……わしは、順門一国の自治を認めていただければそれで良かったのじゃ。朝廷という目映い白日から逃げた先の受け皿。彼らの朝廷の、帝に対する怒り、不平不満を癒し、生産に昇華させるための、月の都。それこそが、順門府のあるべき姿だと、考えておった」


 だが、夢は破れた。


「要するに、結局わしには人を受け入れる仕組みを作ることはできても、人の情を解し、欲をくみ取り、かつ受け流すだけの力さえ備わってはおらなかったのだ」


 そう言って彼は、孫をかき抱く。

 すまぬ、すまぬ……という呟きが、自然と、そして繰り返し、口から漏れていた。


「そなたらには、辛い道を歩ませる、苦しい時代を生きさせることとなってしまった」


 ――大丈夫だ、じじ様。

 鐘山環は閉じた瞳で、過去の自分と祖父との抱擁の様を、じっと見つめていた。


 ――人が必要とするならば、その受け皿はおのずと生まれる。その人の想いを継ぎたい者があれば、いつかは……それは実現される。


~~~


 土のめくれ上がる臭いが、風に運ばれて環の鼻腔に届く。

 地を駆ける殺意の群れが、もう間もなく環たちに襲いかかるという、その兆しを嗅いだ。

 環がうっすらと目を開け、深く呼吸した。


 ――こっちが風下……風向き悪し、か。


 だが、いつか風向きが変わる。

 その刹那、その潮目まで、手練手管を尽くして耐え忍べば、こちらの勝ちだった。

 陣鉦が鳴り響く。それに突き飛ばされたかのような動作で、母衣武者が一騎、彼の足下に膝を屈した。


「ぜ、て……っ、敵のほぼ全軍が我らに向かってきております! 先鋒は熊手の紋!」

「新組勇蔵」

 その第一報に、傍に控えていた良吉がぼそり呟き、

「やっぱ身内殺しはあいつの務めってか」

 と由基が皮肉な笑みを目に浮かべて立ち上がった。

「環公子」

 と客将羽黒圭馬。その眼差しを受け止め、床机から我が身を押し上げた。


「旗本含める隊の半数を、退却させる。下山の準備を」


~~~


 ――ほら、見たことかッ!


 鐘山軍一万八千の先鋒、新組勇蔵は自らの鬱屈した数々の感情を、疾駆によって振り払い、剛胆さによって振り切り、嘲笑を大にして吹き飛ばした。


「なんのことはないッ! 奴らの陣構えなど、環の器量など所詮幻影に過ぎん! 見よ、その証拠に奴らは狼狽し、裏崩れしているではないかッ、実氏も動かん!」


 下山し、後退をしている備えは、何を偽ることができよう、鐘山家嫡流にのみ許された旗印。その人数の最後列に、伸ばし放題にした黒髪と、その背に打ちかけた朱の陣羽織のたなびく様子が見て取れる。


「ははっ、見ろ! 奴め、お好みの帽子を忘れるほどに狼狽しているではないか。それに、あれっ!」


 陣立ては、煩雑。

 本来ならば殿に大将など置くまい。騎馬武者に保護されることなく、弓鉄砲がいるのはともかく、後陣に長柄の足軽など障りになって、まず配置などしない。


 進む方角には緑岳より派生するなだらかな丘。

 慌てふためく彼らでは、高所にのぼるのに速度を落とさねばならないのだろう。

 やがてその足並みは、みるみる内に停止していった。


「好機到来! 一気に距離を詰めるぞ!」


 天を揺さぶるほどの彼の号令に各奉行、組頭が応じ、使い武者が馳せ巡る。

「なんたる無様な敵陣よ! これではまるで!」


 あらかじめ、先陣と後陣とを、入れ替えた、ような……?


 葦毛の馬に乗った敵将が、その朱羽織を翻す。

 彼が手にした朱槍に促されるように、槍が立てられ、兵はその身を後ろから前へ方向を転じる。

 それ以上の動作は、必要なかった。

 前衛と後衛を入れ替える動作などは。

 最初から、そのための陣立てであったのだから。


 すぐに弓は引き絞られて、既に鉄砲には火縄がついていて。

 真っ先に逃げていたはずの旗持ちが、丸めるように抱えていた軍旗を、高々と掲げる。環の本陣になびいていた波の旗ではなく、銀蜂の紋所。


「は、はぐろ……け……?」


 ……算を乱して逃げていたはずの敵備えは、正しく高所にてこちらを迎え撃つ構えを整えていた。


 先頭にてそれを指揮するのは、鐘山環ではない。

 緑の鉢金を額に巻いた、勇壮な若武者。


「指矢がかり!」


 その彼の一喝の下で、鉄砲が火を吹いた。

 矢が一方的に飛び、足並みが乱れたままの鐘山方の前衛を、瞬く間に制圧していく。

 こちらが崩れるよりも先に、敵将が足軽を率いて坂落としを仕掛けてくる。


「今だ! 突入っ」


 間に合わぬ。潰される。

 鉄の衝突する音が、ぞわりと肌を粟立たせた。

 桜尾家中、器所家と一、二を争う武力集団の名ぐらい、遠く領地を隔てた新組の耳にも入っている。

 まずその風聞が、彼の戦意と覇気をたちまち叩き折ってしまった。


 ――は、羽黒家が奴らについただと!? あの朱槍、羽黒圭馬か! とすれば、かの羽黒圭輔が、すぐに、いやもうこの戦場に到着しているのか!? もしや、我らの背後に回り込んだのではないか!? いや別働隊として我らの領地が切り取られて……


 我を見失った新組に、潰走する味方を押しとどめる術はない。

 何度呼びかけられ、指示を求められようとも、血しぶきあげて味方が切り取られようとも、棒立ちに目の前の惨劇を眺めているほかなかった。


「貴殿は、武人にあらず」

 若い男の声と共に繰り出された槍が、雑念まみれの彼の脳髄を眉間より射貫いた。

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