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樹治名将言行録 ~鐘山環伝~  作者: 瀬戸内弁慶
最終章:順問 ~干原の戦い~
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第一話「鼠の末路」(1)

 桃李府国境の一歩手前。

 晴れた時にはその関所さえ視認することのできるという位置に、禁軍の五、六軍は進みつつあった。


 総勢五千。

 かつて始祖である布武帝が自ら執筆した『陣中式目』にて禁軍の兵数は、一軍を五千と定められていた。

 今や、その半数さえ揃えておくのが困難であった。

 それでも東西に軍勢を振り分けた桜尾家にとっては、五千とて十分な脅威になるはずだった。


 その半数が、突如として進軍を停止した。

 残る半数を率いる二名が、転じてその理由を問いに来た。

 老人が来たのはまさに、その時であった。


「地田朝心斎と申す。かつては綱房と名乗り、貴殿と同じ第六軍を主上よりお預かりしていた」

「それは、どうも」


 それ以上の言葉が見当たらず、上社一守は曖昧に頭を下げた。


「別に恨んではおらぬ。それよりも貴殿の忠勤ぶりは遠き順門府にも伝わってくるほどじゃ。貴殿のような士が未だ朝廷におること、嬉しく思う」


 と、手放しに褒められては、一守とて悪い気はしない。

 親愛と軽侮を込めて「姫若子」と称される一守は、今年で二十五になる男子だが、なるほどその容姿は、深窓の清楚な姫君のようだった。

 肌の色は真珠のように淡く陽光を照り返す。切れ長の涼やかな目と朱を引いたような唇は、いわゆる「その気」のない男でもたちまちに魅了するという。

 黒髪をゆるやかに後ろに束ねた後ろ姿は、後宮の寵姫たちよりも美麗だと沙汰されるほどであった。

 ちょうど、彼の亡母を三割増しに美しくし、肌から色を抜けば彼になる。父信守の要素はどこにも見当たらない。


 そうした容姿は好感を持たれつつも、それと同量の嫉妬や侮蔑を買っていた。

 だが、目の前の老人の視線からは、そうしたわずらわしい感触はなかった。

 等身大の自身を見てくれているという実感があった。


 ――朝廷を裏切った密告者と聞いていたが、けっこう良い人だな。


 地田綱房。

 『順門崩れ』と呼ばれる戦いの際に、彼は若き日の上社信守と反目した。

 そしてついに敵の宗善陣中に奔った。信守を討つように進言し、自ら手引きを行った。

 ところがそうした思惑は信守の掌中であり、逆用されて火攻にあった。あわや、宗善もろとも焼死するところであったという。


 そうせざるを得なかったほどに追い込まれたといういきさつは、彼も知っていた。と言うより信守自身がそう高言してはばからない。


 息子はともかく、その当人を前にしては、虚心ではいられないのだろう。

 一守の隣に位置する父信守を、かつての地田綱房は冷ややかに見つめていた。


「鐘山銀夜は、今正面に実氏めの率いる大軍を抱えておる。苦境にあると言って良い」

「そうでしたか。では、行軍を早め、敵の背後をとりましょう。……よろしいですね、父上」


 信守は我が子の答えに、信守はそっぽを向いたままだった顔をようやくかつての同僚へと向けた。


「で」と頬杖をついて、他国の賓客相手とも思えぬ不遜な態度で改めて接した。


「桃李府を攻め、実氏に揺さぶりをかけるとする。羽黒圭輔が転身して向かって来たとして勝てる見込みと自信はある。が、そうまでして銀夜のお嬢様を救うことに我らになんの得がある?」


 それは、朝命で動いている男の発言ではなかったが、地田朝心斎には動じた様子はない。

 すっと目をすがめて、

「助ける必要などない。貴殿は宗善や銀夜が敵の主力を引きつけている間に、桃李府を存分に切り取ればよかろう」

 と、答えた。

「それで、奴らが今まで溜め込んでいた負債を帳消しにできるほどの利が生まれるであろう。上社家にとっても、これ以ない武勲であるはずだ。こうした雑役からも解放され、栄達もかなおう」

「それは」


 一守は苦笑した。

 朝臣として、また一個の雄としては、首肯したいところだ。が、何事にも建前というものがある。

 順門府を見捨て、朝廷の利益を優先しろ、と示唆するような提案を、鵜呑みにするわけにはいかなかった。


「かつての貴様ならば、唾棄するであろう提案だな、綱房」


 父信守は、そこでようやくかつての仲間に関心を抱いたようだった。

 対する朝心斎は、フッとわずかに口だけを歪ませ、答えた。


「いかにも。わしは変わった。もはや貴殿に良いように利用されていたわしではない。わしは、闇となったのだ」

「闇?」

「左様。かつてのわしが自らが潔白であろうとするあまり、結果として朝廷や貴殿の父御を苦境に追い込む羽目になってしまった」


 一守の祖父、信守の父である上社鹿信。

 王朝の成立からその成り行きを見守ってきた初代禁軍第五軍の老将は、『順門崩れ』により戦死している。

 その原因を作ったのが、この地田綱房だった。少なくとも信守はそう考えていた。

 過去を本気で悔いているように、老人はそらした横顔をしかめ、痛ましげに瞑目する。


「だが今は違う。朝廷のために、おのれが朝臣としてなすべきことのため、賊軍の客に甘んじている。自らの手が汚れようとも、闇にこの身が堕ちようとも、それが朝廷のためとなるならば、それを喜びとしよう」

「なるほど、そのためなら順門府の帰趨など関係ないか」

「朝廷のための礎となるのであれば、あの親子は例え滅びても本望だろう」


 やや大仰な身振り手振りで、自らの信念を語る朝心斎。一守が驚愕したのは、彼自身でなく、


 ――この男が他人と会話するとはな。


 という一事に対してだった。

 常日頃何かを尋ねたり対話を求めても、この信守は鼻で笑うか皮肉や嫌味を飛ばすかのどちらかで、まともな話し合いにもならない。


 息子である一守に対してさえそれなのだから、いわんや他人は、といったところだ。


 流行病によって妻に先立たれ、友誼を結んだ水樹陶次が上社家を出て行ってから、ますますその狷介さは強まったような気がする。

 その父が自分の意見をぶつけて、他人の言葉を求めるというのは、常ならぬ珍事だ。


 だが、妙なざわつきが一守の胸中にはあった。


 父が父らしからぬ言動をしている。この男にとっては親の仇に等しい相手に対して。

 ゆえに、違和感があるのは当然だ。

 だがその奥底で、上社信守はまた、いかにも彼らしい良からぬことを思案しているように思った。

 それでも表面上は、和やかな、それこそ長年の因縁を断ち切るが如く、お互いに和解しようという気配さえ見受けられた。


 ……内容こそ物騒なものだったが。


 とまれ、胸騒ぎを理由に部外者である一守が口を差し挟むわけにもいかない。

 不自然なまでに引きつる笑みを表に、ことの成り行きを見守るほかない。


「それで、貴殿は今後どうされるおつもりかな、朝心斎殿」


 信守はその口調に一応の礼儀を上乗せした。

 朝心斎は首を振り、「どうもしない」と答えた。


「復職や名誉など今更求めぬよ。わしは朝廷と先帝ならびに主上の御恩に報いるため、今後も闇の者として生きていく」

「立派だな」


 感心した風な顔で拳を横顔に当て、信守は何度も頷いた。


 だが一守は気がついた。

 微笑む父の口端に、いつもの悪性の信守が住まっている。

「父上っ、あの、そろそろ進発を……っ」

 なりふり構わず制止の声をかける子の横で、信守は、その父はその笑みの種を変じさせた。



「お話はそれで終わりかな? 鐘山家臣、地田朝心斎殿」



 鐘山家臣。

 その一言は、その四字は、その呼び名は、元禁軍第六の将、地田綱房を貶めるに十分な威力を持っていた。

 彼の苦痛に満ちた半生を嗤い、今まで語っていた矜持を踏みにじり、存在意義を全否定するものであった。


 場が凍りついた。

 居並ぶ幕僚の声は聞こえず、外周の兵馬のざわめきさえも、聞こえなくなったように一守は錯覚する。

 その場にて、老人の何かを押し殺すような浅い息遣いだけが大きく反響しているようだった。


「どうした? 順門府家臣、地田朝心斎。急に黙ったが、本当に話はそれだけだったのか? 鐘山宗善親子の老僕、地田朝心斎」

「き、貴様……はっ!」


 さっと顔を赤黒く染め上げた老将は、席を蹴って立ち上がった。


「どこまでわしを愚弄すれば気が済むというのだ!? わしは宗善などと主従の契りなど結んではおらぬ! わしは今でもなお朝臣なのだ!」

「笑わせるな」


 口の端は吊り上げたままに、ぞっとするよう低い声と視線を、信守は朝心斎へとぶつけた。


「貴様は誰の禄を食んで無駄に三十年も生きていた? 誰の命と後援を受けて下らん策謀にその年月を費やし、それは誰の夢を実現したと思っている? 朝廷からそんな密勅が来たか? 一度でもたよりはあったか? 幼帝は貴様の顔どころか存在さえ知らん。自分が生まれる前、そんな馬鹿な裏切り者がいたことを記憶しているだけだ」


 せせら笑いの声にて句を切った信守に、一守は耳を塞ぎたくなった。

 だが、この場からもっとも逃げたかったのは、面罵され続ける地田綱房だろう。

 喘ぎ喘ぎ、みるみる内に打ちのめされ、消耗していくのが分かった。それでも、魔性に当てられたかのごとく、老人はかつての同僚から視線を外すことができないでいた。


「貴様はな、自らの立場をわきまえず、三十年も仕えた主君を見殺しにするよう持ちかけ、そうして身内を売った功績によって媚を売ろうとしているに過ぎん」

「信……も、りィ……ッ」

「闇となっただと? 貴様はただ人の目に怯え、地下にひそみ、こそこそと這い出て身内の屍肉をついばんで肥えるドブネズミよ。……なぁ知っているか、綱房?」

「父上っ!」

 一守は老人の代わりに咎めようとした。もう言うなと、制しようとした。

 だが、信守の極めつけの一言は、それよりも早く、老臣の胸へと突き刺さった。



「そういう奴をな、売国奴と言うのよ」



 ……もはや、老人の声も鼓動も、聞こえなくなっていた。

 代わりに、ドサリと、重い音がした。


一守がハッとした時には、目の前には胸を押さえたままにうずくまる、生死不明の肉塊があった。


我聞(がもん)、お客人が御帰りだ。『元』同僚のよしみで、順門府の忠臣殿を丁重に送り返してさしあげろ」

「父上ッ……!」


 いち早く老人を助け起こしたのは、彼を追い詰めた男の倅であった。

 わずかに胸が上下しているのを、冷ややかに見下ろしながら、信守は彼ら二人の前に膝を置いた。


「聞こえているかどうかは知らぬが、最後に一つ、最新の情報を貴様にくれてやろう。……貴様の息子、死んだぞ?」

「……っ!」

「敵大将、鐘山環に斬りかかり、逆にその手にかかったそうだ。……『元』禁軍の息子の名に恥じぬ、お見事な戦いぶりだったそうだな。死後もその活躍は千里にまで轟こう。その着物の端を守り袋として、自分も武運を願いたいものだ」


 文言だけをたどれば、毒にも薬にもならない、無意味な賞賛と慰めであった。

 だがその肉声を聞いた一守は、理解していた。

 これは、毒だと。

 この男には、一片の心のよりどころさえ残してなるものかという、上社信守の凄まじい憎悪が込められていた。


~~~


 ……その後の話である。

 長い間前後不覚に陥っていた地田朝心斎が目を覚ましたのは、順門へ帰還する途上、船でのことだったという。


 彼は目を覚ますなり、童のように奇声をあげて海に身を投げ入れようとした。諸人が懸命に押しとどめたことにより、その入水は未遂に終わった。


 狂わんばかりに振りかざしたその手は、離れゆく都の方角へと向けられていたが、むなしく空を切るばかりであった。


 助けたかいなく、やがて熱病を発し、船上にてあっけなく死んだ。

 自死したとの巷説もある。


 ――いずれにせよ、綱房殿は最期に意地を貫かれたのだろう。自分は朝臣であると、死に場所は都であって、順門府ではないのだ、と。


 その訃報に触れた一守は、静かに瞑目した。

 父の非情さを憤り、そして無名無冠のままに死んだ朝臣を悼んだ。

信守卿は平常運転です。

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