告白はしない、まだ早い
低くて、静かな声だった。
『こっちですよ』
目が覚めたとき、まだ暗かった。時計を見る。五時五十分。アラームまで四十分。
その声が、まだ耳の奥にあった。
二度寝するには短いし、起きるには早い。それなのに、なんとなく布団を払った。
洗面台の鏡を見て、少し止まった。
「……うわ」
誰もいないのに。
シャワーを浴びた。湯の音を聞きながら、髪に指を通す。
また浮かんだ。廊下を急ぎ足で歩く音。電話に出る前、一瞬だけ息を吸うところ。席を立つ、静かな背中。
思い出そうとしていないのに、出てくる。
髪を乾かすのに、いつもより時間をかけた。
途中で気づいた。丁寧にしすぎてる。手を止めたけど、やめなかった。
朝食は手をかけた。コーヒーもドリップした。湯気が細く上がっていく。カップを両手で包んで、窓の外を見た。四月の終わりの空は、まだ白っぽかった。
コーヒーを一口飲んだ。少し熱かった。全部、時間があるからだ。そういうことにした。
クローゼットを開けて、手が止まった。淡いワンピース。落ち着いた色。この色を見た瞬間、胸の奥が少し動いた。理由は、まだ言葉にならなかった。
ロビーの明かりが浮かんだ。白くて、少し冷たい光。『もし……迷惑じゃなければ』。息を吸う音。視線がぶれていた。コートのポケットに手を入れて、また出した。あの声が、耳の奥にまだある。
バッグの紐を指でなぞった。理由を考えようとして、やめた。
イヤリングをつけた。メイクに、いつもより時間がかかった。鏡を見た。また鏡を見た。
何やってるんだろ、私。
でも、やめなかった。
バッグの中身を確認した。何度も確認した。財布、ハンカチ、化粧ポーチ、モバイルバッテリー。時計を見ると、待ち合わせまであと一時間あった。
玄関のドアを開けた。四月の朝の空気が顔に当たった。冷たくて、でも日差しは柔らかかった。鍵を握る手が、少し汗ばんでいた。
✿ ✿ ✿
改札から少し離れたベンチに、結城さんが座っていた。スマホはほとんど見ていない。人が通るたびに顔を上げて、そのたびに視線が少し揺れる。まだ約束の時間より、十五分は早いのに。
近づきながら、バッグの紐を握り直した。
なんでこんなに緊張してるんだろ。
膝の上の紙袋を、何度か持ち直してて、遠くからでも落ち着かないのが伝わってきた。……待っていてくれたんだ、と気づいたら、また心臓がうるさくなる。
こちらに気づいた瞬間、慌てたように立ち上がった。
「お待たせしました。遅れてごめんなさい」
「いえ……僕が早く来ただけなので」
耳が、ほんのり赤かった。少し間があって。
「今日が楽しみで、早く起きすぎてしまって」
言ってから、目が落ちる。
「……白石さんも、早かったんですね」
待っていてくれたから、気づいてたんだ。
わかってる。でもその白石さんが、今日一番落ち着かなかった。
「私、人を待たせるのが苦手で。だから、つい」
合理的な理由だった。そういうことにした。
結城さんが、紙袋をそっと持ち直した。
「あの……これ」
ぎこちない動きで、差し出してくる。受け取ると、中には小さなブーケが入っていた。淡いピンクと白の花が、控えめにまとめられている。
「えっ……」
「その……わからなくて」
目が落ちる。
「おかしいかもしれないんですけど……調べたら、こういうの渡した方がいいって書いてあったので」
語尾が、小さくなっていく。
調べてくれたんだ。花よりも、その言葉が落ちた。指先が、温かくなった気がした。
「迷惑なんて……すごく、嬉しいです」
結城さんは、ほっと息を吐いた。目に見えて、肩の力が抜ける。
「……よかった」
困ったように笑う。
「調べたんですけど、おかしかったらどうしようって、ずっと思ってました」
嫌われなかったことに安心してる。そういう顔だった。
風が、花を揺らす。甘い香りがした。花びらに触れる。思っていたより、柔らかかった。
改札のアナウンスが、遠くで流れた。人が、横を通り過ぎた。
結城さんが、紙袋の持ち手を指でなぞっていた。こちらの反応を、まだ気にしてる。
改札の音が、遠くで重なっていた。結城さんが、先に歩き出す。少し遅れて、その隣へ並んだ。
結城さんが、歩幅を合わせようとしてる。でもずれる。また合わせる。またずれる。その繰り返しが、ぎこちなかった。気づいたら、こちらも歩幅を変えていた。思う前に、足が動いていた。
「……これから、どうするんですか?」
自然に聞いていた。結城さんが、驚いたように顔を向けた。
「おまかせでいいですか」
普段は、あまり人任せにしない。でも、そう言えた。
結城さんが、真剣な顔になった。
「……はい」
間があった。
「今日は、しっかり考えてきました」
リード慣れしてる感じじゃなかった。ちゃんとしたかった、が先に来てる。そういう声だった。
✿ ✿ ✿
カフェは、駅から離れた場所にあった。ガラス扉を開けると、コーヒーの香りがした。木の椅子。小さな照明。窓際に、本棚。BGMが、低く流れていた。
「……素敵なお店ですね」
「たまに、ここで本を読んでるんです」
結城さんの肩の力が、少し抜けた。
デートスポットじゃない。この人の居場所だ。そう思ったら、なんか、嬉しかった。
窓際の席に座った。向かい合う。ブーケをどう置くか迷って、テーブルの端にそっと置いた。また見た。なんとなく、また見た。
結城さんが、メニューを開いた。迷ってる。こちらの反応を、横目で見てる。
「私はラテにしようかなって」
「じゃあ……僕も、それにします」
「同じでいいんですか?」
「はい。なんか……その方が安心するので」
口元が、緩んだ。
ラテが運ばれてきた。カップから湯気が立つ。ゆっくり揺れて、消えていく。結城さんが慎重に口をつけた。そこで、動きが止まった。
「……甘かったですか?」
「いえ……でも、美味しいです」
無理してるのが、顔に出てた。合わせてくれたんだ、とわかった。笑いが、漏れた。
結城さんがこちらを見る。
「何か……?」
「いえ」
首を振って、カップを両手で包んだ。まだ温かかった。言わなかった。でも、温かかった。
奥のテーブルで、誰かが笑った。店員が通り過ぎた。BGMが、低く続いていた。
結城さんが、カップの縁を指でなぞった。口を開きかけて、閉じる。また開きかけた。
「……あの」
少し間があった。
「この辺、よく来るんですか」
聞き方が、少しぎこちなかった。話題を選んでる、と伝わってきた。
「たまに。ひとりで来ることが多くて」
「そうですか」
頷いて、またカップに目を落とす。次の言葉を探してる。でも見つからなかったのか、小さく息を吐いた。
うまくいかなかった、と思ってる顔だった。
「……ここで本を読んでるって言ってましたけど。どういう本を読むんですか?」
今度は自分から聞いた。結城さんが、顔を上げた。それから、少しずつ言葉が増えていった。
歴史。建築。古い街並み。倉敷や金沢の写真集。古い喫茶店の本。
話してるうちに、表情がやわらかくなっていく。
こんな顔するんだ。
見ていたら、結城さんが我に返った。
「……すみません」
「いえ」
カップを持ち直した。
「なんか、嬉しかったです」
「嬉しい……?」
「好きなものの話してる結城さん、ちょっと楽しそうだったので」
言ってから、少し恥ずかしくなった。結城さんが黙る。カップの縁を指でなぞる癖が、また目に入った。落ち着かないとき、ああする人なのかもしれない。
「白石さんは……本、読むんですか?」
少し迷った。ロマンス小説が好きだとは、なんとなく言いづらかった。
「……静かな話が好きです」
「静かな?」
「大きいことが起きるというより……寝る前に読むと、少し落ち着けるような。人の気持ちとか、生活を書くような話」
結城さんが、ゆっくり頷く。
「わかる気がします。そういう話、落ち着きますよね」
否定されなかった。それだけで、肩の力が少し抜けた。
結城さんが窓の外へ目を向けた。
「……読んでみたいな」
独り言みたいな声だった。
「白石さんが好きな話」
小さかったけど、ちゃんと聞こえた。カップを持つ手が、少しだけ止まった。
結城さんが、両手でカップを包んだ。指先が、白くなっていた。
「……今日のプランなんですけど、このあと、本屋に行って……それから、公園を歩けたらいいなって」
「いいですね」
自然に笑っていた。
「プラン、ですか」
「え?」
「なんだか……仕事みたいですね」
結城さんが、固まった。
「……仕事みたい、ですか」
「でも、結城さんらしいです」
「僕らしい……?」
「ちゃんと考えてくれてるの、伝わるので」
照れたように目をそらした。カップを置いて、また持ち直す。落ち着かない手が、正直だと思った。
「……楽しそうですね」
「え?」
「プランの話してる時の結城さん」
結城さんが、黙った。
「そう……ですか」
否定しなかった。
窓の外を、人が足早に通り過ぎていく。遠くで、子どもの声がした。沈黙が落ちた。嫌いじゃなかった。
席を立った。トイレの鏡の前で、手が止まった。顔が、熱かった。
リップを塗り直した。スカートを整えた。髪を耳にかけ直した。また鏡を見た。
何やってるんだろ、私。
でも、やめなかった。
結城さんに、どう見られてるんだろ。そこまで考えて、やめた。蛇口をひねって、手を洗った。水が、冷たかった。
✿ ✿ ✿
カフェを出ると、午後の光が街に落ちていた。
本屋は、歩いたところにあった。扉を開けると、紙の匂いがした。息を吸いたくなった。本の匂いは好きだ。落ち着く。
結城さんが、棚の前をゆっくり歩いた。急がなかった。背表紙を一冊ずつ確認するように、目を動かす。手を伸ばしかけて、止める。また別の棚へ。また手を伸ばして、今度は手に取る。裏表紙を読んで、そっと戻した。
本の選び方も、丁寧なんだ。
その横顔を、遠くから見ていた。見ていることに気づいて、棚に目を戻した。手近な背表紙を、なんとなく読んだ。内容は、頭に入らなかった。
棚の前を並んで歩いていると、一冊手に取った瞬間だった。
「あ、それ……」
結城さんが言いかけて、止まった。目をそらす。
「読んだことあるんですか?」
「……はい。その、好きで」
また目が落ちる。食いついたことに、自分で気づいたのかもしれない。
「どんなお話ですか」
「……静かな話で。特別なことは何も起きないんですけど」
間があった。
「でも、読んでいると、自分が何かを大事にできてる気がして」
言ってから、照れたように目を落とした。
こういう言葉が、自然に出てくる人なんだ。
本を裏返す。
……買おう。
本棚の別の段に、目を逃がした。
「……もしよかったら、感想、聞かせてもらえますか」
顔を上げると、結城さんが緊張した顔でこちらを見ていた。
「はい」
自然に答えていた。思わず、口元が動いた。
✿ ✿ ✿
本屋を出て、公園へ向かった。
しばらく、何も言わなかった。結城さんも黙って歩いていた。並んで歩く足音が、アスファルトに落ちる。
ふと、横を見た。結城さんが、口を少し開いた。何か言おうとして、また閉じる。街路樹の影が、二人の足元を横切った。
また口を開いた。
「……この辺、桜が綺麗だったんですよね」
「そうなんですか」
「はい。四月の頭は……もう散ってましたけど」
少し間があった。
「見せたかったな、と思って」
静かな声だった。言ってから、また目が落ちる。先を急ぐように、少し歩幅が広くなった。
追いかけるように、歩幅を合わせた。
言えた、と思った。言えなかったとも、思わなかった。ただ、その一言がどこかに残った。
公園に入ると、木々の間から光がこぼれていた。ベンチに座った。
風が頬を撫でていく。木の葉が揺れる音がした。遠くで、子どもの声がした。鳥が、一度だけ鳴いた。
何も言わなかった。
結城さんが、遠くを見ていた。目を細めて、何かを考えているような。ベンチの木の感触を、指先でなぞった。ざらざらしていた。
また風が来た。木の葉が、まとめて揺れた。
ふと、横顔を見た。目が合いそうになって、膝の上に目を落とした。指を組んだ。少しして、また見た。結城さんはまだ遠くを見ていた。でも、こちらを見ようとして、やめた気がした。また目を落とした。
誰かとこんなふうに黙っていられたのは、いつぶりだろう。その問いに、答えを出さなかった。
「……なんだか、落ち着きますね」
「はい。こういう場所が好きなんです。静かで……気持ちが整理できるというか」
「結城さんらしいですね」
「えっ……らしい、ですか?」
「静かで、丁寧で」
結城さんは目をそらした。
「……そんなふうに言われたの、初めてです」
「本当ですか?」
「はい。僕……あまり、いいところがないので」
自己卑下じゃなかった。本気でそう思ってる、素直さだった。
そんなことない、と思った。でも言葉にすると、説明みたいになる気がした。
「……私は、そう思ってないです」
結城さんは驚いたようにこちらを見た。それから、ゆっくりと息を吸って。
「……ありがとうございます」
今日いちばん柔らかな声だった。その声のまま、結城さんが目を落とす。
ふと、また横顔を見た。結城さんが、こちらに目を向けようとした。でも、向けきれなかった。また遠くへ。また、こちらへ。今度は、少しだけ長かった。目が合う前に、目を落とした。
自分から見ていいのか、迷ってるのかな。なんとなく、そう思った。思ってから、手が止まった。理由は、考えなかった。
✿ ✿ ✿
公園を出て歩いたところで、結城さんがぎこちない動きでバッグを持ち直した。
ぱさり、と乾いた音がして、何かが地面に落ちた。小さな黒いノートだった。文庫本より少し小さくて、角が擦れてる。ペンが挟まっていたせいで、開いたまま止まった。結城さんは、まだ気づいていない。
しゃがんで、拾った。
開いたページに、細かい文字がびっしり並んでいた。
見てはいけない。
でも、目が吸い寄せられた。
『※告白はしない(まだ早い)』
最後の一行で、手が止まった。
こんなに細かく、丁寧に、今日のことを考えてくれてた。
嫌われないように。頑張りすぎないように。でも、手は抜かないように。
読んでいたら、喉の奥が詰まってきた。
この人、ずっとこうやって生きてきたんだ。迷惑をかけないように、嫌われないように。怖いから、準備する。その跡が、このノートに全部あった。
「結城さん、落ちましたよ」
声をかけると、振り返った結城さんの顔が、開いたノートを見た瞬間に固まった。
「あっ……!」
「み、見ないでください……!」
慌ててノートを閉じる。耳まで赤くなっていた。指が、震えていた。
「す、すみません……その……」
言葉が続かない。ノートを胸元へ寄せる。隠すように持つ。
間があった。
「……変、ですよね」
怒りじゃなかった。恥ずかしさと、嫌われる恐怖。その二つが混ざった声だった。
「……すごいですね」
結城さんが顔を上げた。
「え……?」
「こんなに考えてくれてたんだって……なんだか、すごく……嬉しいです」
目の奥が、熱かった。
「……見られたら、嫌われるかと思いました」
「どうしてですか?」
「だって……普通、こんな細かく予定を立てるなんて……」
言葉が止まった。
「重いって、思われるかもしれないし……」
「重くなんて、ないです」
ノートをそっと返した。
「むしろ……」
喉で止まった。でも、これは嘘じゃない。
「……可愛いです」
言ってから、自分でも恥ずかしくなった。
結城さんが、固まった。
「か、可愛い……?」
処理できていない顔だった。
「こんなに真面目に考えてくれてたんだって思ったら……」
言葉が続かなくて、目を落とした。
結城さんは、しばらく黙っていた。それから小さく息を吐いた。
「……ありがとうございます」
声が、少し震えていた。今日いちばん柔らかい声だった。
「あ、その……飲み物、買ってきます」
逃げるように、自販機へ向かった。その背中から、目が離せなかった。気づいたら、笑ってしまっていた。
飲み物を持って戻ってきた結城さんに、気づいたら言っていた。
「その……わがまま言っていいですか」
「え?」
「今日は……もう少し、行き当たりばったりで歩いてみたくて」
結城さんがきょとんとした顔をした。
「その……プランも嬉しいです。すごく嬉しかったです。でも、プランの外にも、連れて行ってほしいというか……」
沈黙が落ちた。結城さんは困ったような顔で、ノートに目を落とした。
「プランがなくても、大丈夫ですよ」
ゆっくりと顔を上げた。不安そうで、でも何かが解けていくような表情だった。
「……じゃあ」
間があった。
「あそこに、雑貨屋があって……前から、気になってたんですけど。一人で入るのは、ちょっと気まずくて……」
「行きましょう」
即答すると、目を瞬かせた。
「……いいんですか?」
「もちろんです」
息を吐いて、歩き出した。さっきまでとは、違う歩き方だった。
✿ ✿ ✿
雑貨屋のドアを開けると、入口のベルが鳴った。木の匂いがした。照明は暗め。音楽が、低く流れていた。棚の間隔が狭くて、自然と距離が近くなる。
ふわっと見て回った。ガラス小物。木製雑貨。文房具。食器。布小物。
会話は途切れ途切れだった。でも、気まずくなかった。
結城さんが、実用品の棚で足を止めた。ブックスタンド。木製の小物入れ。ペン立て。
「これ、便利そうですね」
笑いそうになった。
「結城さん、こういうの好きなんですね」
「長く使えそうなの、結構好きで」
また別の雑貨へ。
「これ、デスクにあると便利そうです」
「結城さんのデスク、なんとなく想像つきます」
会社の結城さんじゃなくて、生活してる結城さんが見えてくる。不思議と、それが嫌じゃなかった。
ひとつの棚の前で、足が止まった。小さなガラスの置物が並んでいた。光が当たると、淡い色が揺れる。
「……きれい」
無意識に零れた。
結城さんが、その反応を見ていた。置物ではなく、こちらを見ていた。目が合いそうになって、棚に目を戻した。
文房具のコーナーで、結城さんがノートの紙を指で触れた。
「……書きやすそうですね。インクが滲まなさそうで」
あのノートを、思い出した。赤線。読み返した跡。小さな文字。でも言葉にはしなかった。
「結城さん、ノートが好きなんですか?」
「はい。考えを整理するのに、書かないと落ち着かなくて」
だから、あのノートも。
「……素敵ですね」
「え?」
「ちゃんと考えて、丁寧に向き合うところ。すごく……いいと思います」
結城さんは固まった。ゆっくりと目を落とした。
「……そんなふうに言われたの、初めてです」
その声が、少し掠れていた。
陶器のマグを、結城さんが両手で包むように持った。しばらく眺めて、そっと棚に戻す。マグを戻す手つきまで、結城さんらしかった。
「こういうの、落ち着きますよね」
間があった。
「派手じゃないけど、毎日使っても飽きなさそうで」
この人の部屋。デスク。生活。少しずつ想像できた。そこまで考えて、棚の別の場所に目を移した。
なんで想像してるんだろ。
でも、嫌じゃなかった。それだけはわかった。
帰ろうとしたとき、結城さんの足が止まった。迷うように、また棚へ戻っていく。目で追った。さっきガラスの置物を見ていた棚だった。置物を一つ手に取って、そのままレジへ向かった。
何も言わなかった。聞かなかった。自分用なんだろう、となんとなく思った。でも、その横顔から目が離せなかった。
なんでだろ。
その答えは、出さないでおいた。
✿ ✿ ✿
店を出ると、夕方の光が街に落ちていた。空気がひんやりとして、夜を感じさせた。
「駅まで……歩きましょうか」
結城さんが、控えめに言った。頷いた。
街路樹の葉が風に揺れて、アスファルトの熱が冷めていく匂いがした。歩幅が、自然に合っていた。隣を歩く足音が、自分のと混ざった。
駅が近づいてきた頃、結城さんが何度か口を開いた。
「……あの」
すぐに閉じる。
頭の中に、ノートの最後の一行が浮かんだ。
『※告白はしない。まだ早い。』
それなのに、今、言おうとしてる。プランを破ろうとしてる。
また口を開いた。
「……今日、その……」
また、止まる。
何も言わなかった。ただ、隣を歩いた。
駅の入り口まであと少し、というところで、結城さんが立ち止まった。風が吹いて、前髪が揺れる。
「……僕」
声が、少し震えてた。こちらを見ようとして、目がぶれる。でも一度だけ息を吸って、まっすぐ見た。
「白石さんのことが……好きです」
頭の奥が、一瞬静かになった。
「言うの、すごく怖かったんですけど……あなたと歩いてたら、どうしても言いたくなってしまって」
誤魔化さない声だった。
ノートの最後の一行が、浮かんだ。
『※告白はしない(まだ早い)』
結局、言ってる。
そう思ったのに、笑えなかった。
駅のアナウンスが流れた。人が横を通り過ぎた。
結城さんは動かなかった。距離も詰めない。ただ、待っていた。
言葉が、すぐには入ってこなかった。地面のタイルを見た。結城さんの靴が、少しも動かない。
逃げないで待ってるんだ。
ゆっくり顔を上げた。思っていたより、ずっと不安そうな顔だった。
「……迷惑じゃ、ないです」
気づいたら、先にそう言っていた。
「好きって言えるほど、まだ自信はないんですけど」
喉の奥が、熱かった。
「今日、すごく落ち着いてて。こんなふうに誰かといたいって思ったの、久しぶりで」
言ってから、自分で驚いた。本当のことを言ってしまった、と思った。
「だから……ゆっくり、仲良くなれたら」
結城さんは、しばらく黙っていた。それから、ゆっくり息を吐いた。
「……ありがとうございます……、急がないです。あなたのペースで」
頷いた。
「……はい」
その一言で、結城さんの肩からふっと力が抜けた。夕方の風が、二人の間を通り抜けた。
✿ ✿ ✿
改札の前で立ち止まった。
「……じゃあ、ちゃんと連絡します」
緊張した声だった。
「はい。待ってます」
自然にそう言えた。
結城さんは頷いた。それから、反対側の改札へ向かった。人混みの向こうへ、少しずつ遠ざかる背中。しばらく、その背中を見ていた。
電車がホームへ入ってくる音がした。風。ブレーキ音。アナウンス。扉が閉まった。見えなくなった。
胸の奥が、静かになった。でも、別の熱が残った。
電車に乗った。窓の外を、街が流れていく。夕方から夜へ変わる途中の色だった。
ブーケの紙袋を、膝の上に置いた。軽いはずなのに、妙に存在感があった。窓に映る自分の顔を、なんとなく見た。すぐに目を逸らした。
頭の中に、今日のことが浮かんでは消えた。
ノートの細かい文字。ラテを飲んだときの困った顔。歩幅を合わせようとした、ぎこちない足。桜が見せたかったと言ってから、少し歩幅が広くなったこと。
順番なんてばらばらで、同じところを何度も思い出してしまう。電車が揺れて、紙袋が膝の上で小さく動いた。
また、最後の一行が浮かぶ。
『※告白はしない(まだ早い)』
思い出した瞬間、口元が少しだけ緩んだ。
……結局、言ってたのに。
窓の外は、もうほとんど夜だった。
最寄り駅を降りて、歩き出した。街灯が灯り始めていた。夜になる前の空。まだ青い。でも遠くから、ゆっくり夜が降りてきていた。
スマホを開きたくなった。でも、怖かった。通知はまだ来ていない。それなのに、ポケットの中で握った。また、やめた。
今日の結城さんのこと、まだ考えてる。それだけだった。それだけなのに、頬が熱かった。
マンションの明かりが見えてきた。ポストの影が長く伸びていた。玄関の前で、立ち止まった。夜風が、頬を撫でた。
ブーケの紙袋を、少し抱え直した。花が潰れないように。部屋に帰ったら、水を替えようと思った。
「……ゆっくりでいい」
誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。
四月の夜風が、今日だけは柔らかく感じた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
これが初投稿の短編になります。
静かな恋の始まりを、ゆっくり書いてみました。
もし少しでも何か感じてもらえたなら、とても嬉しいです。
感想や評価をいただけると、次を書くときの励みになります。
「ここが好きだった」「この場面が気になった」みたいな一言でも大歓迎です。
また読んでもらえるように、少しずつ続けていけたらと思っています。
どうぞよろしくお願いします。




