第4話 公爵令嬢は宵越しの金を持たない
翌朝。
差し込む朝日に、わいは心地よく目を覚ました。
金貨90枚。当面の生活には十分すぎる大金と、セレニアという頼もしい(はずの)仲間。そして、彼女の呪いを解くという明確な目標。昨日までの絶望が嘘のように、わいの心は希望に満ち溢れていた。
「さて、セレニア!起きや!今日はサンヘイブン村への出発日やで!」
わいが声をかけると、ベッドの上のセレニアは「ふぁ…」と小さくあくびを一つして、貴族令嬢らしく優雅に身を起こした。
「おはようございます、アレス。ええ、お天気ですわね」
「おう。ほな、早速準備しよか。まずは路銀の確認と、今日の馬車の手配やな。金、こっちに」
わいが手を差し出すと、セレニアは「はい、これですわね」と、にこやかに例の革袋を渡してくれた。
わいはそれを受け取り…違和感に気づく。
(…ん?軽いな)
ずっしりと重いはずの革袋が、やけに軽い。
嫌な予感がして、袋の口を開け、逆さまにしてみる。
チャリン、チャリン…カラン。
てのひらの上に転がり出たのは、たった3枚の金貨と、数枚の銀貨だけだった。
「…………」
わいの笑顔が、凍り付いた。
わいはゆっくりと顔を上げ、にこやかに髪を整えているセレニアに、できるだけ穏やかな声で尋ねた。
「……セレニアはん。正直に言うてみ? ワイが寝てる間に、何があったんや?」
その問いに、セレニアは「ふふん」と得意げに胸を張った。
「あら、当然ですわ!わたくしたちの新たな門出ですもの。みすぼらしいままではいられませんわ!」
「…ほう?」
「ええ!ですから、わたくし、昨夜のうちに色々と手配しておきましたの!」
セレニアはぱあっと顔を輝かせると、自分の完璧な仕事ぶりを語り始めた。
「まず、昨夜の夕食ですけれど、あのような質素なシチューでは長旅の英気を養えませんでしょう?ですから、わたくしのお気に入りのレストラン『白鹿の腿亭』から、料理長を呼んでおきましたの。鴨のコンフィ、絶品でしたわよ!」
(…あの宿の夕食、結構うまかったんやけどな…)
「それに、旅の服装ですわ!アレスは平民の服で良いとおっしゃいましたけれど、わたくしまでみすぼらしい格好では、クラウゼン家の名が廃ります。ですから、王家御用達の仕立て屋に、最高級の絹を使った旅行用のドレスを注文しておきましたわ。完成は一ヶ月後ですけれど、前金は払ってありますからご安心を!」
(一ヶ月後!?今すぐ着る服や言うとるやろ!)
「そして今日の移動手段!あのような乗り合い馬車では、体が痛くなってしまいますわ。ですから、わたくしの名で、王族が使うものと同じ、四頭立ての豪奢な馬車を予約しておきました。もう門の前で待っているはずですわよ?」
(あかん、目眩がしてきた…)
セレニアはとどめを刺すように、にこっと微笑んだ。
「ああ、それから。昨夜の宿の主人がとても親切でしたから、感謝のしるしにチップを弾んでおきましたの。金貨10枚ほど。良い行いをすると、気持ちが良いですわね!」
「…………」
わいは、てのひらの上の金貨3枚を、ただただ見つめた。
セレニアは、そんなわいの様子に気づき、不思議そうに首をかしげる。
「どうかなさいましたの、アレス?わたくし、完璧な手配だったと自負しておりますけれど…」
わいはぷるぷると震え始めた。
そして、腹の底から、ありったけの声を絞り出した。
「お前はアホかーーーーーーーっ!!!」
わいの絶叫が、王都の宿屋の清々しい朝の空に、高らかに響き渡ったのだった。
◇
わいの絶叫の後、宿屋の主人に平身低頭で謝罪し、セレニアが予約した超豪華四頭立て馬車をキャンセルしに行った。もちろん、莫大な手付金は戻ってこない。
そうしてわいらの全財産は、再び金貨3枚と銀貨数枚という、心もとない額に戻ってしまった。
王都の門の前。わいらは、最も安い料金で行けるという、満員の合乗り馬車に乗り込むところだった。馬車は今にも壊れそうなほど古びていて、荷台に積まれた家畜の匂いが風に乗って漂ってくる。
わいは死んだ魚のような目で、遠い空を見つめていた。
「ああ…金貨90枚…ワイの計画が…。あれだけあれば、馬車ごと一台買って、最高の旅ができたのに…」
「…申し訳ありません、アレス…。ですが、わたくし、皆が快適に旅できるようにと良かれと思って…」
隣でしょんぼりと俯くセレニア。彼女に悪気がないのは分かっている。分かってはいるが、どうしても言わずにはいられない。
「その『良かれと思って』で、ワイらのけじめ金が一日で蒸発したんや!もうお前に金は管理させん!ええな!」
「は、はいですわ…」
そんなわいらのやり取りを、他の乗客たちが「また夫婦喧嘩か」みたいな生暖かい目で見ている。やかましいわ。
◇
そして、旅に出て二日目の昼過ぎ。
退屈で、気まずい空気が漂う馬車の中。ガタンッ!という衝撃と共に、全てが始まった。
車輪が砕け、馬車が立ち往生し、御者が絶望の声を上げる。
一番近い街まで、歩いて丸一日。
乗客たちがパニックに陥る中、セレニアは自分の首筋を押さえ、さっと顔を青くした。
(まずいですわ…このままでは、次の街に着く前にポーションの効果が切れてしまう…!)
昨日作り直したばかりのポーションの効果も、もってあと半日。
彼女が焦燥に駆られている、その時だった。
セレニアの中で、何かがぷつりと切れるような感覚があった。
昨日まで感じていた、アレスに対する感謝や信頼の念が、急速に冷えていく。代わりに、心の奥底から、黒い感情が湧き上がってきた。
(…そもそも、なぜわたくしがこのようなボロ馬車に乗せられ、こんな目に遭わなければならないのですの?)
彼女のしょんぼりとした表情が消え、すっと冷たい無表情に変わる。その瞳には、かつての傲慢な公爵令嬢の光が宿っていた。
ポーションの効果が、完全に切れたのだ。
彼女は優雅な仕草で立ち上がると、腰のベルトに提げていた、護身用の小さな乗馬鞭を、ぱしん、とてのひらに打ち付けた。
「…まったく。こんなボロ馬車に乗せるからこうなるのですわ」
その豹変ぶりに、アレスが「あ?」と顔を上げる。
「なんですの、その目は。平民の子供が、わたくしに指図した罰ですわ。おかげで、このザマよ」
「なっ…お前、何を…」
ビシッ!
セレニアが振るった鞭が、アレスのすぐ横の座席を叩き、乾いた音を立てた。
「うおっ!?危なっ!なんや急に!」
わいが驚いて飛びのくと、セレニアは冷たい笑みを浮かべて、わいを見下した。
「さあ、どう落とし前をつけてくださいますの?このわたくしを、このような場所で立ち往生させた罪は、重いですわよ?」
その姿は、まさしく追放される前の、傲慢で、自分勝手で、そして美しい――「悪役令嬢」そのものだった。
わいは、砕けた車輪と、鞭を構える狂乱のお嬢様とを交互に見比べ、再び天を仰いだ。
「ひゃっ!?」
鞭が空気を切り裂く音に、乗客の誰かが悲鳴を上げた。わいは間一髪でそれをかわし、豹変したセレニアから距離を取る。
「おい、アホ!危ないやろが!」
「無礼な口を利きましてよ、平民!わたくしを誰だと心しておりますの!」
完全に『悪役令嬢』モードに入ったセレニアは、冷たい瞳でわいを睨みつけ、再び鞭をしならせた。乗客たちは蜘蛛の子を散らすように馬車の陰に隠れる。
(やっべええええ!ポーションの効果、完全に切れとるやないか!このままじゃ埒が明かん!なんとかして馬車を直し、次の街でポーションを作り直さんと…!)
砕けた車輪、鞭を構える狂乱のお嬢様、そしてポーションを再作成するという絶望的なミッション。まさに絶体絶命。
だが、こんな時こそ、活路は一つしかない。
「しゃあない…ちょっと車輪を直したるわ!」
「はぁ!?何を言っていますの、あなたは!」
わいは壊れた車輪に近づくと、その残骸にそっと手を触れ、『鑑定』を発動させた。
【鑑定結果:表】
名称: 壊れて使い物にならない車輪
詳細: 強い衝撃で軸から外れ、砕けてしまった車輪。木材は割れ、鉄の部分も歪んでいる。修理は不可能。薪にするくらいしか使い道がない。
【鑑定結果:裏】
名称: 安物の鉄製車輪の残骸
詳細: 衝撃に弱い。近くの森に自生する『マンドラゴラ』の根を車軸の油と混ぜて塗り込めば、一時的に鉄の5倍の強度を持つ『植物性合金』を生成可能。
「よし、修理可能やな」
わいがそう呟くと、隠れていた御者が「何!?」と顔を上げた。
「坊主、治せるってのか!?」
「まあな。ちょっと森で薬草摘んでくるわ」
わいはそう言うと、そそくさと近くの森へ入っていく。
「薬草よりも令嬢をつれていってくれ!」という御者のもっともなツッコミが、背後から聞こえてきた。
◇
森の中は昼間だというのに薄暗く、湿った土の匂いがした。わいはすぐに目当てのものを発見する。地面から、小さな赤ん坊のような手足を持つ、奇妙な植物が顔を出していた。
(こいつがマンドラゴラか…Web小説で読んだ知識通りなら、こいつを引き抜くと…)
わいは念のため、それに『鑑定』を発動させた。
【鑑定結果:表】
名称: マンドラゴラ
詳細: 人の形をした魔法植物の根。引き抜く際に発する強力な音波の悲鳴は、まともに聞くと即死する。そのため、採取は極めて困難で危険を伴う。
【鑑定結果:裏】
名称: 歌好きなマンドラゴラ
詳細: 引き抜く際の悲鳴は、実は助けを呼ぶための大音量の歌。特定のメロディー(アニソンなど、この世界の住人が知らないリズミカルな曲)を歌いながら引き抜くと、悲鳴が心地よいハミングに変わり、殺傷能力がなくなる。 さらに、機嫌が良くなるため薬効成分が1.2倍に増加する。
(うわ、やっぱり即死系かよ、危な……は?アニソン歌わなあかんのかい!一人で!この森の中で!めっちゃ恥ずかしいやないか!)
わいは数秒間、即死のリスクと、社会的な死(羞恥心)のリスクを天秤にかけた。
(…いやでも、死ぬよりマシか!セレニアのためや…やるしかあらへん!)
わいは覚悟を決めると、周囲に誰もいないことを(念入りに)確認し、一つ咳払いをした。
◇
やがて、どこからともなく奇妙な音が聞こえてきた。
最初は、鳥のさえずりのようにも聞こえた。
だが、それは徐々にはっきりとしてくる。アップテンポで、力強く、そして何より、皆がこれまでの人生で一度も聞いたことのない、不思議で高揚感のある旋律…。
それは、歌だった。
「もーえあがれー♪ もえあがれー♪ もえあがれー♪ ア~レ~ス~♪」
「「「…………」」」
◇
「お待たせさん!」
わいの手には人の形をした不気味な根っこが握られており、なぜか満足げに「ふんふふ~ん♪」と鼻歌をハミングしている。
わいが戻ると、セレニアはさらに不機嫌になっていた。
「遅いですわよ、この役立たず!言い訳を聞く前に、まずはその汚らわしい根っこを捨てなさい!」
「これがないと始まらんのや!」
わいは叫び返しながら、平たい石を作業台にし、黒い車軸の油を木のヘラでこさぎ取ってくる。そして、ハミングを続けるマンドラゴラを作業台に乗せ、別の石を振り上げた。
「さあ、始めるで!」
「なんですの、その下品な行いは!やめなさ…」
ゴンッ!
「ぎぃぃぃぃぃっ!」
「ひゃっ!?」
わいが石を振り下ろした瞬間、マンドラゴラが甲高い悲鳴を上げ、セレニアが驚きに肩を震わせる。その隙を見逃すわけがない。
ゴン!ゴン!ゴン!
「ぎぃ!」「ぎぇ!」「ぎっ!」
「なっ…やめなさいと言っているでしょう!」
ヒュッ!ビシッ!
セレニアの鞭が飛んでくるが、わいはそれをひょいと屈んでかわす。
「危なっ!ちょっと待ってや、今ええとこやから!」
「黙りなさい、この無礼者!」
「ぎぃぃ!」「無礼者!」「危なっ!」という三つの声が入り乱れる、地獄のような空間。馬車の陰から覗いていた乗客たちは、鞭をかわしながら何か緑色の物体をこね回している子供の姿を、恐怖と尊敬が入り混じった謎の感情で見つめていた。
わいはセレニアの攻撃を紙一重でかわしながら、緑のペーストと黒い油を必死で混ぜ合わせる。
「うらぁっ!」
わいは完成した『植物性合金ペースト』を両手に掴むと、最後の鞭を飛び越えて、壊れた車輪へとスライディングした。
「くらえや、必殺・リペアペースト!」
べちゃり、と音を立てて、ペーストが車輪の断面に塗りつけられる。
すると、ジュウウウという音と共に蒸気が上がり、ペーストが急速に硬化。砕けた木材と鉄が、見る見るうちに一体化していく。
カチーン!
最後に、そこらの鉄よりも遥かに硬質な金属音が響き渡った。
静寂が訪れる。
「…………」
鞭を振り上げたまま固まっていたセレニアも、隠れていた乗客たちも、再生した車輪をただ呆然と見つめていた。
わいはペーストと油で汚れきった顔を拭うと、息を切らしながら立ち上がり、ポカンとしているセレニアに向かって、ニッと笑った。
「ほら、治ったで。乗るで、お嬢様」
その姿は、修羅場を乗り越えた悪ガキ大将のようだった。
◇
わいが車輪を修理して以降、馬車の中の空気は一変した。
乗客たちは、鞭を振り回す狂乱のお嬢様から自分たちを盾になって守り、さらには奇跡の修理までやってのけたわいを、もはや「神」か「聖人」のように崇め奉っていた。
「アレス様、うちの旦那のイビキが酷いんだが、治す薬草はないかい?」
「アレス君、うちの店の売上が上がるようなお守り、作れないかい?」
「あの、アレスさん!惚れ薬なんて作れたり…」
降りかかる無理難題の数々を、わいは死んだ魚のような目で「知らんがな!」「気合や!」とあしらい続ける。その間も、わいの背後には『悪役令嬢』モードのセレニアが腕を組んで座っており、「チッ…平民どもが馴れ馴れしい…」と冷たい視線で乗客たちを威圧していた。
誰もが、わいの背後に鬼が見えていたに違いない。
そして三日目の夕暮れ、ようやく馬車が目的地であるサンヘイブン村の入り口に到着した。
「アレス様!今回は本当にありがとうございました!このご恩は一生忘れやしません!運賃なんぞ、とても受け取れませんだ!」
御者はわいの手を取り、涙ながらに感謝してくる。わいらは半ば追い出されるように馬車を降りた。
「…ふふっ」
去っていく馬車を見送りながら、隣でセレニアが小さく噴き出すのが聞こえた。
「なんですの、アレス様。すっかり人気者ですわね」
「誰のせいやと思っとんねん…ホンマ、疲れたわ…」
軽口を叩きながら、わいらは改めて村を眺めた。
畑に実っているカボチャは樽のように大きく、道端に咲くヒマワリはわいの背丈を遥かに超えている。作物の一つ一つが、異常なほどの生命力に満ち溢れていた。
と、その時だった。
わいはすかさず、道端の小石をいくつか拾い、近くの井戸から水を汲むと、手早く例の「泥水ポーション」を生成した。
「セレニア、喉乾いたやろ。これ飲み」
「あら、気が利きますのね」
まだ『悪役令嬢』モードの彼女は、わいを顎で使いながらも、素直にポーションを受け取って飲み干した。
すると、彼女の体からすーっと力が抜け、冷たかった瞳に、いつもの穏やかな光が戻ってきた。
「……あれ?」
セレニアはきょとんとして、自分の手の中の乗馬鞭と、ボロボロで薄汚れたわいの姿とを交互に見る。
「わたくし、何を…?アレス?なぜ、わたくしこのような場所に…?それに、そのお姿は一体全体どうしたというのですの…?」
自分の行いを全く覚えていない彼女は、ただただ不思議そうに首をかしげている。
その無垢な表情を見て、わいは三日間の過酷な旅路を思い出し、遠い目をした。
金貨90枚が一日で消し飛び、ボロ馬車に揺られ、挙句の果てには鞭で追い回されながらマンドラゴラを調理した、地獄のような三日間。
わいは、心からの、魂の底からの言葉を、絞り出した。
「…セレニア。お前に一つ、言っておくことがある」
「はい、なんですの?」
「次の街に着いたら、お前に金は絶対に持たせん。水一滴、買うのも禁止や」
「えっ」
「ええな?絶対やぞ…?」
わいの鬼気迫る表情に、セレニアは何が何だか分からないまま、ただこくこくと頷くしかなかった。
こうして、疲労困憊の少年と、何も知らない(そして元凶の)少女の二人は、謎多き村へと、その第一歩を踏み出したのだった。