プロローグ(前編)
ばぢ、ばぢ、と、古い木材の爆ぜる音がする。夕焼けのように赫く染まる室内を、煤が踊るように流れていく。震える掌を伸ばすと、それは赤褐色の液体に塗れていた。
「許さない、絶対に」
「ル、……ス……さ、ま、」
「必ず殺してやる、悪魔め」
胸の辺りが、燃えるように熱い。だが、どうやらそれは室内を染める炎から齎されるものではないようだ。俯いた黒髪の男が手にした長剣が、胸の中心を、的確に貫いている。涙が、後から後から、ぼろぼろと零れた。
「ごめ、なさ、」
「喋るな」
伸ばした掌は、俯いた頬に赤黒い線を一筋描いて、ぱたりと落ちた。ゆらり、揺れる漆黒の髪の隙間から、鋭い紅の双眸が覗く。ああ、誰より愛するあなたをそんな瞳にさせて、ごめんなさい。……ごめんなさい、ごめんなさい。繰り返す謝罪は一つも届かないまま、滲んだ世界が遠く、遠くなっていく。
「ロッテ、俺は、」
恨み言を言い募る男を置き去りに、意識は段々と萎んで、やがてすう、と暗転するのだった。
「は、はっ、……はあ、はっ、」
跳ねる起きるように覚醒したアンネロッテは、無意識に己の胸を探る。どくどくと脈打っている事がその証左で、どこにも傷は見当たらない。汗で張り付いた前髪を掻き上げながら、鏡台へと向かう。鏡面の中では、ひどく狼狽した風な、一人の少女がこちらを見つめていた。
老婆のような白髪に、色素の薄い、紫色の瞳。同じく色素の薄い肌は、色白を通り越して、青白くすら映る。今年、十八の歳を迎えたにしては膨らみの乏しい胸元には、やはり、なんの異変も見当たらなかった。
「夢、……? ……なんという、夢なのかしら」
己を抱き締めながら、アンネロッテはその場に蹲った。未だに、冷えた鉄の塊が胸を貫いた感触が、生々しく残っている。両手を染めた、生温い体液の感触も。
「あれは、私の未来? ……いいえ、私に魔力は無いもの」
この世界には、六つの属性を基とする“魔力”が存在している。火、水、風、土、それから、光と闇である。簡単な例で言えば、火属性の魔力を持つものは大小様々な火を起こせたり、土属性の者であれば一瞬の内に高い土壁を築けたりと、自然由来の属性は、その特性に沿った現象を引き起こす事ができるのだ。
そして、光は癒しの力、闇は他人を呪う力、と、俗説ではそう説かれている。ただし、この二点についてはその真偽も定かではない。なにせ、この属性を顕現させる者は、他の四属性に比べ、圧倒的に少数なのだ。
更に、人並外れて膨大な魔力を秘める者に関してはその限りでは無いとも言われている。どの属性にも当て嵌まらぬ、奇跡の力が使えるのだとか。例えば、予知夢など先見の力であったり、重力を操ったりなど、神話の中でしか登場しないような御業を使える者が、世には存在するのだという。
だが、どれもこれもアンネロッテには縁のない話だ。だって、アンネロッテの身体には、凡そ“魔力”と呼ばれるものが、ほんの一滴も流れてはいないのだから。
と、その時、控えめに鳴らされたノックの音が、アンネロッテを現実へと呼び戻した。
「失礼いたします。……アンネロッテ様!? どうなさったのです!? 何事ですか!?」
「ダリア、おはよう。落ち着いて、なんでもないの。……少し、夢見が悪くて」
洗顔用の桶を持って現れたのは、アンネロッテの侍女であるダリアだ。歳は自分と同じ十八。たっぷりとした栗毛は、毎朝纏めるのに一苦労なのだと、いつだか彼女は苦笑していた。
「まあ、それはどのような? けれど、そのように床に蹲っておられてはお身体が冷えてしまいます。さあ、こちらへ」
促されるままに引かれた椅子に腰掛け、桶に両手を浸す。冷えた指先を温めてくれるぬるま湯は、しかし、ダリアが侍女になってくれるまでは凍えるような冷たさだった。
「ふふ、国王陛下と王妃陛下に並んでお説教される夢でもご覧に?」
「え? ち、違うわ」
「でしたら、意地悪なコーデリア様の夢でしょうか」
「もう、ダリアったら。どこにあの子の耳がいるか分からないのよ? 滅多な事は言うものではないわ」
ふふ、申し訳ございません、と、茶目っ気たっぷりに、桃色の瞳が輝く。鏡台越しであっても温かみ溢れるその色が、アンネロッテは大好きだ。
「あら、それは失礼いたしました。では、一体どのような?」
「ううん、なんだかとっても苦しかったような気がするのだけれど、……もう忘れてしまったわ」
本当は、あの生々しい死への恐怖は、この身に張り付いている。だが、そんな妄言を曝し、尽くしてくれる彼女の心を曇らせるのは、本意ではない。
「そうですか、まあ、夢は所詮夢、ですもの。さ、今日もとびきりのご準備をいたしましょう」
重たいカーテンを開けながら、にこりと口角を上げる彼女に釣られるように、アンネロッテもふわりと笑みを洩らす。
「ああ、本日はいいお天気ですね。いかがでしょう、朝食がお済みになったら、庭園をお散歩なさるのは?」
「いいわね、けれど、王妃殿下が、」
「そのくらい大丈夫でしょう。……それでは、サイドアップ、いえ、ハーフアップの方がよろしいでしょうか。アンネロッテ様にはどんな髪型でも似合ってしまうんですもの。私、毎朝悩みが尽きません」
ううむ、と大袈裟に悩む仕草を見せたダリアに、アンネロッテは堪らず吹き出してしまう。一国の王女としてあるまじき、はしたない振る舞いと分かってはいても、彼女のユニークな振る舞いには、つい笑わせられてしまう事もしばしばだ。
「そんな事を言ってくれるのはきっと、この広い世界を探してもダリアだけね」
「いいえ? 世界はこんなにも広いんですもの。まだ出逢っておられない誰かさんも、いずれきっと私のようにアンネロッテ様をお慕いするに決まっています」
自信満々にそう言い切るダリアは、アンネロッテが十五の頃から仕えてくれている。それまでのアンネロッテの生活は、筆舌に尽くし難いほど、悲惨なものだった。
用意された洗顔用の水が氷水のようだなんて、まだ可愛いものである。あえて聴こえるように漏らされる嘲笑混じりの陰口に、平民のような、いや、それ以下の、クズ野菜の浮いたスープや黴の生えたパンで構成される食事。それすらも、きちんと三食摂れない日など、ざらだった。いつも腹を空かせ、がりがりに痩せ細ったアンネロッテを、人々はこう呼んだ。
“幽鬼姫”。それがこのユーグルベルク王国第一王女である、アンネロッテ・ユーグルベルクの蔑称だった──正しく言えば、その呼び名の発端は別にあるのだが──。国王である父は、金髪碧眼。王妃である母は、金髪翠眼。その二人から生まれるべくもない、白髪紫眼で産まれ落ちてしまったアンネロッテは、腹を痛めた実母である筈の母、ミネルバからすら、疎み蔑まれていた。それもそうだろう。自尊心の高い彼女は、アンネロッテがこんな色彩を持って産まれたが故に、周囲の家臣中から不義の疑いを向けられたのだから。
更に、アンネロッテが全くもって王家に相応しくない“魔力なし”であったことも、彼女の嫌悪感を加速させた。王家の者は、その膨大な魔力を次代へ受け継がせるために、優れたそれを持つ良家から妃を娶る。多分に漏れず、現国王は勿論、現王妃も高い魔力の持ち主だった。そんな二人から産まれた、見目にも才覚にも難があるアンネロッテ。
アンネロッテ自身ですら、自分という存在が王家に在ることが恥ずかしくて堪らないのだから、彼女らが揃って罵倒したくなるのも仕方が無いこと。そう、いつからか諦念を抱いている。
だが、唯一の救いは、父である国王、サミュエルは、他の兄妹とアンネロッテに明確な態度の違いを見せなかったことだろうか。とはいえ、彼は生来、無愛想で他人に無関心な質であるから、愛情といえる愛情も貰った記憶はない。それでも、他二人の兄妹も同様であることが、アンネロッテを幾分安心させた。
ところで、前述のとおり、アンネロッテには二人の兄妹がいる。兄である王太子、ジークハルトは、金髪碧眼という、父に瓜二つの容姿、それから性格を持って産まれた。しかし、だから、アンネロッテを守るでも蔑むでもなく、無関心を決め込んでいる。厄介なのは、妹である、コーデリア第二王女の方だった。
コーデリアは、アンネロッテのせいで不義の疑いを向けられ、躍起になった母、ミネルバがやっとの思いで授かった子だった。彼女は母の期待に背かず、彼女に瓜二つの金髪翠眼という美しい容姿で産まれた。高慢な性格も、母そのままに。母の喜びようは、それはそれは大層なものであったという。
ミネルバも、コーデリアも、自分の益や鬱憤晴らしの為であれば、他の誰を傷つけようが構いやしない、という、大変素晴らしい性格の持ち主だった。もちろん、格好の的となったのはアンネロッテだ。そうやって肉親にすら蔑まれるアンネロッテを、使用人らまでもが蔑むまで、そう長くはかからなかった。




