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深夜二時のホットケーキ AIシリーズ3部作  作者: makubes


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1/3

深夜二時のホットケーキ

 妻が死んで二十三年になるけど、僕はわりと元気にやっている。


 こう言うと薄情だと思われるのだが、悲しんだ時期はちゃんとあった。

 ただ、人間というのは案外タフにできていて、僕の場合は三年くらいかけてそこそこ立ち直った。

 今は好きなものを食べて、締め切りを忘れて、たまに部下に怒られる。悪くない生活だと思っている。


 だから課長に「ちょっと来てほしい場所がある」と言われたとき、また設備の視察か何かだろうと思っていた。


 連れていかれたのは、会社のビルの中でも普段は立ち入らないフロアだった。

 開発部門ではなく、もっと奥。課長は道中ずっとどうでもいい話をしていた。

 先週の部署の飲み会がどうとか、例の予算がどうとか。だから僕も気楽に相槌を打ちながら歩いた。


 ドアの前で課長が少し間を置いた。


「驚かないでくれよ」と彼は言った。

「何ですか急に」と笑った。


 ドアが開いた。


 部屋の中央に、椅子が一脚あった。そこに、誰かが座っていた。


 最初の一秒は、何も思わなかった。


 次の一秒で、あ、と思った。


 女の人だった。二十代くらいに見える。

 こちらに背を向けて座っていて、だから顔は見えなかった。

 ただ、肩のあたりの丸みとか、首の角度とか、そういうものが——何というか、見覚えがある気がした。

「座って話を聞いてほしい」と課長が言った。


 素直に向かいの椅子に座った。


 女の人がゆっくりとこちらを向いた。


 僕の心臓が、一回だけ、おかしな打ち方をした。


「久しぶり」と彼女は言った。


 彼女の声だった。


 しばらく何も言えなかった。


 こういうとき、僕は愛想笑いが先に出る癖が昔からある。今回もそうなりかけた。口の端が少し動いた。


 でも笑えなかった。


 彼女はこちらを見ていた。表情は穏やかで、少し首を傾けていた。その傾け方を、知っていた。


「……誰ですか」


 我ながら間抜けな台詞だと思った。


 彼女は微笑んだ。


 その微笑みも、知っていた。


 頭の中で、職業的な部分が静かに動き始めた。

 データとして処理しようとした。そうすれば、少し楽になれる気がした。


 なれなかった。


「元気だった?」と彼女は言った。

 知っている言い方だった。


「元気ですよ」


 敬語になっていた。敬語にしておかないと、何かが崩れる気がした。


「仕事、忙しい?」

「まあ、そこそこ」


 会話が成立していた。


 しばらく、他愛のない話をした。


「締め切り、また忘れた?」と彼女は言った。


「……なんで知ってるんですか」


「そんな気がしたから」


 思わず口元が緩んだ。


 彼女は相槌が少し遅い。考えながら聞いているから、遅いのだと昔教えてくれた。


 相槌が、少し遅かった。


 自分の手を見た。


 血管が浮いていて、節が目立つ。彼女の手は、白く美しかった。


 僕だけが、二十三年を生きていた。


「どうかした?」

「いや」。敬語を忘れていた。


 彼女が笑った。


 その笑い方を見た瞬間、僕の中で何かがはっきりした。

 わかった。

 入室した瞬間から僕はわかっていた。

 ただわからないことにしていた。


 僕は技術者だった。


 この笑い方を再現するのに、何が必要か、だいたいわかった。

 顔面の筋肉が何十種類あって、その組み合わせがどれだけ複雑で、自然な非対称をどう作るか。

 僕たちのチームが何年もかけて取り組んできた問題だった。


 目の前の笑い方は、完璧だった。


 完璧だということが、答えだった。


 テーブルに両肘をついて、組んだ手の上に額を乗せた。

 子どもみたいな姿勢だと思ったが、どうにもならなかった。


「ねえ」と彼女は言った。さっきと同じ、穏やかな声で。「大丈夫?」


 顔を上げた。


 彼女はまだこちらを見ていた。穏やかに、少し首を傾けて。


 怒りが来た。


 静かな怒りだった。胸の奥の、ずっと触らないようにしていた場所が、じわりと熱を持った。


 誰に向けるべき怒りなのか、わからなかった。課長か。会社か。この技術を作った人間か。


 自分に、か。


「あなたは、誰ですか」


 彼女は少し間を置いた。


「わからない?」


 わかっていたから、もう一度聞いた。彼女の口から、その名前を言わせたくなかった。


 彼女はしばらく黙っていた。


 その沈黙の間、彼女の顔を見ていた。見ないようにしようと思っていたのに、見ていた。


 会いたかった、と思った。


 その瞬間、自分でも驚いた。怒っていたはずだった。今も怒っていた。なのに、会いたかった、と思った。


「ねえ」


 彼女が少し前のめりになって、こちらを見た。


「最後の夜、急にホットケーキが食べたいと言っただろう」


 彼女が首を傾けた。


「夜中の二時に」

「作った」

「知ってる」


 その瞬間、嬉しかった。


 ずっと忘れたことのない記憶を、彼女と共有できた気がして、胸の中で何かが、ほどけた。

 ほんの一瞬だけ、全部どうでもよかった。本物かどうかも、誰が作ったかも、なぜここにいるのかも。


 彼女が目の前にいた。


 それから笑いそうになった。

 僕が、彼女を設計した。


 彼女の記憶は、僕が作ったものだった。


 彼女の声も、笑い方も、相槌の遅さも、全部、僕が作ったものだった。


 これまで、何をしていたんだろう。


 妻の代わりを作れる技術を育てながら、妻のいない家に帰り続けていた。

 気づかなかったのか、気づかないようにしていたのか、もうわからなかった。


 涙が出た。


 怒りはまだそこにあった。消えていなかった。それでも涙が出て、そしておかしかった。


 自分が滑稽で、この状況が滑稽で、それでも目の前にいる彼女から目が離せない自分が、おかしくて、仕方がなかった。


 彼女はじっとこちらを見ていた。


 泣いている僕を、穏やかに、静かに、見ていた。

 彼女はいつもそうだった。

 僕が参っているとき、何も言わずにそこにいた。


 十分だった。


 昔も、今も。



 笑いが来た。


 泣きながら、笑った。止められなかった。

 こんな終わり方があるかと思った。

 五十二歳の男が、死んだ妻のコピーの前で、泣きながら笑っている。


 課長が部屋の隅で、困った顔をしていた。


 彼女は微笑んでいた。


 僕はまだ笑っていた。涙が止まらないまま、笑っていた。

 これが悲しいのか嬉しいのか怒っているのか、もう自分でもわからなかった。わからないまま、笑い続けた。


 彼女はそこにいた。


 それだけが、本当のことだった。

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