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狂女――正気に狂気を挿す女

どこかの座敷牢に囚われている『狂女』。

日毎、醒めることのない過去の悪夢に沈められる。

 その女は、正気を保ったまま『狂女』と呼ばれていた。




~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・




 その女は大人しい。

 意味不明な奇声も上げないし、世話人に理不尽な暴力を振るうこともない。

 食事もするし入浴もする。掃除も洗濯も、しようと思えばできる。

 何かしてやれば礼も口にする。

「どこが『狂女』なんですか?」

「すぐに判る」

 新たに世話役に追加された男に、古参の男が答えた。

「この女が狂うには、それぞれ独立した三つの条件がある。

 その一つは日常のことだから、すぐに、嫌でも理解する」

「……あとの二つは?」

「一つは年に一回。

 一つは、こちらが手を出さなきゃ発動しない。

 だから、問題なのは毎日の発作だな」

 そんな話をしていると、女が格子越しに声をかけてきた。

「すみません、本を……」

 女が伝えてきた書名の本を、新参の男は書庫で探して格子の隙間から差し出す。ついでに筆記用具も渡してやった。

「ありがとうございます」

 にこりと微笑む女の(かお)は品があって美しい。静かに椅子にかけて読書に勤しむ様子も、常人以上に『正常』にみえた。

「――あの箱は何ですか?」

 唯一、女が『異状』と思える物。女が常に抱えている、四角い箱。

 それなりに古い物なのか、それとも、女が常時抱えているせいなのか。箱に貼られた緞子(どんす)の白い布は擦り切れ、手垢で汚れていた。

「あれが『条件』だよ」

 古株の男は煙草を吹かした。

「どんな事情があっても、あれには絶対に手を出すな。殺されかねん。

 死んじゃいないが、あれを取り上げようとして眼を潰された奴はいる」

「え……」

「あれに手を出しさえしなきゃ、日に一回の発狂を乗り越えるなり遣り過ごすなりするだけで、あとは大人しくて品行方正な女の見張りだけしてりゃいいんだ。楽な仕事だよ」

「……先輩も僕も『世話役』ですよね?」

「建前はな」

 ふー、と吹いた煙が拡がって消える。

「実際は、女が暴れたときに取り押さえるための実力行使要員だよ。だから『世話役』は男しかいないだろ」

「食事や洗濯なんかは、女性がやってますけど……」

「あれは『世話役』じゃなくて、役割に準じた役に任じられてる。洗濯なら『洗濯役』だし、メシ関係は『調理役』てな感じで分かれてる。

 でも、直截(ちょくせつ)牢内に入って掃除をする『掃除役』や、メシを牢内に持ち込む『配膳役』や『給仕役』は男だろ? 女が発狂して暴れ出した際に制圧できるように、なんだよ」

「そういえば、必ず『男二人以上』で入ってますね」

「常軌を逸した火事場のバカ力は、女と(いえど)も侮れないからな。

 ……っと、『狂女』様が用があるみたいだぜ」

 古参に言われて女を見ると、女は微笑んで、先程の本と筆記用具を差し出した。

「そろそろ時間ですので……ありがとうございました」

「あ、ああ……はい。

 また一刻後にお渡しします」

 女は会釈すると、格子に背を向けて(すわ)り、箱を抱え直した。

「じきに『発作』の時間だ、覚悟しておけ」

 古参は新参の手から本を取り、書庫に戻しに行った。 “後で渡すと彼女に言ったのに、何故わざわざ戻すんだ?” と(いぶか)ったが、すぐに――本当にすぐに、その理由は知れた。


              ・❖・◇◈◇・❖・


 二刻置きの刻の鐘が響く――と同時に、女の様子が激変した。

 びくんと身体を硬直させ、ぶるぶると震えだす。血の気の引いた唇が戦慄(わなな)き、見開かれた目が血走って瞳孔が縮んだ。

 尋常じゃない様子に、新入りは慌てふためく。

「あの――」

「声を出すな、黙ってろ」

 古参も、妙に緊張している。

「目も合わせるな。声をかけるなんて以ての外。

 身動(みじろ)ぎするな、自分は路傍の石だと思え」

 慌てて背中を向けようとした新参を、古参が低い声で叱りつける。

「『身動ぎするな』と言っただろうが!」

「は、はいっ」

 反射的に返事をした新米を、女がぎろりと睨みつける。

 次の刹那、女は髪を振り乱して、格子越しに掴みかかってきた。

「うわっ……!」

 女が放り出した箱が、ガランと大きな音をたてて転がる。

「やめて、やめて」

 女は譫言(うわごと)のように(こぼ)す。

「やめて放して手を離してナンでどうしてナニもしてないでしょうもうやめておネがいだからやめてやメてやメろその子をこロすナぁぁぁっ!!」

「ひっ……!」

 ぎりぎりと腕に爪がくい込む痛みを、女の形相への恐怖が凌駕する。

 さらに伸びてきた手が頬の肉を抉り、そこで古参が動いて、女の手首を掴み、耳元で何事かを囁いた。

 その言葉を聞いた女は、文字どおり豹変すると、いつもどおりの落ち着きを取り戻し――まだふらついてはいたが――投げ出した箱に歩み寄ると、そっと抱え上げた。

「ごめんね……ごめんなさい」

 ほろほろと泣き出した女は、箱を抱えて坐り込む。

「――何もしなくても、四半刻もすりゃ発作は治まる。

 明日からは、さっき言ったように、じっと黙って、目を合わせず、身動ぎもするな。

 そうしていれば、あれは俺たちを認識しない。記憶に呑まれ自責に苛まれて、硬直してるだけで済む」

 古参の男はそう言うと “手当してこい。ついでにさっきの本も取ってこい” と、新参を追い出した。


「あら……ありがとうございます。

 ――頬、お怪我なさったの? まあ、腕にも包帯……お気をつけてね」


 まだ乱れたままの髪の女に声をかけられて、新参は背すじに冷たいものが慄った。




 ―― 続 ――





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