第9話 悪役令嬢と、間抜けな野盗団
「そんな趣味は持ち合わせとらんわーーーーーっ!!」
ワイの悲痛な絶叫が、ゴトゴトと揺れる馬車の中に虚しく響き渡った。
目の前では、ワイの忠実なる仲間であったはずのセレニアが、氷のように冷たい笑みを浮かべ、乗馬鞭をしならせている。
(無理無理無理!絶対無理!ていうか、土まみれの靴舐めるとか、衛生観念どうなっとんねんこのお嬢様は!)
ワイが内心で全力で拒否していると、彼女は「あら、お嫌ですの?」と、心底不思議そうに首をかしげた。
「光栄に思いなさいな。このわたくしの靴を舐める栄誉を、平民に与えて差し上げるというのですから」
「光栄なわけあるかい!」
ワイは後ずさるが、すぐに背中が馬車の壁にぶつかる。リリアは隅の方で、顔を真っ青にしてわなわなと震えている。まさに絶体絶命。
こうなったら、最後の手段や。
ワイは、わざと神妙な顔つきになると、セレニアに向かって芝居がかった口調で言った。
「せ、セレニア様!お待ちください!そのように美しいおみ足と御靴を、このような薄汚い馬車の中でわたくしめの舌に触れさせるなど、とんでもない冒涜です!」
「…ほう?」
セレニアの動きが、少しだけ止まる。食いついたな!
「せめて、月の光が降り注ぐ、見晴らしの良い丘の上…!吟遊詩人が竪琴を奏でる中、あなた様の罰を甘んじて受ける…!そうでなければ、この劇的な場面に箔が付きませんわ!」
「……なるほど、一理ありますわね」
(よし!このまま口車に乗せて…!)
ワイが勝利を確信した、その時だった。
それまで怯えていたリリアが、勇気を振り絞ってわいの前に立ちはだかった。
「せ、セレニア様、おやめください!アレス様は、なにも悪いことなどしておりません!わたくしを、庇ってくださっただけで…!」
その健気な行動が、しかし、最悪の形で裏目に出る。
セレニアは、リリアの言葉を鼻で笑った。
「黙りなさい、小娘。これは、わたくしと、この不埒な下僕の問題ですわ。これ以上口を挟むと、あなたから先に躾けてあげますわよ?」
「ひっ…!」
リリアが恐怖に凍り付く。セレニアはそんな彼女にはもう興味がないとばかりに、再びワイに視線を戻し、鞭を高く振り上げた。
「さあ、覚悟はよろしくて?言い訳は聞き飽きましたわ」
万事休すか!ワイが固く目をつぶった、その瞬間だった。
ガガガガッ!
馬車が、急ブレーキをかけたように、激しく揺れて停止した。
そして、外から、怒声と共に複数の足音が近づいてくるのが聞こえる。
「止まれー!止まれ止まれ!積荷を全て置いていけー!」
最悪の状況に、さらなる最悪が上乗せされる。
扉の外の野盗と、扉の内の鬼。わいの異世界ライフ、ハードモードすぎひんか?
◇
ガタン!と馬車の扉が乱暴に開け放たれた。
そこに立っていたのは、大きな斧を肩に担いだ、大柄な男だった。顔には大きな傷跡があり、燃えるような赤い髪と髭を蓄えている。その威圧感に、馬車の中が凍り付いた。
「ひぃ!で、出たぁ!『赤髪』のゴードン一家だ!」
御者が悲鳴を上げる。他の乗客たちも「もう終わりだ…」と絶望に顔を歪めた。
(前は雑魚っぽい野盗、後ろはガチの鬼…!どっちも地獄やないかい!)
ワイは、背後で鞭を構えるセレニアと、扉の前に立つ野盗の頭目を交互に見比べ、自分の人生のハードモードっぷりを呪った。
そんな中、セレニアだけが、全く動じていなかった。彼女は、突然現れた邪魔者を、心底不愉快そうに一瞥する。
「…なんですの、あなたたち。騒々しいですわね」
そのあまりにも場違いな、冷たい一言に、野盗の頭目の方が一瞬だけ「え?」という顔をした。
だが、すぐに気を取り直すと、彼は斧を突きつけ、下品な笑みを浮かべる。
「へへっ、威勢のいいお嬢ちゃんだな!金目のものを全部置いていけば、見逃してやらんでもねえぞ!」
(やかましいねん、この毛玉…)
ワイは、セレニアに気づかれないよう、こっそりとその頭目を『鑑定』した。
【鑑定結果:表】
名称: ゴードン(32)
詳細: 野盗団『赤髪』のゴードン一家の頭目。膂力に自信あり。強そう。
【鑑定結果:裏】
名称: ゴードン(白髪)
詳細: 自称『赤髪』だが、本当は白髪を薬草で雑に染めている。そのせいで頭皮がカブれており、無意識に頭を掻く癖がある。最近、娘に「お父さん臭い」と言われたのが最大の悩み。見た目より弱い。
その時、威圧していたはずのゴードンが、無意識にポリポリと頭を掻いた。
鑑定結果の正確さに、ワイは確信する。
(うわ、こいつら、ただの間抜けな雑魚や!悩み、思春期の娘を持つオッサンやないか!)
ワイの心の中で、野盗への恐怖は完全に消え失せた。
だが、問題はそこではない。
(こいつらは雑魚やけど、ワイの背後におるお嬢様は、ガチのラスボスや…!下手に動いたら、野盗より先にワイが消し炭にされる!)
ワイが冷や汗を流していると、野盗の頭目ゴードンは、馬車の中を見渡し、最も金を持っていそうなセレニアに狙いを定めた。
「へへ…まずは、そこのお嬢ちゃんから、その綺麗な宝石も、金目のものも、ぜーんぶ出してもらおうか!」
ゴードンが、下卑た笑みを浮かべながら、セレニアに一歩近づいた。
その瞬間、セレニアは、まるで鬱陶しい虫でも見るかのように、ゆっくりとゴードンに視線を向けた。
「お待ちになって」
凛とした、しかし氷のように冷たい声が響く。ゴードンは思わず足を止めた。
「…なんですの、あなたたち。わたくしの『お仕置き』の時間を邪魔するとは、良い度胸ですわね」
「お、お仕置き…?」
ゴードンは意味が分からず、セレニアと、彼女の後ろで顔を引きつらせているワイを交互に見る。
(アカン!こいつ、野盗相手に『お仕置き』の続きする気や!ワイを!巻き込むな!)
ゴードンは混乱しながらも、虚勢を張って斧を振り上げた。
「うるせえ!ごちゃごちゃ言ってねえで、金目のものを出せってんだ!」
その、あまりにも下品な怒声に、セレニアは心底うんざりしたように、はぁー、と深いため息をついた。
「…下賤な者たちに、わたくしの言葉は通じないようですわね。仕方ありませんわ」
彼女はそう呟くと、すっと右手を前にかざした。
詠唱はない。魔法陣も浮かび上がらない。ただ、彼女のてのひらに、制御されていない、純粋な魔力の塊が、バチバチと火花を散らしながら収束していく。
「ひっ…!?」
ゴードンが、その異常な魔力にようやく気づき、怯んだ。だが、もう遅い。
「少し、お静かになさって」
ドンッ!
セレニアの手から、無色透明の衝撃波が放たれた。
それは、洗練された魔法ではない。呪いで歪められた、純粋で、圧倒的な、暴力の塊だった。
「「「ぐえええええええええっ!?」」」
ゴードンも、彼の後ろにいた手下たちも、全員まとめて紙切れのように吹き飛ばされ、街道の地面に叩きつけられて、白目を剥いて気絶した。
「…………」
圧倒的な一撃だった。
御者も、乗客たちも、そしてワイもリリアも、ただ呆然と、目の前で起きたことを理解できずにいた。
ついさっきまで、わいらを絶望の淵に叩き落としていた屈強な野盗団が、美しい少女のか細い腕の一振りで、全員まとめて地面に転がっている。
「す、すげえ…」
乗客の一人が、かすれた声で呟いた。
そうだ、助かったのだ。ワイらは、この恐ろしい少女に救われたのだ。
皆の視線が、畏怖と、そして少しの感謝を込めてセレニアに集まる。
だが、当のセレニアは、気絶した野盗たちには塵ほどの興味も示さなかった。
彼女は、まるでドレスについた埃でも払うかのように、ふっと息をつくと、何事もなかったかのように、再びこちらに向き直る。
その手には、もちろん、あの乗馬鞭が握られていた。
「さて」
彼女は、氷のように美しい、しかし全く笑っていない笑みを浮かべる。
「続きですわよ」
「「「(えええええええええ!?)」」」
ワイとリリア、そして乗客たちの心の声が、綺麗にハモった。
(嘘やろ…!?助かったんちゃうんかい!状況、悪化しとるやんけ!)
絶望は終わらない。むしろ、邪魔者がいなくなったことで、より純粋な絶望が、ワイの目の前に立ちはだかっていた。
万事休すか。ワイが次の人生に思いを馳せ始めた、その時だった。
ワイの視界の端に、気絶している野盗の頭目ゴードンの懐からこぼれ落ちた、小さな革袋が映った。中からは、赤い薬草が散らばっている。
(…あれは!)
ワイは、セレニアに悟られぬよう、全神経を集中させて『鑑定』を発動した。
【鑑定結果:表】
名称: 赤染め草
詳細: 髪を赤く染めるための一般的な染料。
【鑑定結果:裏】
名称: 赤眠草
詳細: 染料だが、強い鎮静効果と睡眠効果を持つ。煮詰めて近くに咲いている『夢見の花』の蜜と混ぜると、即効性の『ぐっすりポーション』が作れる。悪役令嬢にも有効。
(…勝った!)
脳内に浮かんだ「悪役令嬢にも有効」という、やけに親切な一文に、ワイは勝利を確信した。
問題は、どうやって作る時間と隙を稼ぐかだ。
ワイは、鬼気迫るセレニアに向かって、これまでで最高の、引きつった営業スマイルを浮かべた。
「ちょ、ちょいお待ちを、セレニア様!あなた様の手を、これ以上汚させるわけにはいきません!」
「…なんですって?」
「まずは、この度の素晴らしいご活躍を祝し、わたくしめが、あなた様の高貴なる喉を潤すにふさわしい、最高級のハーブティーをお淹れいたします!どうか、今しばらくお待ちを!」
あまりにも突拍子のない提案に、セレニアの眉がぴくりと動く。
「…ほう?よろしいでしょう。ですが、もしわたくしの舌に合わないような代物を出した場合は…分かっていますわね?」
彼女は鞭の先端で、ワイの頬をツンとつついた。
ワイは冷や汗をだらだらと流しながら、必死で頷く。
「も、もちろんですとも!」
こうしてワイは、鞭を構える悪役令嬢の監視の下、そして「あの子、何してんの…?」という乗客たちの生暖かい視線を受けながら、人生で最もスリリングな野外クラフトを始めることになったのだった。




