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ろくでもない夢を見た

A Love Supreme

作者: Ono
掲載日:2025/12/22

 天井に知らない老人の顔が浮かんでいた。木目が濡れた布みたいに撓んで鼻先に触れるほど近くに垂れてくる。心臓が嫌な音を立てて、喘ぐように息を吸うと口の中に鉄の味が広がった。

 これは夢。夢だ。

 無理やり布団から抜け出したら夜の畳が足の裏が冷たくて、現実に戻ったことの合図を白々しく示してくる。

 震えそうになる体を押さえて台所でコーヒーを作った。インスタントの粉を入れすぎたせいで苦味が舌をひりつかせる。熱い。湯気の向こうでさっきの悪夢がまだ形を保っていた。

 台所の様子がいつもと違う気がする。……俺はいつの間にお湯を沸かしたんだ?


 廊下の奥に誰かが立っていた。その顔は暗がりに溶けて判別できないのに、彼女の声がはっきりと俺の耳に届く。

『ねえ、見た?』

 スクリーンに映し出された井戸とゾンビと市松人形、どこかで見たような断片が雑に縫い合わされて視界を流れていく。逃げ場はない。

 そっと俺の手に触れた彼女の体温に心臓が跳ねる。細くて滑らかな指が絡みつく。暗闇が映画館に変わっている。

 俺の知らない顔で彼女が笑う。怖いのがどきどきして好きなんだって教室の真ん中で友達と話していた横顔が、今は俺のすぐ近くにある。


 カップを持つ手が震えてコーヒーがこぼれた。染みがじわじわと広がっていく。

 いつも夢の中でこうして何かを失敗していた。今も同じ夢の中にいる。

 部屋に戻って扉を開けると向こう側に彼女がいて、振り返った拍子に彼女の首がありえない角度で折れて――自分の情けない悲鳴で目が覚めた。


 心臓がドラムの連打みたいに響く。まるで至上の愛の「Pursuance」だ。俺の全身は決意の跡の汗でじっとりと濡れていた。

「……最悪」

 それでも窓からは賛美の朝陽が差し込んでくる。目が覚めた。今度こそ本当に目覚めて、現実に戻ってきた。俺は震える手で顔を覆った。

 古今東西の恐怖を闇鍋に突っ込んだみたいな夢だった。


 学校へ行く準備をしながら、思い出したくもない映画の内容を頭に浮かべて反駁する。彼女と話す時に、ちゃんと知的に格好つけて返せるように。

 俺がうっかり恋してしまった隣のクラスの平坂さんは、おっとりした雰囲気に相応しくコアな映画ファンだった。

 友人連中に馬鹿にされるくらい実はラブロマンスが大好きな俺は、正直なところ彼女と釣り合う自信があった。

 だけど勇気を出して話しかけてみると平坂さんは、おっとりした雰囲気からは想像もつかないほどのコアな「ホラー映画マニア」だった。

 そして俺は死ぬほど怖がりだった。幽霊に呪われるよりは愛のために死にたいと思うくらいには。


 俺のことを趣味を同じくする同志と認識した平坂さんは完全なる善意で俺におすすめ映画リストを送ってくれた。

 土日を潰してそれらを全部見届けた俺のことを誰か褒めてくれたっていい。

 鏡を見るのが怖くなった。シャワーを浴びると背後が気になった。夜中にトイレに行くのに親父を起こして怒鳴られた。

 極限状態の中、怖くて、画面を停止するのも変なものが映りそうで怖くて、音量を下げたら聞こえるはずのない音が聞こえそうで怖くて、画面から目を逸らしたら部屋の隅に何かがいそうで怖くて。

 何の対策もできずにまっすぐ恐怖と向き合い続けた。

 愛のためなら死んでもいい。平坂さんと同じ話題に触れたくて、寝る間も惜しんで恐怖を貪った結果があの夢だ。


 きっと身の丈に合わない夢だった。

 あんなに凛として、自分の世界をしっかり持っている彼女だからホラーに揺るがされたりしないんだろう。

 流行りのラブロマンスに現を抜かす俺が彼女の隣に並ぼうなんて。そんな大それた夢の報いが、今朝の悪夢なんじゃないだろうか。


 休み時間に購買に寄ったら平坂さんが友達と話していた。かわいくて爽やかな思春期の女子高生。どうせなら一緒にラブ・アクチュアリーでも見たかった。

「四辻くん! おはよう」

「おっ、おはよう」

 思わずどもってしまったけれど、さも声をかけられて初めて気づいたような顔をして誤魔化した。声が裏返らなかっただけ上出来だ。


「あれ、ちょっと顔色悪い? 平気?」

 心配そうに覗き込まれて、嬉しいのに恥ずかしい。逃げたいのに逃げたくない。怖い夢を見て寝不足だなんて言えるわけがなかった。

「昨日と一昨日で、教えてもらったやつ全部見ちゃって」

「え、ほんと!? すごいね、四辻くん。本当に映画大好きなんだ!」

 まあ、ホラーでなければ、という言葉は声に出さずになんとか飲み込んだ。


 今度感想を聞かせてほしいな、なんて言って手を振り平坂さんは去った。

 まだ「昼休みに」や「放課後に」と約束を取りつけられる仲じゃない。甘さ増量中とかいう紙パックのカフェオレを買って俺も自分のクラスに帰る。

 午後の教室で彼女の笑顔を思い返しながらカフェオレを飲む。もたつく甘さと微かなコーヒーの苦味が腹の中で混じり合った。

 恐怖の本番である夏までに、一緒にホラー映画を見に行ける関係になってみせる。そんなろくでもない夢を見ながら。

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