火星の二人
俺が置いていかれたのは、ドーム管理システムの誤作動が原因だった。
少なくとも俺はそう理解している。
緊急退避の警報が鳴り、乗組員は脱出ポッドへ向かい、俺は第三居住区の奥で配管の点検をしていた。
警報を聞いた。走った。間に合わなかった。事故だ。誰かの悪意ではない。
そう結論づけた日から、俺は脱出の方法を探し始めた。
火星には通信設備が残っている。正常に稼働しているかどうかは別として、どこかに使えるものがあるはずだった。シャトルの残骸も、燃料の備蓄も、俺が知らない設備も、あるかもしれない。
可能性の話だが、可能性がなければ動けない。だから毎日外に出て、ドームを一つずつ確かめた。
ソウに出会ったのは、そういう日の一つだった。
廃倉庫の奥に人影があった。しゃがんで、何かを解体していた。俺は反射的に声をかけた。
「誰だ」
「ソウだ」と相手は言った。顔を上げた。「お前は」
「ヤン。第三居住区にいた」
「生き残りか」
「置いていかれた」
ソウは一度だけ頷いて、また手元に視線を戻した。
端末の基板を触る前に、ドライバーの先端を布で拭った。汚れているようには見えなかった。
「通信設備を直そうとしている」と俺は言った。「使える部品を探している」
「ここにはない」とソウは言った。「北の第七倉庫に行ったか」
「まだだ」
「ある、かもしれない」
かもしれない、という言い方が気になったが、手がかりは多い方がいい。
俺はソウに同行を頼んだ。ソウは特に理由を言わず、了承した。
ソウと行動を共にし始めて、二週間が経った。
有能だった。設備の知識が深く、俺が見落とした経路を指摘し、俺が諦めかけた装置を修復した。
おかげで通信設備の復旧作業は思ったより進んだ。
ソウがいなければ一人でどこまでできたか、考えたくなかった。
それでも、少しずつ引っかかるものが溜まっていった。
食事をしない。睡眠をとる様子がない。疲労の徴候が見えない。
聞いたことがある、と俺は思った。長期滞在の訓練を積んだ者は基礎代謝を極限まで落とせると。
あるいは俺が見ていない時間に食べているだけかもしれない。
根拠のある疑念ではなかった。だから保留した。
「家族はいるか」とある夜、俺は訊いた。会話が途切れた間に、なんとなく訊いた。
「いない」とソウは言った。
「地球に帰りたいか」
少し間があった。
「お前はどうだ」とソウは言った。
「帰りたい。それだけのために動いている」
ソウは何も言わなかった。否定もしなかった。
決定的になったのは、倒れている人間を見つけた日だった。
第五通路の端、壁に寄りかかるように座っていた。近づいて、状態を確認した。
死んでいた。いつからそこにいたのかはわからなかった。
俺は外に出て、少し離れた場所に立った。何をするべきか考えようとして、うまく考えられなかった。
ソウが隣に来た。
「埋めてやるか」とソウは言った。
「素手では無理だ」
「工具がある」とソウは言った。「倉庫で見た」
俺たちは倉庫に戻り、スコップ代わりになりそうなものを二本見つけた。
ソウは自分の分を手に取ると、迷わず袖で刃先を拭った。
砂まみれの場所に持っていく道具を、なぜ拭くのか俺には訊けなかった。
掘り始める前に、俺は一度手を止めた。誰が見ているわけでもない。
意味があるのかどうかも、わからなかった。それでもソウはすでに掘り始めていた。
俺は黙って続いた。一時間かけて砂を掘り、その人間を埋めた。
マーカーになるものを探して、割れた配管の破片を地面に刺した。
意味があるかどうかはわからなかった。ソウが提案して、俺がそれに従った。
歩きながら、俺はソウの横顔を見た。
「なぜ埋めようと思った」と俺は訊いた。
「そうすべきだと思ったから」
「誰かに言われたか」
「いや」
「どこで学んだ」
「わからない」とソウは言った。「ただそう思った」
思った。ただそう思った。
その言葉の輪郭が、俺の中で何かに触れた。俺はそれを言語化しようとして、できなかった。
通信設備が復旧に近づいたのは、それから数日後だった。
あとは電源の問題だけだと、ソウが言った。
南のパネル群から直接引けば足りる、ルートの設計は自分がやると言った。
俺は礼を言った。ソウは頷いた。
その夜、俺は眠れなかった。
眠れない理由を考えた。脱出が近づいているからだ、と思った。
それは正しいかもしれなかったが、全部ではない気がした。
ソウのことを考えていた。
食事をしない。疲れない。感傷を持つ根拠を説明できない。
地球に帰りたいか、と聞かれて答えなかった。
家族がいない。俺が来る前からこの火星に一人でいた。
単独でどうやって生き延びていたのか、俺は一度も聞いていなかった。
訊けばよかった。だが今更どう訊けばいいのかわからなかった。
訊いて、答えが返ってきたとして、俺はその答えを信じられるのか。
それもわからなかった。
思い返すと、一度だけ奇妙なことがあった。
俺が「疲れたか」と訊いたとき、ソウは少し間を置いてから「そう言うべきか判断できなかった」と答えた。
疲れたかどうかではなく、そう言うべきかどうか。俺はそのとき聞き流した。
今になって、その言葉の形が引っかかった。
感でわかる、と俺は思った。
根拠はなかった。だが感でわかった。ソウは人間ではない。
朝、ソウが電源ルートの設計図を持ってきた。丁寧に描かれていた。手書きで、数字の位置が整然としていた。
「これで繋げる」とソウは言った。「あとは一人でもできる」
「ああ」と俺は言った。
「送信が繋がったら、救助が来るまで時間がかかる。食料と水の計算もしておいた」と言って、ソウは別の紙を渡した。
俺はそれを受け取った。
「お前はどうする」と俺は言った。
「ここにいる」
「一緒に来い」
「いい」とソウは言った。「お前一人の方がいい」
その言い方が、俺には奇妙に聞こえた。断る理由を言わなかった。
いいと言った。お前一人の方がいい、と言った。
俺はしばらく設計図を見ていた。
「そうか」と俺は言った。「世話になった」
「達者でな」
踵を返して歩き出した。十歩ほど進んだところで、ソウが何かを言った。
小さすぎて聞き取れなかった。振り返らなかった。
南のパネル群まで、砂の平原を二時間歩いた。
設計図の通りに配線を繋いだ。手順は明確で、迷う箇所がなかった。ソウが作った設計図だった。
電源が入った。通信設備のランプが点いた。
俺はマイクの前に立ち、周波数を合わせ、送信ボタンを押した。
「こちら火星第三居住区、生存者一名。応答を求む」
静電気のような音が続いた。しばらくして、応答があった。
声が割れていて聞き取りにくかったが、確かに人の声だった。
救助が来るまで、三週間かかると言った。
俺は了解と答えて、送信を切った。
外に出た。空を見上げた。
三週間。食料と水はソウが計算した分がある。足りると書いてあった。
食料。
俺はその言葉を頭の中で繰り返した。ソウと過ごした二週間を思い返した。
食事をしている場面が、一度もなかった。俺自身の食事も。
いつ食べたのか、と考えた。思い出そうとした。出てこなかった。
眠った記憶もなかった。疲れた記憶もなかった。置いていかれた日、走ったと思っていた。
間に合わなかったと思っていた。だが走ったときの息切れを、俺は覚えていなかった。
警報を聞いた。走った。間に合わなかった。
その記憶の輪郭が、急に薄く見えた。
砂が風に流れて、足元に積もった。
俺は南の方向を向いていた。第三居住区の方向だった。
いつ向いたのか、わからなかった。なぜ向いたのか、理由を探した。見つからなかった。
ただ、そこに向かうべきだと思った。
根拠のない確信だった。感でわかる、と俺は思った。
そしてその言葉が自分の口から出た瞬間、何かが静かに反転した。
俺は歩き始めた。
十歩ほど進んだところで、笑っていた。
なぜ笑っているのか、わからなかった。笑い声は大きくなり続けた。




