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アリシア & ローゼン

「王女なんだから平気だろ」と婚約を雑に捨てた青年、父の逆鱗に触れてしまったようです

作者: 入多麗夜
掲載日:2026/09/01

 エレナ・クライゼンが婚約破棄された。


 その報告を聞いた瞬間、父である国王ローゼンは腰を抜かしてしまった。


 執務机の前で報告書を確認していたローゼンは、しばらく何も言わずに固まったあと、立ち上がろうとして椅子の脚を引っかけ、そのまま床へ座り込んだのである。


 普段は何が起きても顔色一つ変えず、王国中の問題を淡々と処理している国王がそんな姿を晒したものだから、報告に来ていた側近たちもどう反応すればいいのか分からず、執務室には何とも言えない沈黙が落ちた。


 もっとも、ローゼンがそこまで取り乱したのにも理由はある。エレナは、ローゼンと王妃アリシアの娘だった。王女として生まれながら身分を鼻にかけることもなく、幼い頃から明るく素直で、誰に対しても穏やかに接する娘だった。父親であるローゼンはそんなエレナに昔からとにかく甘く、本人はそれなりに隠しているつもりでも、王宮で彼の親バカぶりを知らない者を探す方が難しいくらいだった。


 エレナが幼い頃に少し風邪を引けば仕事の合間に何度も様子を見に行き、初めて一人で遠出をした時には護衛の人数を増やそうとしてアリシアに止められ、十代になって社交の場へ出るようになってからは、娘に声をかける若い貴族たちを見る目が露骨に厳しくなった。


 母のアリシアは、そんな夫を昔から遠慮なく叱る人だった。相手が国王であることなど家庭の中ではほとんど関係がなく、何かやらかせば「もう!何してんのよ!」と普通に怒る。それでも夫婦仲が悪いと思う者はいなかった。むしろ、ローゼンがアリシアには妙に甘いことも、アリシアが何だかんだ言いながら夫を大切にしていることも、王宮に長く仕えている者なら誰でも知っている。


 そしてエレナには、兄のエドガーがいた。王太子であるエドガーは、とても良い兄だった。父親譲りの落ち着きを持ちながら、ローゼンよりも人当たりは柔らかく、妹にも昔から優しかった。


 幼い頃から決して楽な人生を歩んできたわけではなく、王家の事情に振り回され、子どもには重すぎる経験をしたことも少なくなかった。それでも捻くれることなく、むしろ人の痛みに気づける穏やかな青年へと成長した。


 エレナにとってエドガーは、尊敬できる王太子である以前に、大好きな兄だった。


 そんなエドガーも、近頃では海洋国家から訪れている王女と親しくしていた。二人は形式的な政略結婚の候補として引き合わされたわけではなく、何度か交流するうちに自然と距離を縮めていったらしい。庭園を並んで歩けば会話が途切れることもなく、公務の席でも相手の姿を見つければ表情が少し柔らかくなる。


 周囲から見ても好意は明らかで、昔からローゼンとアリシアを知る者の中には、若い頃の二人を見ているようだと懐かしがる者までいた。


 苦労の多かった兄が、自分の隣で自然に笑える相手と出会えたことを、エレナも心から嬉しく思っていた。父と母は、今でも仲が良い。兄も、大切な人と出会えた。だからエレナも、自分だっていつか同じように幸せになれるのだと思っていた。


 そんなエレナにも、幼い頃から婚約者がいた。相手は国内でも有力な侯爵家の嫡男で、家柄にも教養にも不足はなく、将来を期待されている青年だった。幼い頃には普通に話もできたし、一緒に過ごす時間を嫌だと思ったこともない。エレナ自身も、いずれは彼と結婚するのだろうと疑っていなかった。


 けれど、成長するにつれて二人の関係には少しずつずれが生まれていった。最初は本当に小さなことだった。以前なら一言謝ってくれていた約束の変更について何も言わなくなり、エレナが自分の希望を伝えると露骨に面倒そうな顔をするようになった。王女であるエレナとの婚約を誇りに思っている一方で、その立場に付随する責任や周囲からの視線を重荷にも感じていたのだろう。何か不満があれば、彼は次第に「王女殿下なのだから、その程度は理解してほしい」と口にするようになった。


 エレナも最初は気にしなかった。誰にだって機嫌の悪い日はあるし、婚約者だからといって何もかもが完璧に噛み合うはずもない。父と母だってしょっちゅう言い合っているのだから、自分たちにも多少のすれ違いくらいあるだろうと思っていた。ただ、いつの間にかエレナばかりが我慢することが増えていた。約束を忘れられても自分が予定を合わせ、話したいことがあっても相手が疲れていれば後回しにし、傷つくことを言われても「悪気はなかったのだろう」と飲み込んだ。自分が王女だから、相手には普通の婚約者よりも多くの負担をかけているのかもしれない。そう考えれば、少しくらい自分が譲るべきなのだと思えた。


 それでも、いつかはうまくいくと信じていた。父と母のように。苦労を重ねながらも、ようやく大切な人と笑えるようになった兄のように。


 だからある日、婚約者から二人だけで話がしたいと呼び出された時、エレナはむしろ少し安心していた。最近の自分たちがうまくいっていないことくらい、エレナにも分かっている。きちんと話し合う機会が必要だと思っていたし、自分もこれまで我慢してきたことを責めるのではなく伝えてみようと考えていた。相手にも不満があるなら聞けばいい。そうして互いに直せるところを直していけば、きっとまだ間に合う。


 けれど、婚約者がエレナへ告げたのは、話し合いを始めるための言葉ではなかった。


「婚約を破棄したい」


 静かな応接室の中で、あまりにも唐突に告げられた言葉を、エレナはすぐには理解できなかった。目の前に座る青年は、冗談を言っているようには見えない。むしろ何日も前から決めていたことをようやく口にしたような、妙にすっきりした表情をしていた。


「……どういうことですか?」


 ようやく出てきた声は、自分でも驚くほど平静だった。婚約者は少し視線を逸らしたあと、王女の婚約者という立場に疲れたのだと話し始めた。どこへ行っても自分ではなく王女の婚約者として見られること、将来は王家と深く関わりながら生きなければならないこと、自分の人生まで決められてしまったように感じていること。それ自体は、エレナにも理解できない話ではなかった。自分が王女である以上、普通の貴族令嬢との結婚とは違う責任が生まれる。幼い頃から決められた婚約に、相手が息苦しさを覚えていたのなら、その気持ちまで否定することはできない。


 ただ、話はそこで終わらなかった。


「僕はずっと君に合わせてきた。王女殿下の婚約者として恥ずかしくないようにしろと言われ続けて、自分のやりたいことだって我慢した。それなのに君は、何でも最初から持っているじゃないか」


 エレナは思わず相手の顔を見た。自分もずっと合わせてきた。その言葉が喉元まで出かかったが、すぐには口にできなかった。


「私は……あなたに合わせてもらっていたつもりはありません。むしろ最近は、私の方が――」

「またそうやって、自分は悪くないと言うんだな」


 最後まで聞いてすらもらえなかった。胸の奥が、ずきりと痛んだ。


「そういう意味で言ったのではありません。私はただ、あなたがそんなふうに思っていたのなら、一度くらい話してほしかったのです。私にも直すべきところがあるなら聞きたかったし、あなたが辛かったのなら、それだって聞きたかった。何年も婚約してきたのですから、せめて終わらせる前に一度くらい、ちゃんと向き合いたかっただけです」

「今さら話して何になるんだ。僕はもう決めたんだよ。君には何でもあるだろう。国王陛下も王妃殿下も、王太子殿下だっている。僕一人くらいいなくなったところで、別に困らないじゃないか」


 そこまで言われた時、さすがにエレナの表情が固まった。王女だから。家族に恵まれているから。何でも持っているように見えるから。だから、人を失っても悲しくないとでも思っているのだろうか。何年も婚約者として接してきた相手から、自分の気持ちはその程度のものだと思われていたのだろうか。


 それでも、エレナはその場では泣かなかった。泣いて縋ったところで、相手の気持ちが戻るわけではない。それに、ここで泣けば相手はますます「面倒な王女から解放された」と思うのかもしれない。そう考えたら、何としても涙だけは見せたくなかった。


「……分かりました。そこまでお決めになっているのであれば、私から申し上げることはありません。婚約については、正式に両家を通して手続きを進めてください」


 最後まで声を震わせなかったのは、王女として身につけてきた意地のおかげだった。席を立ち、最低限の礼だけして部屋を出る。廊下へ出た瞬間に足元が少し頼りなくなったが、それでも侍女が待つ場所までは普通に歩いた。


 帰りの馬車でも、エレナはほとんど口を開かなかった。侍女から具合が悪いのかと聞かれても、少し疲れただけだと答える。王宮へ戻ってからも誰とも顔を合わせたくなくて、そのまま自室へ向かい、侍女たちに一人にしてほしいと頼んだ。扉が閉まり、本当に一人になった瞬間、ようやく涙が落ちた。


 エレナはベッドの端へ腰を下ろし、両手で顔を覆った。悲しかった。婚約が終わったことももちろん悲しい。けれど、それ以上に、自分が何年も大切にしてきた関係を、相手には簡単に切り捨てられてしまったことが辛かった。自分なりに頑張っていたつもりだった。相手が嫌がらないように、重荷にならないように、王女という立場を押しつけないように。そうやって我慢してきたものが、相手には何一つ伝わっていなかった。それどころか、自分こそ一方的に負担をかけていた存在だと思われていた。



 ◇



 その頃、エレナが婚約破棄されたという報告を聞いたローゼンは、ようやく床から立ち上がっていた。最初こそ驚きのあまり腰を抜かしたものの、事情を詳しく聞くにつれて、その顔から驚きが消え、代わりに別の感情が浮かび始めていた。


「……もう一度言え」


 報告していた側近がわずかに身を固くする。ローゼンが確認したかったのは、婚約破棄そのものではない。相手がエレナに何を言ったのかだった。側近が慎重に、把握している限りの内容を説明する。王女の婚約者という立場に疲れたこと。すでに婚約破棄を一方的に決めていたこと。そして最後に、エレナには何でもあるのだから、自分一人くらいいなくなっても困らないだろうと告げたこと。


 そこまで聞いたローゼンは、しばらく何も言わなかった。怒鳴ることもなかった。ただ、妙に静かだった。


「第一近衛騎士団を招集しろ。準備が整い次第、出る」


 側近は聞き間違いかと思った。恐る恐る目的を尋ねると、ローゼンは当然のことを聞かれたような顔をする。


「エレナの婚約者だった男の家だ。婚約を破棄した理由を本人から聞く」


 おそらく本人としては本当に話を聞くつもりなのだろう。しかし国王が王国でも精鋭として知られる第一近衛騎士団を率いて貴族家へ向かえば、どう見ても父親同士の話し合いではない。下手をすれば王宮の兵が侯爵家を包囲したと受け取られかねない。側近たちがどう止めるべきか顔を見合わせていたところへ、執務室の扉が勢いよく開いた。


「ローゼン!もう、何してんのよ!」


 入ってきたのはアリシアだった。どうやら別の者から話を聞いたらしい。いつもより少し足早にローゼンの前まで来ると、机の上に置かれた招集命令書を見つけ、眉を寄せた。ローゼンは娘が婚約破棄された以上、父親として相手に理由を聞きに行くのは当然だと主張したが、アリシアも娘を傷つけられて腹が立っている点では同じだった。ただし、それと王国の精鋭騎士団を私情で動かすことはまったく別問題である。


「話を聞きに行くだけなら、何で第一近衛が必要なのよ。あなた一人で訪ねるだけでも向こうからしたら十分怖いでしょうが。国王が騎士団を連れて押しかけたら、それもう話し合いじゃないからね」

「念のためだ」

「何の念よ。エレナのところには私が行くから、あなたはここにいて。いい?絶対に余計なことしないでよ」


 ローゼンは不満そうだったが、アリシアはそれ以上付き合わず、第一近衛への招集命令を取り消させてからエレナの部屋へ向かった。



 ◇



 部屋へ入ると、エレナはすでにかなり泣いた後だった。目元は赤く腫れ、いつもなら綺麗に整えている髪も少し乱れている。それでも母親を見ると、反射的に背筋を伸ばそうとした。


「ママ……大丈夫だから」

「そんな顔で言われても説得力ないわよ。何があったかは聞いたから、今は無理して平気な顔をしなくていいの」


 アリシアはそれ以上責めるようなことは言わず、娘の隣へ腰を下ろした。婚約破棄については聞いたとだけ伝え、無理に詳しい事情を尋ねることもしない。エレナもしばらく黙っていたが、母親が何も急かさずに隣にいてくれることがかえって辛かったのかもしれない。しばらくすると、ぽつりぽつりと今日あったことを話し始めた。


 婚約者から何を言われたのか。自分もずっと相手に合わせていたつもりだったこと。それなのに、相手には自分ばかりが我慢していると思われていたこと。最後には話し合うことさえ拒まれたこと。アリシアは途中で口を挟まず、最後まで聞いた。


 やがてエレナの話は、今日の婚約破棄だけではなくなっていった。


「私、ずっと思ってたの。多少うまくいかなくても、そのうちちゃんと分かり合えるんだって。だって、パパとママは今でもあんなに仲がいいし……お兄様だって、あの王女様と一緒にいる時はすごく楽しそうでしょう?お兄様だって、昔から大変なことがたくさんあったのに、それでもすごく優しい人になって、今はあんなに素敵な人と出会えて……なのに私は、何をしても駄目だった。私だって頑張ったつもりだったのに」


 アリシアはそこで、ようやく娘が何に苦しんでいるのかを理解した。エレナは婚約者に捨てられたことだけで泣いているわけではない。自分だけが家族の中で失敗したと思っているのだ。


「パパは今でもママのことが大好きでしょう。ママだって、何だかんだ言いながらパパのことが好きで……お兄様も幸せそうで……。私は、ママみたいな幸せは得られないのかな」


 アリシアはすぐには答えなかった。むしろ、少し困ったような顔をした。


「エレナ。あなた、私とパパが昔からずっと今みたいだったと思ってる?」


 エレナが涙を拭いながら顔を上げる。もちろん、両親が昔一度離れていたことくらいは知っている。けれど詳しい事情まで聞いたことはほとんどなかった。エレナが生まれて物心ついた頃には、父と母はすでに夫婦として一緒に暮らしていたからだ。


「私たちね、最初からこんなに上手くいってたわけじゃないのよ。昔から一緒に育って、そのまま結婚したけど……結婚した直後に、私はパパから離縁を言い渡されたの。そのあと王都を出て、エドガーを産んで、何年もパパとは離れて暮らしてたのよ。再会してからも、すぐに元通りになったわけじゃないわよ。私は腹が立ってたし、簡単に許すつもりもなかったし、パパだって色々失敗したしね。何度もぶつかって、悩んで、それでも少しずつ関係を作り直して、ようやく今があるの」


 エレナは完全に泣くのを忘れていた。


「……パパが、ママを捨てたの?」


 アリシアは少し考えたあと、肩を竦めた。


「ものすごく簡単に言うなら、そうなるわね。今じゃ娘が婚約破棄されたくらいで第一近衛を出そうとしてる人だけど」


 エレナは目を丸くし、泣き腫らした顔のまま少しだけ笑った。


「……パパ、出そうとしたの?」

「出そうとしたどころか、もう招集命令を書いてたわよ。止めるの大変だったんだから」


 現在のローゼンからは想像できない過去との落差も、その父親が自分の婚約破棄に騎士団を動かそうとしたことも、何だかおかしかった。エレナの口元にようやく小さな笑みが戻ったのを見て、アリシアも少し安心する。


「だからね、今の私たちだけ見て、最初から全部上手くいってたなんて思わないで。私だって泣いたし、もう二度とパパとは一緒にならないと思ってた時期だってあったのよ。それに、私みたいになる必要なんてないの。エドガーと比べる必要もない。あなたが一緒にいて楽しいと思えて、自分のままでいられる相手を見つければいいのよ。それがエレナの幸せでしょう?」


 エレナは黙って母親の言葉を聞いていた。


「今回の人とうまくいかなかったからって、あなたが駄目だったわけじゃないわ。むしろ、結婚してからずっと相手の顔色を窺って暮らすことにならなかっただけ良かったのかもしれない。婚約破棄の仕方は最悪だったし、そこは私もかなり腹が立ってるけどね」


 そう言われて初めて、エレナは自分が婚約を続けること自体を目的にしていたことに気づいた。婚約者と一緒にいて幸せだったのかと問われれば、最近はそうではなかった。会うたびに機嫌を窺い、何を言えば嫌な顔をされないか考え、約束を破られても自分から笑って許していた。それでも別れようと思わなかったのは、この人と幸せになりたいという気持ちだけではなく、父や母、兄と同じように自分も幸せな恋愛を成功させなければならないと思っていたからなのかもしれない。


「……私、パパとママみたいにならなきゃって思ってたのかも」

「ならなくていいわよ。そもそも私たちを真似するには波瀾万丈すぎるでしょう」


 エレナはまた少し笑った。傷が消えたわけではない。今日言われた言葉を思い出せばまだ胸は痛む。それでも、自分だけが劣っているわけではないのだと少し思えるようになっただけで、ずいぶんと楽になった。



 ◇



 その日の夜、ローゼンも娘の様子を見に来た。アリシアが自分たちの過去について少し話したことを知ると、何とも言えない顔をしたものの、今さら隠すことでもないと諦めたらしい。ローゼンは娘の向かいに腰を下ろし、一度の婚約破棄で人生が決まるわけではないと静かに話した。自分は一度アリシアとの関係を完全に壊し、それでも長い時間を経て再び夫婦になることができた。だからエレナが一度相手とうまくいかなかったからといって、この先幸せになれない理由などどこにもない。


「お前は何も悪くない。無理に次の相手を探す必要もないし、しばらく一人でいたいならそれでもいい。ただ、自分にはもう幸せになれないなどと思わないで欲しい。私達はエレナを誇りに思っている」


 父親らしい言葉に、エレナは素直に頷いた。


 ただしローゼンは最後に、「それと、あの男が言ったことを許すかどうかは別だ」と真顔で付け加えたため、隣にいたアリシアはすぐに嫌な予感を覚えた。


「全く……ローゼンったら。明日は絶対に何もしないでよ」


 ローゼンは明確な返事をしなかった。


 そして翌朝、嫌な予感は見事に的中した。


 少しだけ気持ちが軽くなったエレナが目を覚ますと、王宮の中庭からいつも以上に多くの人間が動く音が聞こえてきた。何事かと思って窓から外を確認すると、第一近衛騎士団の兵士たちが整然と並び、遠出するための馬まで準備されている。まさかと思って急いで身支度を整え、中庭へ向かうと、その先頭にはすでに外套を身につけたローゼンがいた。


 昨日アリシアに止められたため、一晩置いてから改めて出発しようとしていたらしい。


 そして当然ながら、アリシアもすぐにやって来た。


「昨日あれだけ言ったのに、何で兵士が勢揃いしてるのよ!」

「正式に話をしに行くだけだ。昨日より冷静になった」

「冷静になった人は騎士団を連れていかないのよ!」


 ローゼンは本当に自分が冷静だと思っているらしい。確かに昨日と比べたら、少数精鋭の第一近衛を、さらに少数精鋭にさせた規模であった。威圧しないように人数を減らそとした努力はあったのだろう。


 そこへエレナが近づく。


「パパ、もういいよ」


 ローゼンが娘を見る。


 エレナは昨日までの自分なら、相手に謝ってほしいとか、どうしてあんなことを言ったのか分からせたいと思ったかもしれない。しかし今は、婚約を戻したいわけでも、元婚約者を酷い目に遭わせたいわけでもなかった。少なくとも自分は、もうあの関係へ戻るつもりはない。


「昨日はすごく悲しかったし、今だって全部平気になったわけじゃない。でも、もうあの人に何かしてほしいとは思ってないの。だから私のために第一近衛まで動かさないで。……普通に迷惑だから」


 最後の一言だけ少し強く言うと、アリシアが隣で大きく頷いた。ローゼンはしばらく何も言わなかったが、やがて非常に不服そうな顔をする。


「娘が許しても、私は許したくない」


 あまりにも真剣な顔で言うものだから、エレナは思わず吹き出してしまった。昨日まで自分が泣いていた婚約破棄を、どうやら父親の方が深刻に引きずっているらしい。そう考えると、胸の奥に残っていた重苦しいものが少しだけ薄くなった。


「もう、パパったら」



 ◇



 結局、第一近衛騎士団による前代未聞の抗議遠征は、アリシアとエレナの二人がかりで説得したことで出発前に中止となった。突然招集された兵士たちは何事もなかったように解散させられ、ローゼンだけが最後まで納得していないような顔をしていた。


 ただし、婚約解消そのものは王女の将来に関わる正式な案件である。両家で必要な手続きが行われ、相手方からも改めて説明と謝罪が届けられた。


 さらにローゼン自身も一通のとても長い書簡を書き、侯爵家へ送ったらしい。


 何が書かれていたのかエレナには最後まで知らされなかったが、翌日には元婚約者の父親がひどく青ざめた顔で王宮へ謝罪に訪れたため、少なくとも優しい内容ではなかったことだけは想像できた。


 それでも、ローゼンは元婚約者を必要以上に処罰することまではしなかった。婚約の終わらせ方や言葉には問題があったものの、相手にも王女との婚約を続けられないと考える自由そのものはある。エレナ自身も相手の破滅など望んでいなかったため、婚約は正式に解消され、それぞれ別の人生へ進むことになった。


 それからしばらく時間が経つと、エレナも少しずつ以前の明るさを取り戻していった。あの婚約破棄を完全に忘れたわけではないが、それまでのように相手から嫌われないために何でも我慢することはなくなった。誰かとの関係をうまくいかせるためには、自分だけが耐え続ければいいわけではない。嫌なことは嫌だと言い、自分の気持ちも相手に伝え、その上で一緒にいられる相手でなければ意味がない。それを知っただけでも、あの婚約には少しくらい意味があったのかもしれないと思えるようになった。


 その間にも、エドガーと海洋国家の王女の関係は順調に進んでいた。二人の婚約については両国とも好意的で、やがて正式に王太子と海洋国家の王女との婚約が発表される。エレナも兄の幸せを心から祝福したし、以前のように兄と自分を比べて落ち込むこともなくなっていた。


 そしてある日、その海洋国家の王女から、一人の男性を紹介したいという話を持ちかけられる。相手は彼女の国の王族に連なる若い王子で、エドガーも以前から人柄をよく知っている人物だった。穏やかで誠実、身分の低い者にも態度を変えず、困っている者を見れば自然に手を差し伸べる。あまりに悪い噂がなく、親しい者からは半ば冗談で聖人のような王子だと呼ばれているほどだった。


 エレナは最初、新しい婚約を急ぐつもりはないと断ろうとした。しかし兄の婚約者から、結婚相手として考える必要はないから一度話してみるだけでもいいと勧められ、それくらいならと会ってみることにした。


 実際に会ってみると、その王子は評判以上に良い人だった。エレナが王女だからと過度に持ち上げることもなければ、過去に婚約破棄された女性として腫れ物扱いすることもない。まるで、噂に聞いていた聖人そのものだったのだ。


 初めて会った日の夜、エレナは自分がほとんど相手の機嫌を気にせず過ごしていたことに気づいた。それが単純に楽しかったと思えた。


 二度、三度と会ううちに、エレナはその王子との時間を楽しみにするようになった。今度は「絶対にうまくいかせなくては」と考えることもなく、ただまた会いたい、もっと話をしてみたいと思える気持ちを大切にした。王子の方もエレナに好意を持っているようだったが、急いで関係を進めることはせず、彼女に合わせて距離を縮めていった。


 エドガーも王子の人柄を知っているため妹の相手として申し分ないと認め、婚約者である海洋国家の王女も二人の様子を楽しそうに見守っていた。アリシアも、娘が誰かに会うことを純粋に楽しみにできるようになったことを何より喜んだ。どうやら今回は本当に相性が良く、このままなら長く続きそうだった。


 やがて、その王子が改めて王宮へ挨拶に訪れることになる。


「今度、エレナと仲良くしてる王子が王宮へ来るそうよ」


 アリシアが何気なくそう告げると、書類へ目を落としていたローゼンはゆっくり顔を上げた。そして、分かりやすいほど嫌そうな顔をした。


 今度の王子には反対する理由がない。人格は申し分なく、家柄にも問題はなく、エドガーも信用しており、海洋国家の王女からの評判も極めて良い。何より、エレナ自身が楽しそうにしている。それでも娘に近づく男という一点だけで、ローゼンにとっては素直に歓迎しづらい相手らしかった。


 アリシアは夫の顔を見ただけですべて察した。


「まさか今度は、王子を迎えるために第一近衛を中庭へ並べたりしないでしょうね」

「そんなことはしない」

「本当に?」

「今回はまだ何もしていない」


 アリシアはしばらく黙ったあと、深く息を吐いた。


「……『今回は』って何よ」


 数日後には、非の打ち所がなく聖人のようだとまで評される王子が、エレナに会うため王宮へやって来る。エレナはその日を楽しみにしており、エドガーとその婚約者も応援している。アリシアも、今度こそ娘が自分なりの幸せを見つけられるのではないかと喜んでいた。


 それでもローゼンだけは、最後までどこか納得のいかない顔をしていた。


 娘を泣かせるような男は許せない。


 だからといって、娘を幸せにしてくれそうな男なら喜んで迎えられるのかと言えば、それもまた別問題らしい。


 どうやらエレナ・クライゼンとの結婚を望む者が越えなければならない最大の壁は、身分でも国境でもなく、娘を溺愛する国王その人であるらしかった。

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― 新着の感想 ―
婚約者だろうが別れた時点で臣下になるわけだから敬えないなら王家としても信用ならんし要らんよな。 ましてや王家相手に形式までもすっ飛ばして不義理働く人間はなぁ…。何に忠誠誓って国にいるの?って話だし 王…
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