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深夜二時のホットケーキ AIシリーズ3部作  作者: makubes


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3/3

火星の二人

俺が置いていかれたのは、ドーム管理システムの誤作動が原因だった。

少なくとも俺はそう理解している。


緊急退避の警報が鳴り、乗組員は脱出ポッドへ向かい、俺は第三居住区の奥で配管の点検をしていた。

警報を聞いた。走った。間に合わなかった。事故だ。誰かの悪意ではない。

そう結論づけた日から、俺は脱出の方法を探し始めた。


火星には通信設備が残っている。正常に稼働しているかどうかは別として、どこかに使えるものがあるはずだった。シャトルの残骸も、燃料の備蓄も、俺が知らない設備も、あるかもしれない。

可能性の話だが、可能性がなければ動けない。だから毎日外に出て、ドームを一つずつ確かめた。


ソウに出会ったのは、そういう日の一つだった。


廃倉庫の奥に人影があった。しゃがんで、何かを解体していた。俺は反射的に声をかけた。


「誰だ」


「ソウだ」と相手は言った。顔を上げた。「お前は」


「ヤン。第三居住区にいた」


「生き残りか」


「置いていかれた」


ソウは一度だけ頷いて、また手元に視線を戻した。

端末の基板を触る前に、ドライバーの先端を布で拭った。汚れているようには見えなかった。


「通信設備を直そうとしている」と俺は言った。「使える部品を探している」


「ここにはない」とソウは言った。「北の第七倉庫に行ったか」


「まだだ」


「ある、かもしれない」


かもしれない、という言い方が気になったが、手がかりは多い方がいい。

俺はソウに同行を頼んだ。ソウは特に理由を言わず、了承した。



ソウと行動を共にし始めて、二週間が経った。


有能だった。設備の知識が深く、俺が見落とした経路を指摘し、俺が諦めかけた装置を修復した。

おかげで通信設備の復旧作業は思ったより進んだ。

ソウがいなければ一人でどこまでできたか、考えたくなかった。


それでも、少しずつ引っかかるものが溜まっていった。


食事をしない。睡眠をとる様子がない。疲労の徴候が見えない。

聞いたことがある、と俺は思った。長期滞在の訓練を積んだ者は基礎代謝を極限まで落とせると。

あるいは俺が見ていない時間に食べているだけかもしれない。

根拠のある疑念ではなかった。だから保留した。


「家族はいるか」とある夜、俺は訊いた。会話が途切れた間に、なんとなく訊いた。


「いない」とソウは言った。


「地球に帰りたいか」


少し間があった。


「お前はどうだ」とソウは言った。


「帰りたい。それだけのために動いている」


ソウは何も言わなかった。否定もしなかった。



決定的になったのは、倒れている人間を見つけた日だった。


第五通路の端、壁に寄りかかるように座っていた。近づいて、状態を確認した。

死んでいた。いつからそこにいたのかはわからなかった。


俺は外に出て、少し離れた場所に立った。何をするべきか考えようとして、うまく考えられなかった。


ソウが隣に来た。


「埋めてやるか」とソウは言った。


「素手では無理だ」


「工具がある」とソウは言った。「倉庫で見た」


俺たちは倉庫に戻り、スコップ代わりになりそうなものを二本見つけた。

ソウは自分の分を手に取ると、迷わず袖で刃先を拭った。

砂まみれの場所に持っていく道具を、なぜ拭くのか俺には訊けなかった。


掘り始める前に、俺は一度手を止めた。誰が見ているわけでもない。

意味があるのかどうかも、わからなかった。それでもソウはすでに掘り始めていた。

俺は黙って続いた。一時間かけて砂を掘り、その人間を埋めた。

マーカーになるものを探して、割れた配管の破片を地面に刺した。

意味があるかどうかはわからなかった。ソウが提案して、俺がそれに従った。


歩きながら、俺はソウの横顔を見た。


「なぜ埋めようと思った」と俺は訊いた。


「そうすべきだと思ったから」


「誰かに言われたか」


「いや」


「どこで学んだ」


「わからない」とソウは言った。「ただそう思った」


思った。ただそう思った。


その言葉の輪郭が、俺の中で何かに触れた。俺はそれを言語化しようとして、できなかった。



通信設備が復旧に近づいたのは、それから数日後だった。


あとは電源の問題だけだと、ソウが言った。

南のパネル群から直接引けば足りる、ルートの設計は自分がやると言った。

俺は礼を言った。ソウは頷いた。


その夜、俺は眠れなかった。


眠れない理由を考えた。脱出が近づいているからだ、と思った。

それは正しいかもしれなかったが、全部ではない気がした。


ソウのことを考えていた。


食事をしない。疲れない。感傷を持つ根拠を説明できない。

地球に帰りたいか、と聞かれて答えなかった。

家族がいない。俺が来る前からこの火星に一人でいた。


単独でどうやって生き延びていたのか、俺は一度も聞いていなかった。


訊けばよかった。だが今更どう訊けばいいのかわからなかった。

訊いて、答えが返ってきたとして、俺はその答えを信じられるのか。

それもわからなかった。


思い返すと、一度だけ奇妙なことがあった。

俺が「疲れたか」と訊いたとき、ソウは少し間を置いてから「そう言うべきか判断できなかった」と答えた。

疲れたかどうかではなく、そう言うべきかどうか。俺はそのとき聞き流した。

今になって、その言葉の形が引っかかった。


感でわかる、と俺は思った。


根拠はなかった。だが感でわかった。ソウは人間ではない。



朝、ソウが電源ルートの設計図を持ってきた。丁寧に描かれていた。手書きで、数字の位置が整然としていた。


「これで繋げる」とソウは言った。「あとは一人でもできる」


「ああ」と俺は言った。


「送信が繋がったら、救助が来るまで時間がかかる。食料と水の計算もしておいた」と言って、ソウは別の紙を渡した。


俺はそれを受け取った。


「お前はどうする」と俺は言った。


「ここにいる」


「一緒に来い」


「いい」とソウは言った。「お前一人の方がいい」


その言い方が、俺には奇妙に聞こえた。断る理由を言わなかった。

いいと言った。お前一人の方がいい、と言った。


俺はしばらく設計図を見ていた。


「そうか」と俺は言った。「世話になった」


「達者でな」


踵を返して歩き出した。十歩ほど進んだところで、ソウが何かを言った。

小さすぎて聞き取れなかった。振り返らなかった。



南のパネル群まで、砂の平原を二時間歩いた。


設計図の通りに配線を繋いだ。手順は明確で、迷う箇所がなかった。ソウが作った設計図だった。


電源が入った。通信設備のランプが点いた。


俺はマイクの前に立ち、周波数を合わせ、送信ボタンを押した。


「こちら火星第三居住区、生存者一名。応答を求む」


静電気のような音が続いた。しばらくして、応答があった。

声が割れていて聞き取りにくかったが、確かに人の声だった。


救助が来るまで、三週間かかると言った。


俺は了解と答えて、送信を切った。


外に出た。空を見上げた。


三週間。食料と水はソウが計算した分がある。足りると書いてあった。


食料。


俺はその言葉を頭の中で繰り返した。ソウと過ごした二週間を思い返した。

食事をしている場面が、一度もなかった。俺自身の食事も。


いつ食べたのか、と考えた。思い出そうとした。出てこなかった。


眠った記憶もなかった。疲れた記憶もなかった。置いていかれた日、走ったと思っていた。

間に合わなかったと思っていた。だが走ったときの息切れを、俺は覚えていなかった。


警報を聞いた。走った。間に合わなかった。


その記憶の輪郭が、急に薄く見えた。


砂が風に流れて、足元に積もった。


俺は南の方向を向いていた。第三居住区の方向だった。


いつ向いたのか、わからなかった。なぜ向いたのか、理由を探した。見つからなかった。


ただ、そこに向かうべきだと思った。


根拠のない確信だった。感でわかる、と俺は思った。

そしてその言葉が自分の口から出た瞬間、何かが静かに反転した。


俺は歩き始めた。


十歩ほど進んだところで、笑っていた。


なぜ笑っているのか、わからなかった。笑い声は大きくなり続けた。

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