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後編



 それから、季節は廻って、さわやかな風が吹く初夏を迎えた。昔見つけた時には、わりと綺麗だった小屋だけど、今ではすっかり色が剥げてしまっている。でも気にならない。今度エドが直してくれるって言ったから。にやけてしまいそうになるのを、あたしはすんでのところで抑えた。危ない、危ない。あたしは、もうエドのことで振り回されちゃいけないんだ。胸の前で手を握り締めて、目蓋をぎゅっと閉じていたら、急に間近で声がした。


「なーにやってんだよ?」

「うわあ!」


 びっくりして飛び退く。慌てて見れば、そこにいたのはエドだった。


「今日は一緒に遠乗りする約束だろ?セブルスも待ちくたびれてんだけど」

「えっ!もう、そんな時間?ご、ごめんね、もう行けるよ」


 エドが一四歳を過ぎたころから、あたしは時々セブルスに乗せてもらえるようになった。もちろんエドが同伴だけど。セブルスは、エドの愛馬。あたしがエドと出会ったときに、あたしを避けてくれた優秀な子。


「セブルス!久しぶりだね。相変わらず素敵なんだから!大好きっ」


 勢いよく飛びついたけど、セブルスは揺らぎもしなかった。さすがセブルス。なんたってあたしとエドの二人を乗せて、軽やかに走ってくれるんだから。


「早く行こうよエド!」

「おまえが遅れたんだろ……、ったく。はいはい、分かりましたよ」


 エドが先にセブルスの背に乗る。それからあたしの方に手を伸ばした。あたしは何気なくその手をとろうとして、


「…」


 少しだけ躊躇ってしまった。エドが気づいて不審そうな顔をする。エドの手は、伸ばされたままだ。あたしは、その大きくて骨ばった手から視線を外した。これ以上見ていたら、その手を取ってしまいそうだった。


「何やってるんだよ?早く乗れよ」

「……うん。でも、大丈夫。もう慣れたし、一人で乗れるよ」


 これは本当だった。あたしは、慎重に手早くセブルスの背に飛び乗った。セブルスが、少しだけ振り返ってこっちを見る。どうやら、あたしがエドの手を取らなかったことを不思議に思ったらしい。頭のいい子だ。


「……お前にしては、上出来だな」


 「ひどいなあ」と怒りながらも、あたしの心は罪悪感でちくちくと痛んだ。あたしが無視したエドの手は、そのまま行き場を失って宙をさまよっていたから。あたしだって、出来ればエドの手を取りたかった。だけど、一年前から、それは永遠に不可能なこととなってしまった。手を繋ぐことは、エドにとってはきっと他愛もないことなんだろう。でも、あたしにとっては、それはやっちゃいけないことだ。そんなことしたら、このお喋りなあたしの口は勝手に、しまいこんで鍵をかけた想いを言ってしまうかもしれない。それだけは避けたかった。あたしは、決めたのだ、一年前の春に。エドへの恋を忘れようって。友達にもどろうって。あたしには、それくらいしか選択肢は残されていなかった。

 前でセブルスの手綱を握っているエドは、怒っているような気がした。あんな好意を無下にするようなことをして、怒らないはずがなかった。でもあたしには、エドと距離を置く以外、この恋を忘れる方法を思いつかなかったのだ。


「ごめんね、エド」

「なんか言ったか?」


 小さな小さな呟きだったのに、エドは振り向かずに聞き返してきた。

 そういうところが、大好き。

 でも、あたしは知ってる。エドはもうすぐあたしのもとに、あんまり来られなくなるって。だから、あたしは、少しでもその時を冷静に受け入れられるよう、心の準備をする。エドがいつかお嫁さんを連れてきたときに、笑って祝福できるように。


「なんでもないよ。それより、よそ見しないでよね」


 冬には、エドも一七になる。背はとっくにあたしを追い越してしまったし、最近は家の手伝いもしてるらしい。昔あたしを先生と慕ってくれたエドは、もうどこにもいない。寂しい気持ちは残る。だけど、それ以上に、あたしは感謝してる。エドが今まで、あたしを見捨てないでくれたことに。エドの知識は、もうあたしなんかじゃ及ばないだろうに、エドはあたしのところに来ることを止めたりしなかった。ずっと一人だったあたしにとって、それは奇跡みたいなことだった。それが何年も続いたから、きっとあたしは調子に乗ってしまったんだろう。エドが、ずっと一緒にいてくれるなんて錯覚に陥った。傷ついたのは、結局は自業自得だった。

 パカラ、パカラとセブルスが地面をける音が心地よく響いて、まるで子守唄のようだった。あたしは、とろとろと微睡みはじめる。

 一年前のあのとき、エドを好きになったことを、涙が乾いて出なくなるほど後悔した。苦しくて、胸が張り裂けそうだった。何度も泣いて言い聞かせて、ようやく最近笑えるようになってきたのだ。相変わらず、胸の痛みはやまなくて、大きくなる一方だけど、それでもあたしは前に進める。エドがいなくたって。エドのそばにいるのが、あたしじゃなくたって大丈夫。そう言い聞かせられるくらいには、なった。

皮肉だけど、あたしが前を向けるのは、やっぱりエドのおかげだ。エドが、変わらない優しさを、あたしに注いでくれたからだ。不器用な優しさは、いつだってあたしに勇気をくれた。


「ソフィー?寝たのか?」


 エドの声が、頭の中に響いてくる。あたしだけに向けられたエドの声。たぶんもうすぐ聞けなくなっちゃう。だから、


「ったく、呑気なヤツ。落ちても知らないからな」


 そう言って、そっと速度を緩めてくれるエドを、どうかもう少しだけ奪わないでほしい。気づかれない程度にもたれかかったエドの背中は、大きくてあったかかった。


 このまま、時が止まってしまえばいいのに。





「あー、気持ちよかった。やっぱりセブルスは最高だよね」

「おいおい。俺の手綱さばきがあったこそだろ。なんとか言ってくれよ、セブルス」


 セブルスは、首を傾げた後、あたしのところに寄ってきた。ほんとにいい子だ。それを見たエドは、悔しそうな顔をしている。おかしいの。


「セブルスはあたしの味方だもんねー」

「くそう、セブルスの裏切り者め。日頃の恩はどうしたんだよ」


 セブルスはエドをちらりと見た後、あたしの顔をぺろりと舐めた。


「きゃあ!くすぐったいよ、セブルス」


 けらけら笑うと、エドがすごく不機嫌になったのが分かった。


「お前、今日夕飯抜きだぞ」

「エドったら、心の狭い男だねー」

「ヒヒーン」

「あはは」


 こんなに楽しい時間を、もうすぐ手放さなきゃいけないなんて、やっぱり神様はひどいと思う。でも、だからって負けたりしない。残された時間を楽しい思い出で埋め尽くすんだ。

 エドはいまだに、婚約話を言い出さない。言いにくいのだろう。だけど、あたしからしたら、さっさと止めを刺してほしい気もした。その時を迎えたら、嫌ってほど傷つくと分かりきっているのだから、ずるずると引き伸ばされるのは正直きつい。なのに、永遠に言わないでいてほしいなんて、願っているあたしがいるのも否定できなくて、あたしは自分の覚悟の弱さが嫌になった。


「日が暮れてきちゃったね。もう帰りなよ」


 エドは、自分から「帰る」と言いだすことはない。いつもあたしが時期を見計らってさりげなく言うのだ。そうでもしないと、エドは帰りそうにない気がする。


「ほんとだな。じゃあ、また明日だ」


 そう言って笑うエドに、ちくりと心が痛む。「また明日」はいつまで聞けるんだろう、と考えてしまう。ふとした瞬間にエドの婚約者っていう女の子に嫉妬してる。最近のあたしは、すごく嫌な子だ。


「ばいばい」


 大きく手を振ったら、遠くで小さくなったエドが手を振りかえしてくれた。夕日をバックにして笑うエドは、すごくキラキラしてる。


「ばいばい」


 あたしは、もう一度小さくつぶやいた。毎日呪文のように唱えれば、いつかエドから離れられると信じて。





 小屋に入ったあたしは、扉に簡易な鍵をかけた。もともと獣がほとんどいない森だし、エド以外にここに来る人もいないから、木の棒を差し込むだけである。なんとなく気分が沈んでいたあたしは、食事をとることなく寝床に直行した。エドが領主の息子だと知った一年前から、あたしの生活は少し不健康だ。一日中食事がのどを通りそうにない日もあるけれど、そんなことをしたら、エドがすぐさま気が付いて問い詰めてくるに決まっている。観察眼はやたら鋭くて、困ってしまう。

 夜特有の静けさが、暗闇とともに降りてくる。ときどき梟の声が聞こえるのは、今ではもう慣れっこだ。ささめくような虫たちの声に、あたしは睡魔が襲ってくるのを感じた。


「――――って、―――のか」

 …………?


 声が、聞こえた気がする。気のせい?耳を澄ませば、かすかだけれど人の声らしきものが聞こえた。こんな夜更けに、いったい何の用だろう。あたしがそのまま耳をそばだてていると、足音がこっちに向かってくる気配がした。あたしは一気に混乱してしまった。どうしよう。まさか、この小屋には来ないだろう。そこでハタと思い至った。


 もしかして、エド?


 なんでこんな時間にやって来るのかは分からないけど、エドだとしたら、小屋に向かってるのも納得できた。あたしは、だんだんと近づいてくる声の主を、疑いもせずエドだと思い込んだ。

 とりあえず、扉の鍵を開けないといけない。そう思って出口へと近づいたあたしは、次の瞬間凍りついた。


「噂じゃ――――らしい。魔女が―――度胸試しだ」


 この声、エドじゃない。しかも、一人じゃなくて、二人……三人?


「あ……」


 がくがくとあたしの体が震えだす。どうか通り過ぎてくれれば、と願うけれど、足音は刻一刻と近づいてくる。逃げなければ。こんな時間に森にいるなんて、安全だとは言い切れない。でも、足は棒のように動いてくれない。何年もの間、エド以外とはまともに話もしたことがないあたしは、自分の喉がからからに乾いていくのを感じた。もうすぐそこにいる。草を踏む音まで聞こえてくる。あたしは、力を振り絞って一歩踏み出した。だけど。

 バタン。

 けたたましい音とともに、扉が勢いよく開いた。かけてあったはずの鍵は、圧倒的な力の前にあっけなく吹き飛んでいた。月光が扉から差し込んできて、侵入者たちの巨体が黒く塗りつぶされる。震えることしかできなくなったあたしの耳に、野太い下卑た声が響いた。


「ふーん。噂は本当だったってわけか。しっかし、こいつはどう見たって魔女には見えねえけどな」

「まあ確かに。噂じゃ、気味の悪い魔女が住んでる、って言ってたけどなあ」

「ただの娘じゃねえか。ちっ、つまんねえ。話のネタにも、なりやしねえな。無駄足踏んだぜ」


 ざらざらと耳障りな声に、あたしは体を抱えるように抱きしめた。恐怖に身が震える中、屈強な体を持つ男たちが、このまま帰ってくれますようにと、望み薄な願い事をした。そんなあたしの希望を打ち砕くように、一番手前にいた男が口の端を持ち上げた。


「まあ、無駄足ではないだろうよ。顔に変な布を巻いちゃあいるが、見られねえわけじゃねえ。ちょっくら遊んでいくとしようぜ」


 あたしの頭が警鐘を鳴らした。このままここにいたら危険だと、本能が告げている。だけど、扉は一つしかなくて、それを塞がれてしまっている今、あたしになす術はなかった。男の丸太のような腕が、突然伸びてくる。反射的に身を引く様子を楽しむように笑った後、男はあたしの腕をつかんだ。エドの優しい手とは全然違って、気持ちが悪い。振りほどこうとするけど、太い腕はびくともしない。あたしはそのまま床に押し倒された。肺から空気が吐き出されて、あたしは何度も咳き込んだ。男たちは、笑ったままだ。心の中で、助けてと叫んだ。だけど、誰も現れるわけがない。あたしの服に男たちの手が伸びてくる。声を出そうと思うのに、恐怖でがちがちと歯が鳴るばかりだ。男の指先が服越しに触れた。視界が真っ白に染まってゆき、絶望に押しつぶされそうになったあたしは、ただひたすらに一人の名前を呼んだ。


「助けて……、エド」


 悔しくて、怖くて、涙が一筋頬を伝うのを感じる。月が、あたしを嘲笑うかのように輝いている。

真っ黒になっていく頭の片隅で、馬の嘶きが聞こえた。



「っぐ!」

 ものすごい音とともに、のしかかっていた重みから解放され、あたしは思いっきり息を吸った。いきなり肺いっぱいに満ちた酸素に、あたしは胸を押さえた。苦しい。何とか起き上がって、音がした方を見ると、あたしを押し倒していた男が小屋の壁にぶち当たって呻いていた。何が起こったんだろうと、回らない頭で考えていると、すぐ近くで鈍い音がした。


「ぎゃあ!」


 情けない悲鳴を上げて、二人目が吹っ飛んだ。打ち所が悪かったのか、そのまま伸びてしまう。あたしはさらに訳が分からなくなった。ふらふらする体を必死に支えて立ち上がろうとしたあたしは、だけど力が入らなくて倒れそうになる。迫ってくる床を見ていたあたしは、寸前であたたかいものに抱きとめられた。視界には、栗色の立派な鬣が揺れている。


「セブルス……?」


 ヒヒーン、と頷くようにセブルスは鳴いた。どうしてセブルスがいるんだろう。抜け出してきたのだろうか。でも、セブルスは、エドを置いてきたりなんてしないはずだ。

 あたしはゆっくりと目を見開いた、次の瞬間、三人目の男の叫び声が小屋の外で聞こえた。セブルスに支えられて、なんとか外に出ると、月明かりの下で伸びている男の姿が見えた。その隣で、肩で息をしながら立っている人影が見える。光を浴びてきらきらと輝くその髪は、きれいな金茶色だ。


「あ……」


 人影がこちらを向いて駆け寄ってくる。さっきの今だというのに、あたしは全く恐怖を感じなかった。転びそうになりながら、その大きくて優しい胸に飛び込む。


「エド!」


 そこになってようやく、あたしは声を上げて泣き叫んだ。エドが、助けに来てくれたんだ。そう思ったら止まらなくなって、あたしはひたすらにエドの名前を呼んだ。エドも繰り返しあたしの名前を呼んだ。あたしの存在を確かめるように、きつく抱きしめられた。


「こわ、かっ、たよ……っ!」

「ごめんっ。もっと早く来てやれなくて、ごめん」


 何度も謝るエドの肩は震えていて、あたしは何か言おうとしたけど、しゃくりあげてばかりで何も言えなかった。怖かった、来てくれてうれしい、ありがとう。大好き。


「もう大丈夫。俺が、守るよ」


 ああ、その一言であたしの震えは止まってしまう。少しだけ力を強めれば、抱きしめ返してくれるこの腕が、好きだ。涙があふれて止まらなくて、それ以上にエドが好きだという想いが湧き出してきた。もう、一生離れたくない。だけど、それを言わないだけの理性は残っていたから、あたしはただ泣いた。子供みたいに泣き喚いた。エドは、呆れたりしないと、分かっていたから。


「ソフィー」


 エドのはしばみ色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめている。いつもは恥ずかしくて目をそらしてしまうけど、今日だけはしっかりと見つめ返した。エドは、あたしを抱きしめたまま言った。


「うちに来いよ」

「………………え?」

「俺の家に来て、一緒に暮らそう」


 あたしは目を大きく見開いた。


「…………何の冗談?」

「冗談じゃない」


 エドがいらだったようにみえた。何を言っているか、分かっているのだろうか。あたしは状況に似あわず、笑ってしまった。


「そんなの無理だよ。迷惑かけちゃう」

「迷惑なんかじゃない」


 エドの瞳は揺らがなかった。だから、あたしには分かってしまった。エドは本気だ。あたしが今まで必死に守ってきたものが、音を立てて崩れてゆく気がした。


「だめ、だよ。エドはよくても、エドの家族に迷惑が」

「そんなことない。家族は理解してくれる」


 せっかく止まりかけていた涙が、また零れそう。


「だめ、とにかくダメなの!あたしなんかが……」


 必死にエドに訴えるけど、エドは少し眉をひそめただけだった。


「そんなに俺がきらい?」

「ちがっ……!」

「俺は!」


 あたしは呆然とした。一体どうしちゃったんだろう。エドが、こんなに震える理由が分からなかった。

「俺は……、おまえをもうこんな目に合わせたくない…!」


 エドが、あたしを抱きしめる腕に力をこめた。


「あたしの、ため?」


 あたしが、頼りないから、エドはこんな突拍子もないことを言いだすんだろうか。そうだったら、情けなかった。あたしは、あたしの目線の位置にあるエドの肩に、そっと手を置いた。


「やっぱりダメだよ、エド。あたしなんかが、領主さまの家になんて住めない」


 エドが、目を見開いた。あたしは、精一杯笑顔を作った。


「それに、エドの恋人に誤解されたら、困るでしょ?」


 あたしは、うまく笑えてるだろうか?何でもないように、言えているだろうか。


「…恋人?」


 エドの顔が、怪訝な色を浮かべた。やっぱり、触れられたくなかったらしい。


「そうだよ。婚約者がいるんでしょ?エドの気持ちは嬉しいけど、あたしなんかと一緒に住んだら、本当に好きな人を逃しちゃうよ」


 どうか、うまく笑えていますように。最後まで気づかれたくない。エドが、何かを言おうとして、躊躇ったようだった。それから、困ったように眉を寄せる。


「ソフィー、勘違いしてる」

「え?何が?」

「恋人なんかいないよ。婚約者だって」

「?まだ、プロポーズしてないってこと?」


 エドの表情が、どんどん苦くなっていく。ひとつため息をついた後、エドは額を寄せてきた。こつりと、小さな音が鳴って、あたしの心臓が跳ねる。顔が近い。


「ソフィー。俺がおまえと一緒にいたいのは、おまえに同情したからなんかじゃない。お前のためでもない。ソフィー、おまえはこれっぽっちも気づいていないようだね」


 エドが少し息を吸った。涼しい風が吹き抜けて、あたしは何か予感がした。まるで、月があたしに贈ってくれたような、そんな、予感。


「俺はさ、ソフィー。お前のことが大好きだよ。友達とか、姉弟みたいな感情じゃなくて、ソフィーのことが世界で一番好きだ。

一緒にいるならソフィーがいい。ソフィーでなきゃ、嫌だ。


 だから、ソフィア。おれと結婚してください」



 弓のような細い月が照らす、夜空の下で、エドはあたしに微笑んだ。



「あたしが、……好き…?」

「そうだよ。小さいころから、ソフィアだけが好きだ」

「婚約者が、いるんじゃないの?」

「話はあったけど、断ったよ」

「でも……」


 言葉が続かなかった。エドの言葉は、空中を漂って、あたしの中にしみ込んでこない。


「これって、夢?」

「現実」


 エドが、すごく可笑しいというように、くしゃりと破顔した。あたしの頭は容量オーバーだ。目まぐるしい勢いで思考回路は回っているのに、いっこうに答えは出てこない。とりあえず、このままじゃダメだ。何とか、否定。そう、断らなきゃ。


「でも!あたし、あたしは、こんな顔……」


 今まで隠していたことを、つい口走ってしまったことにも気が付かないくらいに、あたしは必死だった。何に必死になっているかもわからないのに、エドの言葉を撤回させなきゃと思っていた。


「こんな呪われたみたいな顔じゃ、エドにまで迷惑が」


 かかってしまう、という言葉は、エドに遮られた。腰に下げていた革の鞄から、手のひらくらいの箱を取り出して、エドはあたしに向き直った。気まずそうにあたしを見て、エドは言った。


「本当は、ずっと前から渡そうと思ってたんだけど。勇気が、出なくて。

……でも、その前に、俺はソフィーに謝らなきゃいけないことがある」

「…謝らなきゃ、いけないこと…?」


 エドは、ゆっくりと頭を下げた。


「俺、知ってたんだ。ソフィーが、顔を隠してる理由」

「――――っ!」


 呼吸が止まった。隠してきたと思ったのに、いつ見られたんだろう。あたしの醜い部分を見られたのだと思うと、体がかっと熱くなった。エドがどう感じたかを考えるだけで、気が狂いそうだった。


「言い訳がましいけど、見るつもりはなかった。俺が訪ねたときに、たまたまソフィーが布外したまま寝てて……」


 あたしは何て馬鹿なんだろうか。


「………………気持ち、わるかったでしょ?」


 拳を握り締めて、微笑んだら、エドが怒ったように見上げてきた。強い力で腕をつかまれる。ちょっとだけ痛かった。


「気持ち悪くなんかない。そんなことない」

「ううん。気味が悪いよ、こんな顔。実の母親が怯えるくらいだもの」

「そんなことない。……でも、お前は信じないんだろうな」


 エドは寂しそうに笑った。言葉に詰まったあたしを置いて、エドは先ほどの箱をパカリとあけた。光が反射して、何かは分からない。まぶしさに目を閉じていたら、頬に何かが触れた。


「これ、取っていい?」


 嫌だと言おうかと思った。だけど、先ほどのエドの真剣な表情が浮かんで、思いとどまった。エドは、あたしがエドを信じないと言ったけど、そんなことない。あたしだって、エドを信じたいと思ってる。


「いいよ」


 ぎゅっと目をつぶったままで答えると、エドがわずかに驚いた気配が伝わってきた。でも、すぐに笑顔になったみたい。なんとなく、分かってしまう。エドのことなら、なんだってわかってしまう。

 優しい手つきで、エドがあたしの顔に触れる。ドキドキしながら動かないようにしていれば、音もなく布が解かれていく。するり、と布が下へと滑り落ちた。あたしが長年エドに秘密にしてきたものが、とうとう曝け出されてしまったのだ。不思議と不快には思わなかった。あたしの心は、穏やかな海のようだ。コトリと、耳の近くで音がする。ひんやりとした感触が、頬を支配した。冷たくて、気持ちいい。


「もういいよ」


 目蓋を上げる。そこには微笑むエドがいた。金茶の髪がさらさらなびいて、茶色の目は嬉しそうに細められていた。気味が悪くないんだろうかと心に陰が過ぎったけど、エドの笑顔を見たら、そんなことはないと思えた。エド程嬉しさが表情に出る人っていないと思う。思わずときめいてしまうほどに、緩んだ顔だった。


「ああ、やっぱり似合う」


 拳をほどいて、先ほどまで布があった場所に触れる。ひやりとした、固い感触を感じた。


「ほら」


 差し出されたのは、薄くて小さな鏡。一瞬、幼いころの記憶がよぎって、思わず身をよじった。だけど、なんとか勇気を振り絞る。単純な好奇心もあった。

 丸い鏡は、あたしの顔を映し出している。最後に自分の顔を見たのは、お母さんに別れを告げた時だった。相変わらず、醜いあたしの顔。

 そう言おうと思ったのに、あたしの口はピクリとも動かなかった。


「これ……は…?」

「似合ってるだろう?わざわざ特注したんだ。俺なりに考えたんだよ。お前が、俺と一緒にこの森を出てくれる方法を。……とりあえず、指輪の代わり。後でちゃんとしたの、渡すつもりだけどね」


 指輪?かわり?後で何を渡すって?

 聞きなれない単語が次々出てきて、あたしは混乱した。やっぱり夢だとも思った。だけど、エドがくれたものは、鏡の中で一際その存在を主張していた。


 あたしの顔の左半分には、美しい銀の仮面があった。派手ではないけれど、細かく施した装飾は、月の光を浴びて幻想のように浮かび上がっていた。目をそらすほど醜かったはずの顔なのに、あたしは熱に浮かされたように見つめてしまった。体を震わせるあたしの肩に手を置いて、一緒に鏡を覗き込みながら、エドは流れるように言った。


「ソフィーの黒い髪に、銀の仮面。

 夜空に浮かぶ銀の月のようで、綺麗だろう?」


 あたしは変な顔をしてしまった。エドは意外とロマンチストだったらしい。そんな気障なこと言って、馬鹿みたいだ。笑っちゃいそう。だけど、あたしが発したのは、どの言葉でもなかった。


「似合ってる?」

「うん」

「あたし、気持ち悪くない?」

「うん」

「あたし、あたし、は」


 胸に何かがつかえたみたい。嗚咽を漏らすあたしを見て、エドは笑う。


「ソフィア。もう一度言うよ。お前が好きだ。一緒に暮らそう。

これから一生、どうか俺のそばにいてくれ」


 今度こそ、エドの言葉は、あたしの中にすとんと落ち着いた。本当にわがままなエド。だけど、こんなに幸福な気分になるわがままは、一度だってなかった。こらえていた涙が、せきを切ったように流れ出す。あたしを絡め取っていたものは、エドが全部取り払ってくれた。気持ちがあふれて止まらない。

 お願い神様。もう、なんにもいらない。だから。


「あたしも、エドが、好きだよ。大好きだよ。

ずっとずっと、一緒にいたい」


 そうしたら、これ以上ないってくらいに、エドは優しく微笑んだ。


「………うん。一緒にいよう。ずっと、ずっとだ」


 叶わない恋だと、思っていた。それでいいのだと、言い聞かせていた。だけど、そんなの強がりだった。だって今、あたしはこんなにも幸せだ。理由なんて、エドが抱きしめて、誓ってくれたからに決まっている。

 月が誰かの口のよう。馬鹿な選択をするもんだなって、あたしを笑っているみたいだ。でも、どうだっていい。あたしには、空でこちらを見てるだけの月なんかより、エドからの贈り物の方が大事。あたしの髪が闇夜の色で、この仮面が月なら、エドの髪は星みたいだね。そんなことも思ったけど、恥ずかしくて言えなかった。


「ソフィア。帰ろう、俺たちの家へ」


 差しのべられた大きな手を、そっと握る。何カ月かぶりの感覚に、心臓が高鳴った。だけど、エドの手が震えて、耳が赤いことに気が付いたら、なんだか可笑しくなってしまった。


「ねえ、エド。エドの家ってどんなところ?」

「うーん、そうだなあ……。結構大きいと思うよ。皆で食事する部屋と、それぞれの寝室と、あと使用人たちの部屋かな」

「お家の人は、どんな人?」

「変わった人が多いけど、みんないい人たちだよ。使用人たちも、気さくなやつばっかだ。爺やは未だに俺のこと子ども扱いしてくるし、メイドのマーサは、いっつも恋愛話ばっかりしてる」

「楽しそうだね」

「そうだといいな。ソフィーが気に入ってくれたら、嬉しいよ」

「気に入るよ。好きになるよ、絶対」


 皆のことを語るエドの顔は、すごく楽しそうだから。エドが笑ってるだけで、幸せなあたしは、そのうち窒息死しちゃいそう。口元を緩めながら、繋いだ手を離さないように歩いていく。すると、一際明るい光が差し込む場所があった。出口だ。あそこを出たら、あたしは、この森とさよならをするんだ。


 ふと、後ろを振り返った。木々がざわめく音や、小鳥たちのさえずりが聞こえる。足元を見れば、小さな虫が動いていた。もうすぐ、夜が明ける。そして朝が来るんだ。そう思ったあたしの横を、一陣の風が吹き抜けた。それと同時に、ふんわりと微かに、だけどはっきりと薬草の香りがした。まるで誘われるように、記憶が蘇ってくる。


 これは、あたしの家の匂いだ。


 耳を澄ませば、お母さんが薬草を擦る音が聞こえる気がした。森の奥に、ぼんやりと霞んだ小さな家が見える。あたしが住んでいた小屋ではない。あたしが、あの小屋を「家」と呼ぶことは決してなかったから。

 優しい人ではなかった。

 いい母親だったとは、言えなかった。でも、今も昔も、あたしの家は、薬草の香りが漂うあの家だけだ。どんなに、あたしを恐れても、どれだけあたしを疎んでも、お母さんはあたしを置いて行かなかった。いつだって、顔をそむけながら、それでもあたしの言葉に、ちゃんと返事をしてくれた。それだけで、十分だと思えた。あたしの居場所はいつだって、あそこにあったんだ。

 今なら、自惚れてもいいのなら、お母さんはあたしを厭ってはいなかったと思える。不器用に、守ろうとしてくれていたのだと、そう思える。

 あたしは、何も返してあげられなかった。あたしを生んでくれた人だったのに、何も返せないまま逝ってしまった。恨んでなんかいない。天国で、お父さんと一緒にいられるなら、あたしはそれでいいと思う。お母さんの幸せをいつまでも願ってる。


 だって、ちゃんと覚えてるから。


 遠い記憶のかなたで、優しく抱きしめてくれたこと。





 さわさわと木の葉が揺れる。空は急速に光を取り戻しつつあった。澄んだ空気が、気持ちいい。あと一歩踏み出したら、あたしはエドと生きていく。

 最後に、もう一度だけ振り返る。長い時を過ごした森は、いつもと何ら変わらなかった。ただ一つ、森の奥には、相変わらずあたしの家が、幻のように見えていた。

 あたし、きっと幸せになれると思うんだ。

 声には出さずに、「いってきます」と呟く。

 その時、まるで見計らったように、一筋の光が射した。同時に、一羽の鳥が、翼を大きく広げて羽ばたく。白い鳥は、あたしたちの上空を旋回した後、まるで何かから自由になったように、空へと昇って行った。どこまでも、高く。

 それが合図だったとでもいうように、次々と光が射しこんできた。ついに朝が来たのだ。柔らかな光のまぶしさに、あたしは目を眇める。次に目を開けた時には、懐かしいその家は、跡形もなく消えていた。寂しいような、悲しいような、不思議な気持ち。だけどもう、振り返りはしなかった。

 あたしには見えた気がしたから。ほんの一瞬だったけれど。



 やわらかな薬草の香りは、いつか過ごした家の名残。


 夜明けの森で、その人は、確かにあたしに微笑んだのだ。







『いってらっしゃい』







 ここまで目を通してくださって、ありがとうございました。もともとは読みきりだったのですが、いかんせん長すぎたので連載に回しました。高校最後の夏に部誌向けに書いたものです。ここまでギャグが少なかったのは初めてで、女の子一人称も初めてで…、とにかく緊張した作品でした。


 気が向いたら小編ギャグでも投稿しようと思っています。

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