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告白はしない、まだ早い

掲載日:2026/05/05

低くて、静かな声だった。


『こっちですよ』


目が覚めたとき、まだ暗かった。時計を見る。五時五十分。アラームまで四十分。

その声が、まだ耳の奥にあった。

二度寝するには短いし、起きるには早い。それなのに、なんとなく布団を払った。


洗面台の鏡を見て、少し止まった。


「……うわ」


誰もいないのに。


シャワーを浴びた。湯の音を聞きながら、髪に指を通す。

また浮かんだ。廊下を急ぎ足で歩く音。電話に出る前、一瞬だけ息を吸うところ。席を立つ、静かな背中。

思い出そうとしていないのに、出てくる。


髪を乾かすのに、いつもより時間をかけた。

途中で気づいた。丁寧にしすぎてる。手を止めたけど、やめなかった。


朝食は手をかけた。コーヒーもドリップした。湯気が細く上がっていく。カップを両手で包んで、窓の外を見た。四月の終わりの空は、まだ白っぽかった。

コーヒーを一口飲んだ。少し熱かった。全部、時間があるからだ。そういうことにした。


クローゼットを開けて、手が止まった。淡いワンピース。落ち着いた色。この色を見た瞬間、胸の奥が少し動いた。理由は、まだ言葉にならなかった。


ロビーの明かりが浮かんだ。白くて、少し冷たい光。『もし……迷惑じゃなければ』。息を吸う音。視線がぶれていた。コートのポケットに手を入れて、また出した。あの声が、耳の奥にまだある。


バッグの紐を指でなぞった。理由を考えようとして、やめた。

イヤリングをつけた。メイクに、いつもより時間がかかった。鏡を見た。また鏡を見た。

何やってるんだろ、私。

でも、やめなかった。

バッグの中身を確認した。何度も確認した。財布、ハンカチ、化粧ポーチ、モバイルバッテリー。時計を見ると、待ち合わせまであと一時間あった。

玄関のドアを開けた。四月の朝の空気が顔に当たった。冷たくて、でも日差しは柔らかかった。鍵を握る手が、少し汗ばんでいた。



✿ ✿ ✿



改札から少し離れたベンチに、結城さんが座っていた。スマホはほとんど見ていない。人が通るたびに顔を上げて、そのたびに視線が少し揺れる。まだ約束の時間より、十五分は早いのに。

近づきながら、バッグの紐を握り直した。

なんでこんなに緊張してるんだろ。

膝の上の紙袋を、何度か持ち直してて、遠くからでも落ち着かないのが伝わってきた。……待っていてくれたんだ、と気づいたら、また心臓がうるさくなる。

こちらに気づいた瞬間、慌てたように立ち上がった。


「お待たせしました。遅れてごめんなさい」

「いえ……僕が早く来ただけなので」


耳が、ほんのり赤かった。少し間があって。


「今日が楽しみで、早く起きすぎてしまって」


言ってから、目が落ちる。


「……白石さんも、早かったんですね」


待っていてくれたから、気づいてたんだ。

わかってる。でもその白石さんが、今日一番落ち着かなかった。


「私、人を待たせるのが苦手で。だから、つい」


合理的な理由だった。そういうことにした。

結城さんが、紙袋をそっと持ち直した。


「あの……これ」


ぎこちない動きで、差し出してくる。受け取ると、中には小さなブーケが入っていた。淡いピンクと白の花が、控えめにまとめられている。


「えっ……」

「その……わからなくて」


目が落ちる。


「おかしいかもしれないんですけど……調べたら、こういうの渡した方がいいって書いてあったので」


語尾が、小さくなっていく。

調べてくれたんだ。花よりも、その言葉が落ちた。指先が、温かくなった気がした。


「迷惑なんて……すごく、嬉しいです」


結城さんは、ほっと息を吐いた。目に見えて、肩の力が抜ける。


「……よかった」


困ったように笑う。


「調べたんですけど、おかしかったらどうしようって、ずっと思ってました」


嫌われなかったことに安心してる。そういう顔だった。

風が、花を揺らす。甘い香りがした。花びらに触れる。思っていたより、柔らかかった。

改札のアナウンスが、遠くで流れた。人が、横を通り過ぎた。

結城さんが、紙袋の持ち手を指でなぞっていた。こちらの反応を、まだ気にしてる。

改札の音が、遠くで重なっていた。結城さんが、先に歩き出す。少し遅れて、その隣へ並んだ。

結城さんが、歩幅を合わせようとしてる。でもずれる。また合わせる。またずれる。その繰り返しが、ぎこちなかった。気づいたら、こちらも歩幅を変えていた。思う前に、足が動いていた。


「……これから、どうするんですか?」


自然に聞いていた。結城さんが、驚いたように顔を向けた。


「おまかせでいいですか」


普段は、あまり人任せにしない。でも、そう言えた。

結城さんが、真剣な顔になった。


「……はい」


間があった。


「今日は、しっかり考えてきました」


リード慣れしてる感じじゃなかった。ちゃんとしたかった、が先に来てる。そういう声だった。



✿ ✿ ✿



カフェは、駅から離れた場所にあった。ガラス扉を開けると、コーヒーの香りがした。木の椅子。小さな照明。窓際に、本棚。BGMが、低く流れていた。


「……素敵なお店ですね」


「たまに、ここで本を読んでるんです」


結城さんの肩の力が、少し抜けた。

デートスポットじゃない。この人の居場所だ。そう思ったら、なんか、嬉しかった。

窓際の席に座った。向かい合う。ブーケをどう置くか迷って、テーブルの端にそっと置いた。また見た。なんとなく、また見た。

結城さんが、メニューを開いた。迷ってる。こちらの反応を、横目で見てる。


「私はラテにしようかなって」

「じゃあ……僕も、それにします」

「同じでいいんですか?」

「はい。なんか……その方が安心するので」


口元が、緩んだ。

ラテが運ばれてきた。カップから湯気が立つ。ゆっくり揺れて、消えていく。結城さんが慎重に口をつけた。そこで、動きが止まった。


「……甘かったですか?」

「いえ……でも、美味しいです」


無理してるのが、顔に出てた。合わせてくれたんだ、とわかった。笑いが、漏れた。

結城さんがこちらを見る。


「何か……?」

「いえ」


首を振って、カップを両手で包んだ。まだ温かかった。言わなかった。でも、温かかった。

奥のテーブルで、誰かが笑った。店員が通り過ぎた。BGMが、低く続いていた。

結城さんが、カップの縁を指でなぞった。口を開きかけて、閉じる。また開きかけた。


「……あの」


少し間があった。


「この辺、よく来るんですか」


聞き方が、少しぎこちなかった。話題を選んでる、と伝わってきた。


「たまに。ひとりで来ることが多くて」


「そうですか」


頷いて、またカップに目を落とす。次の言葉を探してる。でも見つからなかったのか、小さく息を吐いた。

うまくいかなかった、と思ってる顔だった。


「……ここで本を読んでるって言ってましたけど。どういう本を読むんですか?」


今度は自分から聞いた。結城さんが、顔を上げた。それから、少しずつ言葉が増えていった。

歴史。建築。古い街並み。倉敷や金沢の写真集。古い喫茶店の本。

話してるうちに、表情がやわらかくなっていく。

こんな顔するんだ。

見ていたら、結城さんが我に返った。


「……すみません」

「いえ」


カップを持ち直した。


「なんか、嬉しかったです」

「嬉しい……?」

「好きなものの話してる結城さん、ちょっと楽しそうだったので」


言ってから、少し恥ずかしくなった。結城さんが黙る。カップの縁を指でなぞる癖が、また目に入った。落ち着かないとき、ああする人なのかもしれない。


「白石さんは……本、読むんですか?」


少し迷った。ロマンス小説が好きだとは、なんとなく言いづらかった。


「……静かな話が好きです」

「静かな?」

「大きいことが起きるというより……寝る前に読むと、少し落ち着けるような。人の気持ちとか、生活を書くような話」


結城さんが、ゆっくり頷く。


「わかる気がします。そういう話、落ち着きますよね」


否定されなかった。それだけで、肩の力が少し抜けた。

結城さんが窓の外へ目を向けた。


「……読んでみたいな」


独り言みたいな声だった。


「白石さんが好きな話」


小さかったけど、ちゃんと聞こえた。カップを持つ手が、少しだけ止まった。

結城さんが、両手でカップを包んだ。指先が、白くなっていた。


「……今日のプランなんですけど、このあと、本屋に行って……それから、公園を歩けたらいいなって」

「いいですね」


自然に笑っていた。


「プラン、ですか」

「え?」

「なんだか……仕事みたいですね」


結城さんが、固まった。


「……仕事みたい、ですか」

「でも、結城さんらしいです」

「僕らしい……?」

「ちゃんと考えてくれてるの、伝わるので」


照れたように目をそらした。カップを置いて、また持ち直す。落ち着かない手が、正直だと思った。


「……楽しそうですね」

「え?」

「プランの話してる時の結城さん」


結城さんが、黙った。


「そう……ですか」


否定しなかった。

窓の外を、人が足早に通り過ぎていく。遠くで、子どもの声がした。沈黙が落ちた。嫌いじゃなかった。

席を立った。トイレの鏡の前で、手が止まった。顔が、熱かった。

リップを塗り直した。スカートを整えた。髪を耳にかけ直した。また鏡を見た。

何やってるんだろ、私。

でも、やめなかった。

結城さんに、どう見られてるんだろ。そこまで考えて、やめた。蛇口をひねって、手を洗った。水が、冷たかった。



✿ ✿ ✿



カフェを出ると、午後の光が街に落ちていた。

本屋は、歩いたところにあった。扉を開けると、紙の匂いがした。息を吸いたくなった。本の匂いは好きだ。落ち着く。

結城さんが、棚の前をゆっくり歩いた。急がなかった。背表紙を一冊ずつ確認するように、目を動かす。手を伸ばしかけて、止める。また別の棚へ。また手を伸ばして、今度は手に取る。裏表紙を読んで、そっと戻した。

本の選び方も、丁寧なんだ。

その横顔を、遠くから見ていた。見ていることに気づいて、棚に目を戻した。手近な背表紙を、なんとなく読んだ。内容は、頭に入らなかった。

棚の前を並んで歩いていると、一冊手に取った瞬間だった。


「あ、それ……」


結城さんが言いかけて、止まった。目をそらす。


「読んだことあるんですか?」

「……はい。その、好きで」


また目が落ちる。食いついたことに、自分で気づいたのかもしれない。


「どんなお話ですか」

「……静かな話で。特別なことは何も起きないんですけど」


間があった。


「でも、読んでいると、自分が何かを大事にできてる気がして」


言ってから、照れたように目を落とした。

こういう言葉が、自然に出てくる人なんだ。

本を裏返す。


……買おう。


本棚の別の段に、目を逃がした。


「……もしよかったら、感想、聞かせてもらえますか」


顔を上げると、結城さんが緊張した顔でこちらを見ていた。


「はい」


自然に答えていた。思わず、口元が動いた。



✿ ✿ ✿



本屋を出て、公園へ向かった。

しばらく、何も言わなかった。結城さんも黙って歩いていた。並んで歩く足音が、アスファルトに落ちる。

ふと、横を見た。結城さんが、口を少し開いた。何か言おうとして、また閉じる。街路樹の影が、二人の足元を横切った。

また口を開いた。


「……この辺、桜が綺麗だったんですよね」

「そうなんですか」

「はい。四月の頭は……もう散ってましたけど」


少し間があった。


「見せたかったな、と思って」


静かな声だった。言ってから、また目が落ちる。先を急ぐように、少し歩幅が広くなった。

追いかけるように、歩幅を合わせた。

言えた、と思った。言えなかったとも、思わなかった。ただ、その一言がどこかに残った。

公園に入ると、木々の間から光がこぼれていた。ベンチに座った。

風が頬を撫でていく。木の葉が揺れる音がした。遠くで、子どもの声がした。鳥が、一度だけ鳴いた。

何も言わなかった。

結城さんが、遠くを見ていた。目を細めて、何かを考えているような。ベンチの木の感触を、指先でなぞった。ざらざらしていた。

また風が来た。木の葉が、まとめて揺れた。

ふと、横顔を見た。目が合いそうになって、膝の上に目を落とした。指を組んだ。少しして、また見た。結城さんはまだ遠くを見ていた。でも、こちらを見ようとして、やめた気がした。また目を落とした。

誰かとこんなふうに黙っていられたのは、いつぶりだろう。その問いに、答えを出さなかった。


「……なんだか、落ち着きますね」

「はい。こういう場所が好きなんです。静かで……気持ちが整理できるというか」

「結城さんらしいですね」

「えっ……らしい、ですか?」

「静かで、丁寧で」


結城さんは目をそらした。


「……そんなふうに言われたの、初めてです」

「本当ですか?」

「はい。僕……あまり、いいところがないので」


自己卑下じゃなかった。本気でそう思ってる、素直さだった。

そんなことない、と思った。でも言葉にすると、説明みたいになる気がした。


「……私は、そう思ってないです」


結城さんは驚いたようにこちらを見た。それから、ゆっくりと息を吸って。


「……ありがとうございます」


今日いちばん柔らかな声だった。その声のまま、結城さんが目を落とす。

ふと、また横顔を見た。結城さんが、こちらに目を向けようとした。でも、向けきれなかった。また遠くへ。また、こちらへ。今度は、少しだけ長かった。目が合う前に、目を落とした。

自分から見ていいのか、迷ってるのかな。なんとなく、そう思った。思ってから、手が止まった。理由は、考えなかった。



✿ ✿ ✿



公園を出て歩いたところで、結城さんがぎこちない動きでバッグを持ち直した。

ぱさり、と乾いた音がして、何かが地面に落ちた。小さな黒いノートだった。文庫本より少し小さくて、角が擦れてる。ペンが挟まっていたせいで、開いたまま止まった。結城さんは、まだ気づいていない。

しゃがんで、拾った。

開いたページに、細かい文字がびっしり並んでいた。

見てはいけない。

でも、目が吸い寄せられた。


  『※告白はしない(まだ早い)』


最後の一行で、手が止まった。

こんなに細かく、丁寧に、今日のことを考えてくれてた。

嫌われないように。頑張りすぎないように。でも、手は抜かないように。

読んでいたら、喉の奥が詰まってきた。

この人、ずっとこうやって生きてきたんだ。迷惑をかけないように、嫌われないように。怖いから、準備する。その跡が、このノートに全部あった。


「結城さん、落ちましたよ」


声をかけると、振り返った結城さんの顔が、開いたノートを見た瞬間に固まった。


「あっ……!」

「み、見ないでください……!」


慌ててノートを閉じる。耳まで赤くなっていた。指が、震えていた。


「す、すみません……その……」


言葉が続かない。ノートを胸元へ寄せる。隠すように持つ。

間があった。


「……変、ですよね」


怒りじゃなかった。恥ずかしさと、嫌われる恐怖。その二つが混ざった声だった。


「……すごいですね」


結城さんが顔を上げた。


「え……?」

「こんなに考えてくれてたんだって……なんだか、すごく……嬉しいです」


目の奥が、熱かった。


「……見られたら、嫌われるかと思いました」

「どうしてですか?」

「だって……普通、こんな細かく予定を立てるなんて……」


言葉が止まった。


「重いって、思われるかもしれないし……」

「重くなんて、ないです」


ノートをそっと返した。


「むしろ……」


喉で止まった。でも、これは嘘じゃない。


「……可愛いです」


言ってから、自分でも恥ずかしくなった。

結城さんが、固まった。


「か、可愛い……?」


処理できていない顔だった。


「こんなに真面目に考えてくれてたんだって思ったら……」


言葉が続かなくて、目を落とした。

結城さんは、しばらく黙っていた。それから小さく息を吐いた。


「……ありがとうございます」


声が、少し震えていた。今日いちばん柔らかい声だった。


「あ、その……飲み物、買ってきます」


逃げるように、自販機へ向かった。その背中から、目が離せなかった。気づいたら、笑ってしまっていた。


飲み物を持って戻ってきた結城さんに、気づいたら言っていた。


「その……わがまま言っていいですか」

「え?」

「今日は……もう少し、行き当たりばったりで歩いてみたくて」


結城さんがきょとんとした顔をした。


「その……プランも嬉しいです。すごく嬉しかったです。でも、プランの外にも、連れて行ってほしいというか……」


沈黙が落ちた。結城さんは困ったような顔で、ノートに目を落とした。


「プランがなくても、大丈夫ですよ」


ゆっくりと顔を上げた。不安そうで、でも何かが解けていくような表情だった。


「……じゃあ」


間があった。


「あそこに、雑貨屋があって……前から、気になってたんですけど。一人で入るのは、ちょっと気まずくて……」

「行きましょう」


即答すると、目を瞬かせた。


「……いいんですか?」

「もちろんです」


息を吐いて、歩き出した。さっきまでとは、違う歩き方だった。



✿ ✿ ✿



雑貨屋のドアを開けると、入口のベルが鳴った。木の匂いがした。照明は暗め。音楽が、低く流れていた。棚の間隔が狭くて、自然と距離が近くなる。

ふわっと見て回った。ガラス小物。木製雑貨。文房具。食器。布小物。

会話は途切れ途切れだった。でも、気まずくなかった。

結城さんが、実用品の棚で足を止めた。ブックスタンド。木製の小物入れ。ペン立て。


「これ、便利そうですね」


笑いそうになった。


「結城さん、こういうの好きなんですね」

「長く使えそうなの、結構好きで」


また別の雑貨へ。


「これ、デスクにあると便利そうです」

「結城さんのデスク、なんとなく想像つきます」


会社の結城さんじゃなくて、生活してる結城さんが見えてくる。不思議と、それが嫌じゃなかった。

ひとつの棚の前で、足が止まった。小さなガラスの置物が並んでいた。光が当たると、淡い色が揺れる。


「……きれい」


無意識に零れた。

結城さんが、その反応を見ていた。置物ではなく、こちらを見ていた。目が合いそうになって、棚に目を戻した。

文房具のコーナーで、結城さんがノートの紙を指で触れた。


「……書きやすそうですね。インクが滲まなさそうで」


あのノートを、思い出した。赤線。読み返した跡。小さな文字。でも言葉にはしなかった。


「結城さん、ノートが好きなんですか?」

「はい。考えを整理するのに、書かないと落ち着かなくて」


だから、あのノートも。


「……素敵ですね」

「え?」

「ちゃんと考えて、丁寧に向き合うところ。すごく……いいと思います」


結城さんは固まった。ゆっくりと目を落とした。


「……そんなふうに言われたの、初めてです」


その声が、少し掠れていた。


陶器のマグを、結城さんが両手で包むように持った。しばらく眺めて、そっと棚に戻す。マグを戻す手つきまで、結城さんらしかった。


「こういうの、落ち着きますよね」


間があった。


「派手じゃないけど、毎日使っても飽きなさそうで」


この人の部屋。デスク。生活。少しずつ想像できた。そこまで考えて、棚の別の場所に目を移した。

なんで想像してるんだろ。

でも、嫌じゃなかった。それだけはわかった。


帰ろうとしたとき、結城さんの足が止まった。迷うように、また棚へ戻っていく。目で追った。さっきガラスの置物を見ていた棚だった。置物を一つ手に取って、そのままレジへ向かった。

何も言わなかった。聞かなかった。自分用なんだろう、となんとなく思った。でも、その横顔から目が離せなかった。

なんでだろ。

その答えは、出さないでおいた。



✿ ✿ ✿



店を出ると、夕方の光が街に落ちていた。空気がひんやりとして、夜を感じさせた。


「駅まで……歩きましょうか」


結城さんが、控えめに言った。頷いた。

街路樹の葉が風に揺れて、アスファルトの熱が冷めていく匂いがした。歩幅が、自然に合っていた。隣を歩く足音が、自分のと混ざった。

駅が近づいてきた頃、結城さんが何度か口を開いた。


「……あの」


すぐに閉じる。

頭の中に、ノートの最後の一行が浮かんだ。


『※告白はしない。まだ早い。』


それなのに、今、言おうとしてる。プランを破ろうとしてる。

また口を開いた。


「……今日、その……」


また、止まる。

何も言わなかった。ただ、隣を歩いた。

駅の入り口まであと少し、というところで、結城さんが立ち止まった。風が吹いて、前髪が揺れる。


「……僕」


声が、少し震えてた。こちらを見ようとして、目がぶれる。でも一度だけ息を吸って、まっすぐ見た。


「白石さんのことが……好きです」


頭の奥が、一瞬静かになった。


「言うの、すごく怖かったんですけど……あなたと歩いてたら、どうしても言いたくなってしまって」


誤魔化さない声だった。

ノートの最後の一行が、浮かんだ。


『※告白はしない(まだ早い)』


結局、言ってる。

そう思ったのに、笑えなかった。

駅のアナウンスが流れた。人が横を通り過ぎた。

結城さんは動かなかった。距離も詰めない。ただ、待っていた。

言葉が、すぐには入ってこなかった。地面のタイルを見た。結城さんの靴が、少しも動かない。

逃げないで待ってるんだ。

ゆっくり顔を上げた。思っていたより、ずっと不安そうな顔だった。


「……迷惑じゃ、ないです」


気づいたら、先にそう言っていた。


「好きって言えるほど、まだ自信はないんですけど」


喉の奥が、熱かった。


「今日、すごく落ち着いてて。こんなふうに誰かといたいって思ったの、久しぶりで」


言ってから、自分で驚いた。本当のことを言ってしまった、と思った。


「だから……ゆっくり、仲良くなれたら」


結城さんは、しばらく黙っていた。それから、ゆっくり息を吐いた。


「……ありがとうございます……、急がないです。あなたのペースで」


頷いた。


「……はい」


その一言で、結城さんの肩からふっと力が抜けた。夕方の風が、二人の間を通り抜けた。



✿ ✿ ✿



改札の前で立ち止まった。


「……じゃあ、ちゃんと連絡します」


緊張した声だった。


「はい。待ってます」


自然にそう言えた。

結城さんは頷いた。それから、反対側の改札へ向かった。人混みの向こうへ、少しずつ遠ざかる背中。しばらく、その背中を見ていた。

電車がホームへ入ってくる音がした。風。ブレーキ音。アナウンス。扉が閉まった。見えなくなった。

胸の奥が、静かになった。でも、別の熱が残った。

電車に乗った。窓の外を、街が流れていく。夕方から夜へ変わる途中の色だった。

ブーケの紙袋を、膝の上に置いた。軽いはずなのに、妙に存在感があった。窓に映る自分の顔を、なんとなく見た。すぐに目を逸らした。

頭の中に、今日のことが浮かんでは消えた。

ノートの細かい文字。ラテを飲んだときの困った顔。歩幅を合わせようとした、ぎこちない足。桜が見せたかったと言ってから、少し歩幅が広くなったこと。

順番なんてばらばらで、同じところを何度も思い出してしまう。電車が揺れて、紙袋が膝の上で小さく動いた。

また、最後の一行が浮かぶ。


『※告白はしない(まだ早い)』


思い出した瞬間、口元が少しだけ緩んだ。

……結局、言ってたのに。

窓の外は、もうほとんど夜だった。

最寄り駅を降りて、歩き出した。街灯が灯り始めていた。夜になる前の空。まだ青い。でも遠くから、ゆっくり夜が降りてきていた。

スマホを開きたくなった。でも、怖かった。通知はまだ来ていない。それなのに、ポケットの中で握った。また、やめた。

今日の結城さんのこと、まだ考えてる。それだけだった。それだけなのに、頬が熱かった。

マンションの明かりが見えてきた。ポストの影が長く伸びていた。玄関の前で、立ち止まった。夜風が、頬を撫でた。

ブーケの紙袋を、少し抱え直した。花が潰れないように。部屋に帰ったら、水を替えようと思った。


「……ゆっくりでいい」


誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。

四月の夜風が、今日だけは柔らかく感じた。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

これが初投稿の短編になります。


静かな恋の始まりを、ゆっくり書いてみました。

もし少しでも何か感じてもらえたなら、とても嬉しいです。


感想や評価をいただけると、次を書くときの励みになります。

「ここが好きだった」「この場面が気になった」みたいな一言でも大歓迎です。


また読んでもらえるように、少しずつ続けていけたらと思っています。

どうぞよろしくお願いします。

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