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樹治名将言行録 ~鐘山環伝~  作者: 瀬戸内弁慶
最終章:順問 ~干原の戦い~
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第四話「すべては、過ぎたこと」(2)

 順門府公、鐘山宗善自らが率いる、昼夜問わぬ急行軍は、あと一日という距離のところで風聞によって御槍城陥落の報に触れることになった。


 急ぎ救援に向かわなければならなかった軍は、その目的が達せられずに一時消沈した。

急ぎ奪還せねばならないことには違いなかったが、一度折れた士気のままに進めば、かえってその足をとられる。

 そう判断した宗善は、大渡瀬跡の東、佐藤口なる山あいにてで野営を行うことになった。


「やれやれ、手遅れになるところでございましたな。幡豆殿の諜報網により、舞鶴の動きを察知できたのが功を奏した」


 営所を築き、一席を設け、そこにて第一声を放ったのは、三戸野五郎光角であった。

 無言で頭を下げる幡豆由有の手前、己の凝り固まった肩や腰を叩いてほぐしながら安堵の息をつく。


 病を得て銀夜との同行がかなわなかった彼は、国の一大事に、病の癒えたばかりの老体を引きずるようにして参陣したのである。

 彼と共に留守を守っていた子弟に、千の手勢。

 この老将に加え、幡豆由有の兵が千。

 鐘山宗流に直接手を下した男の長男から四男は、国元にあって盤龍宮四家を差配し、後方を固める。

 そして宗善、旗本馬廻り衆ならびに近隣の豪族より駆り出した合計三千名を率い、中軍を成していた。


 その宗善は上座にて、憮然としたまま、組んだ両腕を解かなかった。

「……何が、手遅れにならずにか。居城をとられ、しかも退却もせぬ。前代未聞の醜態である」

 眠るように閉じられた、彼の両目。その間にあるシワを数えるように、ジロジロと三戸野は見返している。

 田夫や、あるいはネズミのような野卑で粗野な外見によらず、深い思慮と経験を持つ老将は、主君の次の言葉とその激しさを予測し、覚悟してそれを待っているようであった。


「銀夜の方にも、報せは届いているはずであろう。後退や撤退を指示した気配は?」

「いえ。むしろ、いよいよ総攻撃の準備を整えつつあるとか」

 その老人の言いかけたことを代弁したのは、幡豆由有であった。

 言を先取りされて唇をすぼませる老人相手に、目礼し、そこから続く言葉を無言で促した。


「まぁまぁ。舞鶴の手勢自体は少数。環陣営の実数が増えるわけでもなし、率いていられるのはせいぜい二十名足らずかと。五千で攻めれば一日と要さず落とせましょう。銀夜様にしても、正面からの退却はかえって剣呑。半数は犠牲となりましょう。ここは敵に大打撃を与え、しかる後に軍を全うして退却するおつもりかと」

「……兵を要所に一人も差し向けぬのと、半数でも送り込むのとでは、どちらが正しい? そんな簡単なことさえ分からぬのか、あの娘はっ。何故あれの尻ぬぐいを、余がしなければならぬのかっ!?」


 さしもの順門府公も、苛立ちを隠しきれない様子で手の甲を長机に叩きつける。

 割れんばかりのその衝撃音と大音声に、由有は顔をしかめながら主将の判断を仰ぐ。


「……すぐに早馬を飛ばし、呼び戻せ」

「残念ながら、先日より舞鶴ゆかりの門徒が挙兵。各所の連絡網を寸断しておりますわ」

 と、陸での連絡法は三戸野によって否定され、


「ならば、海だっ! 海路よりつなぎをつけろ!」

「赤池家遺児の仲束が緑岳、干原付近の岸に逆茂木と船団を配置。進入は困難ではありませんが、時間を要します」

 順門府の水運を知り尽くす由有自身は、淡々と事実を伝え、諦めさせた。


 宗善は一瞬、髪の生え際から角張った頬に至るまで、顔面を赤一色にした。

 いかんともしがたい現状に対する憤怒、それが彼の腰を浮き上がらせたが、即座に冷静さ取り戻し、座に居直る。


「恩知らずどもがっ、だから宗円などという愚物は誤っておったのだ。寺社仏閣に元朝廷よりの投降者に愚民ども……奴らを必要以上に優遇しておきながら、こうして肝心な時に、余を、鐘山家を、主君を裏切ったではないかっ! 汝もそうだっ! 由有」


 宗善に指を突きつけられた瞬間、苦い思いが由有の胸中よりわき上がってきた。


「……何か……?」

「忘れたとは言わせぬ。宗流を討つ前、奴が環を殺そうとするのを止めさえしなければ、今頃はもっと上手く事は運んでいたはずよ。今もそうだ。何故汝の娘は環の近くにありながら、奴を討とうとしないのか? 地田を見習わぬのか」

「あれは、わたしの言葉になど耳を貸しますまい。己の行く先をその目で見定められる娘です」

「くだらぬ。万民の行く末は天子様お一人が決められるのだ。王朝のために何と敵するべきか。そんなことは分かりきっているはずだっ」

「民は何も考えず、そのために命を投げ出せと?」


 元より、それほど気心が知れた仲ではなかった。宗流ならいざ知らず、ほぼ他人とも言うべき宗善の言動は、盤龍宮の支配者の心に、わずかに波を立たせた。

 敬愛と忠誠に値した旧主を罵られ、思い出したくもないおのれの過去を蒸し返され、娘の意志と生命さえも犠牲にせよと言う。民は思考と思想を棄て、朝廷のために死力を尽くせばそれで良いと、公然と言い放った。


 ――この男が、順門府公でなかったら、わたしが選んでしまった主君でなかったら、一発殴っているところだったな。


「……だがすべては、過ぎたことだ……」


 彼らの問答を断ち切るような由有の呟きは、宗善に怪訝な表情をさせた。

 三戸野から野卑な笑みを取り払って歴戦の猛者の貌へと転じさせ、諸将を動揺させた。


 由有は直後、おもむろに立ち上がった。

 山を駆け上る馬蹄の音に気がついたからであった。

 それが西からの伝令で、彼が何を報せに来たのか、前もって知っていて、覚悟を決めたからであった。




「は……幡豆家嫡男由覧(ゆうらん)以下、五百名が国元にて挙兵っ! 盤龍宮を占拠した後、板方へと向かっております!」



 この時、目を閉じた由有を除くすべての諸将は、みな表情を凍り付かせた。

 我に返った時、彼らが案じたのは自らの所領であっただろうか? 国の帰趨であっただろうか? 前線の銀夜であったろうか? 目の前にいる宗善の危機であっただろうか?


「由有」

 今まで聞いたことのないような声が、上座から飛んでくる。

 かつて上社信守に大敗した時でも、この男は今ほどに狼狽してはいなかったはずだ。

 死を覚悟している由有もまた、今さら怖じてはいなかった。


「……娘御をどうこう言えませぬな、殿」


 静かにそれだけを言った由有は、一斉に周囲の敵視を浴びた。

「由有を、捕らえよ」

 そう言われるよりも前に、三戸野一族が動いた。

 元より抵抗する気もない由有は甘んじて拘束され、自ら進んでその身を投げ出した。


「何故だ」

 訳を問う虚しい声音が、幡豆由有に過去を、鐘山宗流を殺めた直後のことを回顧させた。


~~~


 自らの手を鮮血で染めた。

 百数十万石の大国の主にして、天下随一猛将として知られる男の血は、雑兵のそれと何ら変わらない。

 死は理不尽なもので、貧富貴賤を問わず、誰の身にも降りかかること。それを他人事のように思い出させくれた。


 ――すべてが終わった。己の事業も、この方と過ごした青春の日々も。


 それを伝えようと、来た道を顧みる。傍に控えて監視しているであろう第三の刺客、地田豊房を呼ぼうとした。


 刹那、


「なぜだ」


 殺したはずの男から、咎めるような掠れ声が漏れ聞こえた時、由有の全身を痺れのようなものが襲った。

 足が止まる。


 ――まだ、生きておられた……

 確実にもろもろの臓腑を貫通したというのに、常人ならば死に至る血量が、抜け出たというのに。

 なんという、剛体か。


「……」

 由有は呼吸を整える。

 若い頃ならいざ知らず。戦を重ね、政に奔走し、あらゆる道を修めた今は、精神を律し、無心の境地に達する術を知っている。


「何故、と問われますか宗流公。こうでもしなければ、貴方は止まらなかったでしょうに」


 自己弁護ではなく、正論で以て答える。

 だが、宗流はそれに見事な体躯を血の海に沈めたまま、

「何故」

 と再び問う。


「……わたしが裏切ったことは、それほどまでに意外だったというなら、それこそ貴方が殺される所以ですよ。わたしだけではない。その悪政が、どれほどの怨嗟を買っていると思っておられる? 若の言われる通り、宗円公が大切になさっていたことを、貴方は踏みにじった」


 鐘山宗流は、それでもなお、

「何故」

 と尋ねた。

「何故裏切ったか」

 という問いではなかった。




「何故、それならそうと、言ってくれなかった? 止めて、くれなかったのだ……? 幡豆由有」



 かち、かちかち、と異質な音。

 自らの奥歯が打ち鳴らされる音であった。


「お前で、あれば、おれはそれに従ったであろう。お前の言ならば……諌言ならば、改めることができただろう。だのに……お前は言うてはくれなんだではないか、幡豆……」


 宗流の首だけが、力なく忠臣の方へと傾けられる。

 力と光を失っていくその両目と視線が合った瞬間、由有の膝は崩れ落ちた。


 自分が今、なすべき事をなす前に諦めて、見切りをつけて、やり直せる段階で、取り返しのつかないことをしてしまった。それを、知ったために。


 国内に動乱を招いた巨魁、鐘山宗流は、それ以上の言を発さなかった。

 ただ死の間際、すべての終わりを悟ったか、彼の双眸は往年のおおらかさを取り戻して、由有をじっと見守っていた。


「由有様」

 ふ、と背後で気配が浮かび上がる。

 身体を持ち上げ、いつの間にか接近していた地田豊房へと振り返ると、かえって彼の方が面食らったようだった。


「……弥七郎がし損じ、由有様にはお手数をおかけしてしまいました」

「いや、わたしの方こそ、このお方の力量を見誤っていた。要らぬ人死にを出してしまったな」

「貴方様が逃げ帰れば、事情を知らぬ者にかえって不審がられます。ここは一端、弥七郎の乱心ということで口裏を合わせましょう。その後、治安維持を名目として宗善様にご入城いただくということで。由有様はその場で待機を」

「……あぁ」


 では、と一礼して立ち去ろうとする青年を、由有はその名を口にして呼び止めた。


「豊房、君は……なにか聞いたか?」

 豊房は口と瞳とを、半分ほど開いた。

 やがて首を振って、


「いえ。私は何も聞きませんでした」

 よどみなく、そう答えた。


 その彼が改めて立ち去った後、謀反人の一人は、改めて自らが死に追いやった男の骸へと視線を投げた。


「貴方こそ……何故もっと早く言って下さらなかったのですか、殿」


 青く変色するほどに唇を噛みしめ、辛うじて由有は言葉を紡いだ。


 ――すべて、過ぎたことであった。手遅れであったのだ。幡豆由有。


~~~


「ふ、ははは……」

 そのことを思い出し、自然、かわいた笑いが喉の奥から漏れ出でる。

 別段、鐘山宗善の浅慮を嘲笑う意図があったわけではなかったが、相手はそうは捉えなかったらしい。鬼瓦の如きしかめっ面の中の、唇だけが動いた。


「何が可笑しい? 我らは同志だったはずだ。悪漢をその手で討ち滅ぼした男が、今になって何を血迷った?」

「左様。たしかにわたしは良かれと思い、宗流公の命をお縮めした。だが貴方に敬服したわけではない。まして、貴方がた親子の振るまいを見れば、到底鐘山家の役割を果たしているとは、思えない」


 三戸野の老人からの圧迫が、厳しいものとなる。だが上からの力に屈するものかと、捕らえられたままの由有は背を反らした。


「鐘山家は、順門の民の代弁者でなければならない! 宗円公は、そのことを知っておられた。故に、民を慈しみ、彼らが理不尽に虐げられた時には、起ち上がったお方だった」

「……そういう父上の甘ったるさが、結局愚民どもをつけあがらせ、無用に戦乱を深めたのだ。国は荒れた、美しき自然は焼かれた。貴様はそれを是とするか」


 苦み走った順門府公の面を直視する。決して視線を外さず、対面したままに大音声を放つ。


「それでも宗善殿のなさりようは、治世は、民から自然を美しいと思えるゆとりも、国を愛する想いも、それらを守ろうとする誇りさえも、なべて殺すものだ」

「くだらんっ! 清き水に住めぬ悪魚どもなど、その愚考もろとも残らず死に絶えれば良い!」

「いかに清水とは言え、己だけの桶に封じ込めて流れを止めれば、腐るだけだ。だがいつかは濁水は桶から漏れる。鬱屈や怨嗟という名の汚染を広げていく。わたしは鐘山の家臣として、それを容認するわけにはいかない! まして民は、貴方にではなく鐘山環に光明を見出している。ならば幡豆家はそれに従うだけだ!」


 場は、寸時激化したかと思えば、次の瞬間には静けさを取り戻していた。

 二人の論に、諸将は呑まれた結果とも言って良かった。


「言いたいことは、それだけか」

「えぇ。論議はこれまでで、我らが折り合えぬことなど事のはじまりから分かっていた。……どのみち、貴方には退却するほか道はない。銀夜姫の二の舞となりたくなければ」

「……監禁しておけ」

 幡豆由有はその場での処断をまぬがれた。


 無論、彼は行き当たりばったりに幡豆党の決起を指示しておいたわけではなかった。

 最初から裏切る腹であったのに、あえて舞鶴の動きを報せたのは、本拠を空とするため。

 参陣したのは、宗善の警戒心を解くためであり、容易に殺されない自信があったからだ。

 人質としての価値があり、彼が率いて生きた幡豆家の手勢と事を構える時など、今の鐘山宗流にはないのだから。

 

 だが、

「ご温情、ありがたく存じます」

 ぬけぬけとそう言った由有が、諸将の怒りの火に油を注いだことは否めない。

 だが、これは彼の、本心よりの感謝の言葉であった。


 ――まだ、死ねない……この身は、あのお方に処されるまでに、残しておかなければ……


 鐘山環。

 自分が見損なっていた器量が、時を経て、大器となって戻ってくる。

 それを見届け、かつ父親の仇を討たせてやるために。

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