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前編



 たくさんの人と物が行き交って、とても賑やかだと聞く王都から、北へ一万五千ルクス。

 活気がある港町から、赤レンガの道をたどってゆくと、昼でも暗い影を落としている大きな森がある。ただの地面に変わった道を歩いて、鬱蒼とした森を抜けると、そこには小さな立札が傾いて立っている。書いてある文字は掠れていて解読は難しい。その札を右側にして、草木がぼうぼうと生える道なき道を行くと小さな村がある。そこで少しだけ新鮮な空気を吸って、村人たちに挨拶した後、反対側にある出口まで足を運ぶ。だけど村から出てはいけない。出口を見つけたら、視線を右に投げる。そこでほんのりと薬草の香りがしたら、ようやく小さくてみすぼらしい、だけどたった一つのあたしの家を見つけられる。


 らしい。


 らしいっていうのは、実際のところがあたしにも分かんないからだ。あたしは物心ついた時から、村から外に、どころか家から外にだってまともに出たことがない。お母さんが出してくれないのだ。

 お母さんはとにかく鏡が大嫌いだ。おかげで家には、何も映らないような薄汚いガラスしかない。玄関の近くでこっそり拾った青いガラス玉も、すぐに取り上げられてしまった。それから、お母さんはいつも、泣くか怯えるか怒るかだ。泣くのは大抵あたしが寝てからで、死んじゃったお父さんの名前を呼んでいる。怒るのはあたしが外に出ようとしたとき。そして、怯えるのはあたしの顔を見たとき。見た目にも分かるくらい顔色を悪くさせる。そんなに見たくないのなら、あたしなんておいて出ていけばいいのに。


 そんなことを思っていたのは、十歳の秋までだった。


 お母さんは死んでしまった。風邪をこじらせて、熱を出してから三日目の夜に、眠るように目を閉じた。

 あたしに出来たのは、冷たくなってしまったお母さんの両手を組ませて、村の人たちに埋葬をお願いすることぐらいだった。十歳のあたしには、お母さんを担ぐことなんて到底無理だったから。

 決して優しい人じゃなかったお母さん。だけど、理由がなかったわけじゃないのかもしれない。そう思ったのは、お母さんの骨が、裏の森に埋められた翌日だった。



 うすうす予感はあったのだ。


『化け物!』


 生まれて初めてまともに外に出たあたしに向かって、ごつごつとした手のひらぐらいの大きさの石が飛んできた。驚いて避ける間もないうちに石が額に当たった。鈍い音がして、たらりと赤いものが流れてきた。目に入りそうになって、慌てて目をつむる。


『化け物!気持ち悪い奴。お前なんか、どっか行っちまえ!』


 同い年くらいの男の子だった。足を震わせてあたしを見た後、一目散に逃げて行ってしまう。残されたあたしは、のろのろと手を動かし額に触れた。ぬるっとした感触の後、指にべっとりと血が付いた。それをぼんやりと眺めたあたしは、近くに水たまりがあることに気が付いた。昨日の雨のせいでできたのだろうそれを覗き込んだあたしは、そこに映し出されたものを静かに見つめた。

 あたしの顔は、左目の周りが変色していて、ひどく醜かった。


 パンとジュースと料理道具一式と食器。そして継ぎはぎだらけの服と薄い毛布を一枚持って、あたしはその日のうちに村を出た。




*****




 一頭の馬が森の中を駆けていた。正確に言えば、一頭と一人が森を走っていた。馬の方は、まだ大人にはなりきっていない。しかし、栗色の毛とそれよりも少し濃い色の鬣が、つややかになびいている。その上にまたがった少年は、小柄で十歳にも満たないようだった。そのわりには、見事な手綱さばきである。馬が細い道を景気の良い音を立てながら走るのに合わせ、少年の茶色がかった金色の短い髪が揺れた。上等な靴は汚れ、息も少し上がっていたが、母親譲りのはしばみ色の瞳は真っ直ぐに前を見つめていた。


(もう少ししたら引き返そう)


 帰りの体力を見極め、そう思った少年は、ふと前方で茂みが動くのに気が付いた。何だ、と訝しがると、現れたものを見て仰天した。


「っ、危なっ?!」


 反射的に手綱を引き、馬の足を止めようとする。ものすごい衝撃と、目の前に迫る驚いて固まっている人物の姿に、少年は思わず目を閉じた。


(ぶつかるなよ!)


 そう願っていた少年は、次の瞬間「あっ」という甲高い声と、愛馬のヒヒーンという鳴き声を聞いた。


 そして少年は宙を飛んだ。



***


 さっき小川から汲んだばかりの水に、布を浸す。その心地よい冷たさに、あたしは思わずそのままでいたくなるが、傍らの男の子の存在を思い出して慌てて布を絞った。起こさないよう慎重に額に布をのせれば、少しだけ男の子の表情が和らいだ気がしたので、あたしは安堵の息を漏らした。

 ついさっき、森に木の実を取りに行っていたあたしは、偶然見つけた木苺に夢中で近づいてくる馬の足音に気が付かなかった。あんなところを通る人が滅多にいないこともあるんだけど。とにかく危うく馬にひかれそうになったあたしは、この男の子のとっさの判断と手綱さばきのおかげで命拾いしたのだ。その代わりと言ってはなんだけど、命の恩人である男の子は宙に投げ出され、それから目を覚まさない。幸い落ちたところが柔らかい苔だったからよかったものの…。そのまま放っておくなんてできなくて、思わずここまで運んできてしまった。たぶんあたしより年下。小さいし、おんぶした時も軽くてびっくりしたし。


(それにしてもキレイな顔……)


 髪はさらさらだし、睫毛もすごく長い。ブロンドの髪は、黒くて野暮ったいあたしの髪とは大違いだ。羨ましい。そんなことを思っているうちに、男の子が目を覚ました。


「ここは……?」


 目をぱちくりさせている。茶色い目はくるんと大きくて、やっぱりすごく可愛い。


「大丈夫?あなた馬から落ちたんだよ」


 男の子が混乱しないようにゆっくり言う。じーと顔を覗き込むと、ぼんやりしていたその子は、ようやく目が覚めたようだった。


「お前誰だ?」


 あたしは思わず眉を寄せた。初対面なのに、いきなり失礼だ。でもよく考えたらこの子に借りがあるのはあたしの方だ。なんといっても命の恩人だし。むっとしたのを隠して笑顔を作った。


「あたしはこの森に住んでるの。さっきあなたが助けてくれたんだよ。覚えてる?馬にひかれそうになって……」


 男の子が納得したような顔をした。よかった、記憶は大丈夫みたい。

 あたしは立ち上がって、男の子に向かって頭を下げた。


「ごめんなさい。それからありがとう」


 男の子が何か言ってくれるのを待ってたけど、なかなか話してくれない。そろそろ頭を上げたいんだけど、失礼かと思ってそのままでいた。


「これ、なんだ?」


 ようやくしゃべった、と思ったら変なことを聞かれて、あたしは首をかしげた。なんのことか分からない。そしたら男の子が自分の膝を指さして、もう一度聞いてきた。


「この緑のは何だ?」


 相変わらず威張った口のきき方で、また少しむっとする。だけど悪いのはあたしなんだ、我慢しなきゃ。


「葉っぱだよ」

「そんなの見れば分かる。何の葉だ」

「リコットっていうの、えーとね」

「なんでそんな得体のしれないものが、僕の体にはってあるんだ?」

「それは……」

「どうしてだ?」


 さすがのあたしもイライラを隠しきれなくなってきた。いくらなんでも失礼すぎる。しかも答えようとしてるのに遮るし。


「リコットは傷薬になるの。本当はすりつぶして使うんだけど、今日はいそいでたからそのままはったんだよ!」


 一息で言い終えたあたしは、なんだか自分がしたことがばからしく思えてきた。危ないところを助けてもらったから、ありがとうって言いたくて看病してたのに。


(こんな最低なヤツだったなんて!)


 顔がかわいいからって騙されちゃ駄目だったんだ。腹が立って、あたしは男の子に貸していた毛布を引きちぎりそうなくらい強く握った。どうせこの子は探してきたリコットの葉を取って、あたしに突っ返すんだ。よく知らない他人なのに、あたしは勝手にそう思いこんだ。そこへ、さっきから黙り込んだままだった男の子が唐突に口を開いた。


「なあ、お前」

「なあに?いらないなら葉っぱ返してよ。だいたい、あたしの名前は…」

「お前すごいな!!」

「………………え?」


 男の子がなぜか嬉しそうにあたしの服をつかんだ。わけが分からないあたしは、目を白黒させる。急にどうしたんだ、この子は。


「僕、こんなすごい葉っぱがあるなんて知らなかった。お前すごいな。うちの家庭教師より物知りだ!」


 家庭教師?なにそれ?あたしは聞き返したかったけど、男の子があんまり嬉しそうに笑うからなんにも言えなくなってしまった。男の子は、ほっぺたを赤くしてあたしに言った。


「僕はエドワード。エドワード・リックベルンっていうんだ。お前のこと気に入ったぞ。家で勉強してるより面白そうだ。よし決めた。今決めたぞ。僕、明日からもここに来るからな。今日からお前は僕の先生だ」

「なにそれ……」


 強引すぎる言い分にぎょっとする。突然何を言い出すんだろう。だけど、そんなあたしなんてお構いなしに、エドワードという子はしゃべり続けた。


「そうと決まったら、お前のことを知らなきゃな。お前の名前は?」


 その言葉に息が詰まった。名前を聞かれたのなんて、はじめてだ。浮かれたあたしは、うっかり名前を教えてしまった。思えば、エドワードのわがままに流された最初の瞬間は、この時だったに違いない。


「あたしの名前は、ソフィア。ソフィア・オルガ―だよ」


 こうして、あたしとエドワードは森の中の小さな小屋で出会ったのだ。エドワードは八歳、あたしは十一歳の、夏のはじめのことだった。





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