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樹治名将言行録 ~鐘山環伝~  作者: 瀬戸内弁慶
最終章:順問 ~干原の戦い~
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プロローグ:忠臣立つ

 早朝、陣屋の中で目を覚ました瞬間、「今日」だとわかった。

「……っ」

 ゆっくりと意識と頭をもたげさせていき、鐘山環は覚醒した。


 枕元の帽子をかぶり直す。大きくのびをして凝り固まった筋肉をほぐし、首を左右に振る。


 陣屋を出ると、笹ヶ岳を模した緑岳砦はすでに霧の中で慌ただしく将兵が動き、口から口へと報告が飛び交っている。


 環はその中で、落ち着き払っていた。

 来るべきものが来た。戦うしかない相手が、予想の範囲内の時期に現れた。

 彼にとってはただそれだけだった。衝撃はなかった。


 そして自分のところにも一拍子遅れて使い走りがやってきた。次いで近づいてきた羽黒圭馬が、乳の色をした霧の奥、黒々とした扇状の塊を指さし、それの到来を告げた。


 味方の混乱は少ない。見晴らしは悪いが、それはじき晴れる。自陣を上回る大軍だが、事前に来ると知れていた軍勢である。


 そして気がつけば彼の友であり、仲間であり、同志とは言えないまでも正しく彼という人柄に、理解を示す者たちがいた。


 幡豆由基。

 亥改大州。

 良吉。

 色市始。

 羽黒圭馬。


 彼らと一人一人視線を交わし合い、うなずき合って、環は改めて霧の奥深くへと目を凝らした。


 まぁなんとかなってるじゃないか。大将殿。


 一層、また一層と薄くなっていく霧の中で、ふとそんな声が聞こえてきた気がした。

 朝日の中に溶けていく幻影が一つ。見覚えがある影に苦笑を漏らし、頷き一つ。


 やがて明らかになった両軍。

 一里半を隔てた先にある鐘山銀夜、そして彼女の率いるおよそ二万の軍の動揺が、環にも伝わってくるようだった。


~~~


 兵たちのざわめきをよそに、銀夜陣営の首脳部は沈黙していた。


 理由としては、予想外の増援の出現に対応する術を彼らが考えていなかったためである。

 また、彼らの大将が不機嫌さを隠さず、腕組みしながらこめかみを引きつらせていたためであった。


「我らが」

 と、開口一番の声を震わせたのは、亀山柔であった。

 何か策を思いついたか、と期待する人々は、沈みかけたおのれの頭を持ち上げた。


「義種を追撃中に、それと入れ違う形で実氏が進攻してきたのでしょう。とすれば、風祭家との戦いは勝敗定かならずともすでについた、ということかと……」


 だが、彼の口から出たのは誰もが想像のつくようなただの状況分析であり、諸将の落胆と侮蔑を買っただけだった。


 そして彼らの意思を集約させたかのように、大将である銀夜が亀山を睨み据えた。熱風を思わせる眼光を注がれ、彼女より十も年上の武将は萎縮した。


「だからっ、だから言ったではないか! 環を放置せず優先して叩くべきだと! その私の意見を無視して、貴様らはっ」


 今更そのようなことを蒸し返す姫に、群臣たちは皆、鼻白んだ。

 彼らからしてみれば、あの時の姫大将がそうした合理的な判断から環打倒を主張していたとは到底思えなかった。

 そもそもその案を結果的に取り下げたのは、彼女自身の決定だ。

 となれば今の事態の陥ったのは、彼女の責任ではないのか。


 彼らはそう考えていたが、府公の娘相手にわざわざそれを声明にする蛮勇はなかった。


「では、どうなさるおつもりで?」

「少数の環勢相手ならともかく、一万超の実氏勢が砦に籠っておるのです。生半に攻めれば手痛い反撃を受けまする」


 ただ、そうして意見する彼らの声は、針先のように鋭く攻撃的だった。

 その含むところを察したのか、結果としてますます少女の眉間の険は強くなっていく。


「だからっ! そうなる前に環を殺すべきだったっ!」

「わ、分かりました……分かりましたから」


 まるでだだっ子のように自論を繰り返す少女を、目前の敵陣より先にどうにかしなければならなかった。

 その徒労感ただよう目線を彼らの内で交わし合い、今度は悟られないようにそっとため息をつく。


とは言え、撤退論を唱えようと今冷静さを失った銀夜が容れるようにも思えず、また正面にすでに陣を構えてしまった以上、ある程度の犠牲は必要となってしまった。

 その「ある程度の犠牲」とやらに、自分が、もっと狭めて言えば自らの手勢が含まれないようにするにはどうすべきか。諸将の懸念はそこにあった。


「……確かに。このままでは埒があきませぬ。今は静観するがよろしかろう」


 ふと、席の端より声が漏れた。

 樫の枝を杖に寄りかかる、陰気そうな老人が、存在感を感じさせないままに立ち上がった。

 それは、朝心斎なる銀夜の老臣であった。

 銀夜は真紅の瞳に敬慕の色をわずかに匂わせ、いくばくかの落ち着きを取り戻した。


「では、どうする? このまま敵陣に何かが起こるのを待つか?」

「起こるのではなく、起こすのです。我が子息がすでにその陣中に入り込んでおります。いずれ、鐘山環の首級を引っさげ、内より切り崩しましょう。ちょうど先の政変における銀夜様の手腕の如く、環はその弟妹と同じ運命を辿るというわけです」


 この策に対する対する皆の反応は、半信半疑……いや半ば成功を期待し、半ば失敗を疑っていた。

 中でも直情的な新組、背側などは、突然現れたこの謎の老人に、未だ疑念の感を拭いきれてはいなかった。


「では、それさえ失敗となったらどうする?」

「それに乗じて敵が攻勢に転じたら」


 老人は彼ら両人の、内に押し隠した怯懦を笑うが如く、鼻にシワを寄せた。


「それはそれで現状の硬直の打破をする糸口となるではありませぬか。それに、わしが用意いたしたはそれのみにあらず、風祭が敗れたとて、二の矢があり申す」

「ほう? それは」

「朝廷か」


 老臣が持っていた答を、銀夜が汲んで言葉とした。

 理知の光を取り戻した彼女には、かつて方略寺にて自らの戦略を語っていた頃と同じ光輝があった。

 主将の答えに朝心斎は満足げに頷いた。


「さよう。すでに朝廷には宗善様直々に援軍の要請がなされており、色よい返事を受けております。現に、禁軍のうち二の軍がすでに勅命により空となった桃李府へ進軍を開始したこととのこと」


 おおっ、と一瞬にして喜色と安堵の雰囲気に転じる陣中。だが彼らとは対照的に、禁軍と口にした瞬間、老軍師の顔には、にわかに陰が差し込んでいた。


「どうした、朝心斎」

「……ただ一つ懸念があるとすれば、おそらくこの禁軍は予備兵力、遊軍である禁軍第五、第六軍であると思われます、他は中水府への牽制に割り当てられることでしょう」

「つまり、朝廷よりの援軍は寄せ集めの弱兵であると?」

「いえ……かつての我が手勢、第六軍を率いているのは上社一守(かずもり)。これは、近年まれにみる清廉潔白な義将、護国の忠臣と聞き及んでおります」


 この説明でようやく、居並ぶ鐘山軍の将は、それがかつての地田綱房だと知った。

 あるいは顔見知りもいたかもしれないが、元より記憶にも留まっておらず、加えてその老化と変貌ぶりに誰しも気がつかなかったのである。


「……問題はその父。禁軍第五軍を率いる上社信守」


 そしてその名が出た時の反応は、地田朝心斎の正体が明らかになった際よりも激しかった。


「宗円公、舞鶴、実氏と同じ『天下五弓』の一人ではないか!」

「巷説では、隠居してしまったとのことだったが」

「ならば将器としては問題あるまい!? 何を憂う必要があろうか?」


 自分よりも大きな声望を持つ男への嫉妬か。過去における因縁からか。

 苦虫を歯を噛み潰し、するつぶしたような激しい形相で、老人は切歯した。総白髪となった髷がほつれるほどに、首を振った。


「皆、あの男のことをまるで知らんのだ。あれは悪鬼だ……人の皮をかぶりながら人の心を持たない獣なのだ……」


 朝心斎はそう呟くと、弾かれたように頭を持ち上げた。


「銀夜様、どうか愚老を禁軍のところへお使わしくだされ。行軍を早めるよう伝え……そして今の奴の心底を確かめて参ります」

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