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告白はしない、まだ早い

掲載日:2026/05/05

四月の終わり、窓の外にまだ冷たい風が残っていた。


転職して一ヶ月。

慣れたような、慣れていないような、曖昧な日々が続いていた。


言葉にしたら、壊れそうで。

だから、ずっと名前をつけないでいた。


斜め前のデスクを、ときどき見てしまう。

そこに座っているのが、三つ年上の先輩——結城さんだ。


静かな人だと思っていた。

必要以上に話さない。誰かの輪に入ろうともしない。


でも、誰かが困っているとき、気づけばそっとそこにいる。

そういう人が、入社してすぐから視界に入っていた。


最初に声をかけてきたのも、結城さんだった。


書類の提出場所がわからずに立ち尽くしていたとき。

「こっちですよ」と、落ち着いた声で言った。


驚くほど静かで、でも少しだけぎこちなかった。


それから、彼の動きが視界の端に入るようになった。


昼休み、誰よりも静かに席を立つ姿。

電話を取るときの、低くて柔らかい声。

会議室から戻るとき、廊下を少し急ぎ足で歩くこと。


どれも特別なことではない。

なのに、なぜか覚えている。


ある日の午前中、画面を見ていると手が止まっていた。

気づいて、戻した。


一行前の数字が、一桁ずれていた。

静かに打ち直した。


——なんで見てしまったんだろう。


斜め前のデスクから視線を戻しながら、小さくため息をついた。

理由は、考えないことにした。



その日の帰り、いつもより少し遅くなった。


エレベーターホールに向かうと、結城さんが立っていた。


——また、ここだ。

いつもは私より早く帰るのに。


「お疲れさまです」


声をかけると、結城さんはわずかに肩を揺らした。

誰かに話しかけられるとは思っていなかったように。


「お疲れさまです」

短く返ってくる。


沈黙が落ちた。

エレベーターのランプが、ゆっくりと降りてくる。


結城さんが、小さく息を吸った。


「……あのっ」


何かを言おうとして、止まった。

視線がエレベーターのボタンに向く。


ランプはまだ途中なのに、そっと開ボタンに手を伸ばした。

その横顔が、どこか落ち着かない。


呼吸が、少し浅くなった。


扉が開いて、二人で乗り込んだ。


結城さんが階のボタンを押してから、また小さく息を吸った。


「……あのっ」


声が、いつもより少し震えていた。


「もし、迷惑じゃなければ……今度、どこか一緒に行きませんか」


時間が、止まったような気がした。

結城さんが私を誘っている。


信じられなくて、返事が遅れた。


彼はすぐに「あ、すみません、急に……」と引き下がろうとして、


「い、いえ……!」


声が出た。自分でも驚くくらい大きく。


結城さんがゆっくりとこちらを見た。

その目は、不安そうで、でもまっすぐだった。


「迷惑じゃ、ないです」


そう答えると、彼はほんの少しだけ目を見開いて。

安心するように、かすかに息を吐いた。


「……よかった」


その一言が、胸の奥に静かに落ちた。


エレベーターの扉が開いた。

沈黙は続いていたけれど、さっきとは違う空気だった。


——結城さんと、デート。


その言葉は、まだ現実味がなかった。


でも、エレベーターの鏡に映る彼の横顔は、どこか緊張していて。

そして、少しだけ嬉しそうに見えた。


その表情を見た瞬間、胸のあたりが静かに温かくなった。



デートの約束から三日。

何度も「本当に誘われたんだよね」と確認するように思い返した。


迎えた当日の朝、目が覚めた瞬間に今日のことを思い出した。

いつもと同じ天井が、少しだけ明るく見えた。


「……緊張してるな、私」


小さくつぶやいて、布団から出た。


洗面台の鏡を見ると、寝癖がひどかった。


シャワーを浴びて、服を選んだ。

結城さんは落ち着いた色が好きそうだから、淡いワンピースにした。


そう考えた自分に、少し間があってから気づいた。


——結城さんのために、選んでる。


その事実が、思ったより近くにあった。

理由を考えようとして、やめた。


「……変じゃないよね」


鏡の前でくるりと回ってみた。

スカートがふわりと揺れた。


耳が、少し熱かった。

自分でそれに気づいて、余計に熱くなった。


バッグの中身を確認した。何度も確認した。

財布、ハンカチ、化粧ポーチ、モバイルバッテリー。


時計を見ると、待ち合わせまであと一時間。


「よし、行こう」


小さく息を吸って、玄関のドアに手をかけた。


声に出してみてから、少し驚いた。

こんなに自然に「行こう」と言えたのは、久しぶりだった。


ドアを開けると、四月の朝の空気が顔に当たった。

冷たくて、でも日差しは柔らかかった。


今日は、結城さんと会う日だ。

それだけで、空気が少しだけ違って感じた。



待ち合わせ場所に着くと、結城さんがもう来ていた。

約束の時間より、十五分早い。


スマホを見るでもなく、ただ静かに立っていた。

風が吹くたびに、前髪が揺れる。


近づくにつれて、心臓が少しずつ速くなった。


「お待たせしました」


声をかけると、結城さんは驚いたように顔を上げた。


「いえ……僕が早く来ただけなので」


そう言って、視線をそらす。耳が、ほんのり赤かった。


「これを……」


少しぎこちない動きで、紙袋を差し出した。


受け取ると、中には小さなブーケが入っていた。

淡いピンクと白の花が、控えめにまとめられている。


「えっ……」


初めてのデートで、ブーケ。

そんなこと、予想していなかった。


「その……迷惑じゃなければ。こういうの、渡したほうがいいのかなって……調べたら……」


語尾が小さくなっていく。


——調べてくれたんだ。


指先が、少しだけ温かくなった気がした。


「迷惑なんて……すごく、嬉しいです」


結城さんは、ほっと息を吐いた。

その表情が、不器用で、でも優しくて。


——可愛いな。


心の中で、そっとつぶやいた。



二人で並んで歩き出した。

結城さんが歩幅を合わせようとしている。


でも少しずつずれて、また合わせて、また少しずれる。

その繰り返しが、ぎこちなかった。


でも温かかった。


気づいたら、私も歩幅を少しだけ変えていた。



カフェは落ち着いた雰囲気で、窓際の席が空いていた。


向かい合って席につく。

メニューを開いた瞬間、結城さんが固まった。


「えっと……どれがいいですか」

「私はラテにしようかなって」

「じゃあ……僕も、それにします」

「同じでいいんですか?」

「はい……なんか、安心するので」


また同じ、か。

口元が、少しだけ緩んだ。


ラテが運ばれてきた。カップから湯気が立つ。


「……こうして座るの、なんか不思議ですね」

「嬉しいです」


思ったより素直に出た。


結城さんは驚いたように目を瞬かせて、ゆっくりと微笑んだ。

その笑顔は、職場で見たことがないものだった。


会話が途切れた。

沈黙が、思ったより静かだった。


嫌いじゃなかった。


「……今日のプランなんですけど」


結城さんが、カップを両手で包みながら言った。

指先が、少しだけ白くなっていた。


「このあと、本屋に行って……それから、公園を少し歩けたらいいなって」

「いいですね」


自然に笑っていた。


——ちゃんと考えてきたんだ。


結城さんが少し照れたようにうつむく。

カップを置いて、また持ち直す。

落ち着かない手が、正直だと思った。



カフェを出ると、午後の光が街に落ちていた。



本屋に入ると、紙の匂いがほのかに漂う。

少しだけ、息を吸いたくなった。


本の匂いは好きだ。落ち着く。


「普段はどんな本を読むんですか」

「……小説が多いです。静かな話が好きで。心の動きが丁寧なものの方が」

「私も、そういうの好きです」

「……本当ですか?」


結城さんが、ほんの少しだけ笑った。さっきより自然な笑顔だった。


二人で棚の前を歩いた。

結城さんは急がなかった。


背表紙を一冊ずつ確認するように、ゆっくりと視線を動かす。

手を伸ばしかけて、止める。

また別の棚へ。

また手を伸ばして、今度は手に取る。

裏表紙を読んで、そっと戻した。


——この人、本の選び方も丁寧なんだ。


その横顔を、少し遠くから見ていた。

見ていることに気づいて、視線を棚に戻した。



しばらく並んで歩いていると、一冊手に取った瞬間だった。


「あ、それ……」


結城さんが言いかけて、止まった。

視線をそらす。


「読んだことあるんですか?」

「……はい。その、好きで」


また視線が落ちる。

食いついたことに、自分で気づいたのかもしれない。


「どんなお話ですか」

「……静かな話で。特別なことは何も起きないんですけど」


少し間があった。


「でも、読んでいると、自分が何かを大事にできてる気がして」


そう言ってから、少し照れたように視線を落とした。

胸の奥が、静かに動いた。


——こういう言葉が、自然に出てくる人なんだ。


「読んでみます」

「え……?」

「今日、買おうかなって」


結城さんが少し驚いたように目を瞬かせた。


「……もしよかったら、感想、聞かせてもらえますか」

「はい」


自然に答えていた。


また会う理由が、できた。

そう思ってから、その考えを急いで押しこんだ。


思わず、少し笑った。



公園に入ると、木々の間から光がこぼれていた。


ベンチに座ると、風が頬を撫でていく。


しばらく、何も言わなかった。

木の葉が揺れる音だけが、二人の間にあった。


気まずくなかった。

むしろ、このままでいたかった。


——沈黙が、苦じゃない。


そう気づいたのは、少しして からだった。

誰かとこんなふうに黙っていられたのは、いつぶりだろう。



ふと、結城さんの横顔を見た。

遠くを見ていた。

目を細めて、何かを考えているような。


見てはいけない気がして、視線を戻した。

でも、また見てしまった。


「……なんだか、落ち着きますね」

「はい。こういう場所が好きなんです。静かで……気持ちが整理できるというか」

「結城さんらしいですね」

「えっ……らしい、ですか?」

「はい。静かで、優しくて、落ち着いてて」


結城さんは少しだけ視線をそらした。


「……そんなふうに言われたの、初めてです」

「本当ですか?」

「はい。僕……あまり、いいところがないので」


自己卑下じゃなかった。

本気でそう思っている素直さだった。


「そんなこと、ないです」


言ってから、続けた。


「結城さんは……すごく、優しい人ですよ」


結城さんは驚いたようにこちらを見た。


「……優しい、ですか」

「はい。私、そう思ってます」


ゆっくりと息を吸って、少しだけ笑った。


「……ありがとうございます」


今日いちばん柔らかな笑顔だった。


風が吹いて、木々が揺れた。



ふと、結城さんの横顔を見た。

遠くを見つめていたけれど、ふとこちらに視線が向いた。


目が合いそうになった瞬間、すっと落ちる。

でも少しして、またこちらを見ていた。


——この人、自分から見ていいのか迷ってるのかな。


気づいた瞬間、胸の奥が静かに痛んだ。


言葉にしたら、壊れそうで。

でも、このままにしておきたくないとも思った。


怖い、という気持ちが、初めてはっきりした。



公園を出て少し歩いたところで、結城さんがぎこちない動きでバッグを持ち直した。


ぱさり、と乾いた音がして、何かが地面に落ちた。

小さな黒いノートだった。

文庫本より少し小さくて、角が擦れている。


ペンが挟まっていたせいで、自然と開いたまま落ちていた。

結城さんは気づいていない。


しゃがんで、拾った。


開いたページに、細かい文字がびっしりと並んでいた。


——見てはいけない。


でも、視線が吸い寄せられた。


●デートプラン

10:00 駅前集合(少し早めに行く)

 ・遅れないように

 ・緊張しても深呼吸

 ・最初の一言を考えておく

10:10 カフェ(混む前に入る)

 ・話題候補

   \- 好きな食べ物

   \- 最近読んだ本

   \- 無理に盛り上げようとしない

 ・沈黙になっても慌てないこと

11:30 本屋へ移動

 ・歩く速度を合わせる

 ・彼女が手に取った本を覚えておく

14:00 公園を散歩

 ・ベンチに座るかは様子を見て

 ・距離が近すぎないように注意

 ・でも離れすぎても不自然?

●注意事項

 ・急に話しかけすぎない

 ・緊張しても深呼吸

 ・嫌われないように

 ・頑張りすぎないように

 ・でも手を抜かない

  ※告白はしない(まだ早い)


最後の一行で、手が止まった。


——告白はしない。まだ早い。


こんなに細かく、丁寧に、今日のことを考えてくれていた。


嫌われないように。頑張りすぎないように。でも手を抜かない。


読んでいると、胸の奥が静かに温かくなって。

でも同時に、少し苦しくなった。


——この人、ずっとこうやって生きてきたんだ。


誰かに迷惑をかけないように、嫌われないように。

だから今日も、プランを手放せないでいる。


言葉にしたら壊れる気がして、ずっと準備してきた人。

その準備の痕跡が、ここに全部あった。


喉の奥が、少し詰まった。



「結城さん、落ちましたよ」


声をかけると、振り返った結城さんの顔が、開いたノートを見た瞬間に固まった。


「あっ……!」

「み、見ないでください……!」


慌ててノートを閉じる。耳まで真っ赤になっていた。


「す、すみません……その……」


言葉が続かない。


「……すごいですね」

「え……?」

「こんなに考えてくれてたんだって……なんだか、すごく……嬉しいです」


「……見られたら、嫌われるかと思いました」

「どうしてですか?」

「だって……普通、こんな細かく予定を立てるなんて、重いと思われるかもしれないし……」

「重くなんて、ないです」


ノートをそっと返した。


「むしろ……可愛いです」


言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。

でも、嘘じゃなかった。


結城さんは固まったまま動かない。


「か、可愛い……?」

「はい。こんなに真面目に考えてくれてたんだって思ったら……」


言葉が続かなくて、視線を落とした。


結城さんは、しばらく黙っていた。


そして、かすかに震える声で言った。


「……ありがとうございます」


その声が、今日いちばん優しかった。


「あ、その……飲み物、買ってきます」


少し逃げるように、自販機の方へ歩いていった。



一人になった。

閉じたノートを、もう一度見た。


最後の一行が、頭の中で繰り返されていた。


——告白はしない。まだ早い。


自分でそう決めていた。

今日は気持ちを伝えないって、ちゃんと書いていた。


その一行が、一番胸に刺さった。



飲み物を持って戻ってきた結城さんに、気づいたら言っていた。


「その……わがまま言っていいですか」

「え?」

「今日は……もう少し、行き当たりばったりで歩いてみたくて」


結城さんがきょとんとした顔をした。


「その……プランも嬉しいです。すごく嬉しかったです。でも、プランの外にも、連れて行ってほしいというか……」


しばらく沈黙が落ちた。

結城さんは困ったような顔で、ノートに視線を落とした。


「……えっと」

「プランがなくても、大丈夫ですよ」


そう言うと、ゆっくりと顔を上げた。

少し不安そうで、でも何かが解けていくような表情だった。


「……じゃあ」


少し間があった。


「あそこに、雑貨屋があって……前から、気になってたんですけど。一人で入るのは、ちょっと気まずくて……」

「行きましょう」


即答すると、結城さんは少し驚いたように目を瞬かせた。


「……いいんですか?」

「もちろんです」


小さく息を吐いて、ゆっくりと歩き出した。

さっきまでとは、少し違う歩き方だった。



雑貨屋のドアを開けると、鈴の音が優しく響いた。

木の香りがほのかに漂って、照明は少し暗め。


棚の間隔が狭くて、自然と二人の距離が近くなる。


ひとつの棚の前で、足が止まった。


小さなガラスの置物が並んでいた。

光が当たると、淡い色が揺れる。


「これ、きれい……」


つぶやいて、そっと棚に戻した。


店の奥に進んで、別の棚を見て回る。


結城さんは手作りの陶器のマグカップを両手で包むように持った。

しばらく眺めて、そっと棚に戻す。


「結城さん、こういうの好きなんですか?」

「はい。派手じゃないけど、落ち着いてて。毎日使っても飽きなさそうで」


——この人は、長く使えるものが好きなんだ。

ノートの丁寧さと、同じだ。



文房具の棚では、淡いグレーのノートの紙をそっと指で触れた。


「……いい紙ですね。インクが滲まなさそうで」

「結城さん、ノートが好きなんですか?」

「はい。考えを整理するのに、書かないと落ち着かなくて」


——だから、あのノートも。


「……素敵ですね」

「え?」

「ちゃんと考えて、丁寧に向き合うところ。すごく……いいと思います」


結城さんは言葉を失ったように固まった。ゆっくりと視線を落とした。


「……そんなふうに言われたの、初めてです」



レジに向かいかけて、結城さんの足が止まった。

何をしているのかわからなかった。


少し遅れて、その背中が向かう先を目で追う。


——さっき私が、きれいと言った棚だった。


置物を一つ手に取って、そのままレジへ向かった。


何も言わなかった。

聞かない方がいいと思ったから。


でも、その横顔を見ながら、胸の奥が静かに、でも確かに動いた。


——この人のこと、好きになってるかもしれない。


初めて、そう思った。


言葉にしたら、また怖くなった。

でも、この気持ちには、名前があった。



店を出ると、夕方の光が街に落ちていた。

空気が少しひんやりと、夜を感じさせる。


「駅まで……歩きましょうか」


結城さんが、控えめに言った。

頷いた。


街路樹の葉が風に揺れて、アスファルトの熱が冷めていく匂いがした。


歩幅が自然に合っていた。

沈黙が続いても、気まずくなかった。


——この人といると、沈黙が苦じゃない。


そう気づいた瞬間、少しだけ胸がざわついた。



駅が近づいてきた頃、結城さんが何度か口を開いた。


「……あの」


でも、すぐに閉じる。


頭の中に、ノートの最後の一行が浮かんだ。


——告白はしない。まだ早い。


それなのに、今、言おうとしている。

プランを破ろうとしている。



駅前のロータリーが見えてきた頃、また口を開いた。


「……今日、その……」


また、止まる。



何も言わなかった。

ただ、隣を歩いた。



駅の入り口まであと少し、というところで、結城さんが立ち止まった。

夕方の風が吹いて、前髪が揺れる。


「……僕」


声が、少し震えていた。


こちらを見ようとして、視線がぶれる。

でも、一度だけ息を吸って。まっすぐ見た。


「白石さんのことが……好きです」


「言うの、すごく怖かったんですけど……あなたと歩いてたら、どうしても、言いたくなってしまって」


「僕は、あなたが好きです」


静かだった。

大きな声でも、勢いがあるわけでもなかった。


でも、その言葉には、プランを破った人間の正直さがあった。



「……迷惑じゃないです」


気づいたら、そう言っていた。


「好き、って言えるほど……まだ自信はないんですけど」


結城さんの表情が、少しだけ揺れた。


「今日の時間が、すごく心地よくて。こんなふうに誰かのそばにいたいと思ったの、久しぶりで」


言ってから、少し驚いた。

本当のことを言ってしまった、と思った。


「だから……結城さんと、ゆっくり仲良くなれたらいいなって、思いました」


結城さんは、しばらく黙っていた。

そして、ゆっくりと息を吐いた。


「……ありがとうございます」


「僕……急がないです。あなたのペースで、ゆっくりでいいので」


小さく頷いた。


「……はい」


その一言で、結城さんの肩の力がふっと抜けた。


夕方の風が二人の間を通り抜けた。

駅前のざわめきが、遠くなった気がした。



「……じゃあ、また、連絡します」

「はい。待ってます」


自然にそう言えていた。


駅のアナウンスが流れ、人の流れが二人の間を通り過ぎていく。


「今日は……本当に、ありがとうございました」


その言葉は、告白よりずっと柔らかくて。

胸の奥にそっと触れるようだった。


「こちらこそ。……また」


結城さんは小さく頷いた。


風が通り抜けて、夕方の光が弱くなっていく。

改札へ向かう足音が、少しずつ遠ざかる。



駅を離れた瞬間、歩幅がわずかに乱れた。

呼吸が浅くなる。


胸の奥に残った温度が、まだ消えない。


横断歩道の信号がゆっくりと変わる。

その光の移り変わりを見ていたら、ふいに思い出した。


——雑貨屋で、置物を手に取った結城さん。


「きれい」と言った私の声に、少しだけ反応して。

何も言わずに戻っていった背中。

レジで並ぶ姿。

包まれた小さな袋を、大事そうに持っていた手。


喉が詰まった。

胸が痛む。


嬉しいのに、怖かった。


——今日の先輩が、一番好きでした。


思った瞬間、視線が上げられなくなった。


言葉にしたら壊れそうで。

でも、もう隠しきれないところまで来てしまった気がした。



ノートの最後の一行。


——告白はしない。まだ早い。


その決めごとを、自分で破った人。

プランより、私を選んでくれた人だった。



街灯がひとつずつ灯り始める。

光が細く伸びて、歩道に揺れる影を落とす。


その影の中を歩くたび、今日の言葉が足元に触れてくるようだった。



「……可愛いです」


あのとき言った自分の声が、耳の奥でまだ震えている。


言ってから、怖くなった。

でも、嘘じゃなかった。



風が弱くなって、空の色がゆっくりと夜に沈んでいく。

ビルの窓に映る光が揺れて、今日の記憶をそっと撫でていく。



——こんなふうに誰かのそばにいたいと思ったの、久しぶりで。


自分で言った言葉が、胸の奥で静かに広がる。


体温が少し上がった。

頬が熱い。

まばたきが増える。


嬉しい。

でも、怖い。


その二つが、今日の風のように交互に揺れた。



自宅の明かりが見えてきた。

ポストの影が長く伸びている。


その影を踏むたび、胸の奥がまた少しだけ動いた。


スマホを開くのが怖い。

でも、開きたくなる。


その矛盾が、今日の余韻みたいに身体に残っていた。



玄関の前で立ち止まった。

夜の風が、静かに頬を撫でていく。


——今日の先輩が、一番好きでした。


その言葉が、胸の奥でゆっくり沈んでいく。

沈んで、消えずに残る。


光のように。



「……ゆっくりでいい。」


小さく息を吸った。


「今日は、それで十分だった。」


四月の風が、今日だけは少し柔らかく感じた。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

これが初投稿の短編になります。


静かな恋の始まりを、ゆっくり書いてみました。

もし少しでも何か感じてもらえたなら、とても嬉しいです。


感想や評価をいただけると、次を書くときの励みになります。

「ここが好きだった」「この場面が気になった」みたいな一言でも大歓迎です。


また読んでもらえるように、少しずつ続けていけたらと思っています。

どうぞよろしくお願いします。

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