第2話 希望の一滴と、終わりの始まり
夕暮れの光が、王都の広場を茜色に染め上げていた。
あれほどいた野次馬たちはもういない。婚約破棄という名の公開処刑を終えた王子と聖女が去った後には、心地よいはずの静寂が、今はただ痛々しく響いていた。
ポツンと一人、その中心に取り残された少女――セレニア・フォン・クラウゼンは、わいの言葉に凍り付いていた。
「なっ…!?」
美しい翠色の瞳が、信じられないものを見るようにわいを見開いている。
わいが口にした『呪いの紋章』という言葉。それは、彼女の身体を蝕み、心を苛んできた、誰にも明かしたことのない秘密のはずだった。
次の瞬間、彼女の表情から驚愕が消え、燃え盛るような警戒心が宿る。セレニアはわいから距離を取るように一歩後ずさり、震える声で問い詰めた。
「あなた…いったい何者ですの!?なぜ、それを…!」
彼女の声は怒りに満ちていたが、その奥には隠しきれない恐怖が滲んでいる。
「そうですわ、あなたもあの男の差し金なのでしょう!こんな子供を使ってまで、わたくしをさらに貶めるつもりですのね!最低ですわ…!」
(うわ、めっちゃ警戒されとる。まあ、いきなり秘密を暴露されたらそうなるわな。しゃあない、ここはもう一押し、信頼度を上げるための追加情報開示や)
わいは内心でため息をつきながら、パニックに陥る彼女を落ち着かせるように、ゆっくりと首を横に振った。
「あんたを陥れる気なら、もっとマシな方法を選ぶわ。そんなことより、その胸のブローチ、大事にしとるんやろ?」
わいが指さしたのは、彼女のドレスの胸元でささやかな輝きを放つ、古びた銀のブローチだった。
わいの視線に、セレニアははっとしたように、無意識にブローチを手で庇う。
わいは彼女の目を見据えて、静かに告げた。わいの脳内に浮かぶ『裏鑑定』の結果を、そのまま言葉に乗せて。
「そのブローチはただの銀細工やない。あんたの母親が、病弱やったあんたのために魔力を込めて贈った、特別な『お守り』や。最近輝きが鈍いんは、あんたの呪いが強まってる証拠やで」
【鑑定結果:表】
名称: 銀のブローチ
詳細: デザインは古いが、作りは良い。貴族の少女が持つには少し地味。
【鑑定結果:裏】
名称: 母の祈りが込められた魔銀のブローチ
詳細: 装備者の魔力安定と健康を祈願する魔法が付与されている。呪いの影響で効果が減衰し、輝きが失われつつある。
「…………っ!」
わいの言葉に、セレニアは息を呑んだ。
彼女の鉄壁の警戒心が、ガラガラと音を立てて崩れていくのが分かった。
ありえない。
そのブローチの秘密は、亡き母と自分しか知らないはずだった。父ですら、ただの古い装飾品だとしか思っていない。病弱だった幼い自分を案じた母が、「セレニアがいつも元気でいられますように」と、毎晩祈りを捧げながら握りしめていた思い出の品。
それを、なぜ。
目の前の、名も知らぬ、みすぼらしい少年が知っているのか。
セレニアはわななく唇で、かろうじて言葉を紡ぎ出した。さっきまでの刺々しさは消え失せ、そこには藁にもすがるような、切実な響きがあった。
「…あなた、は…いったい、誰…なのですの…?」
その問いに、わいはニッと笑って答える。
「ワイはアレス。あんたと同じ、理不尽に全てを奪われた、ただのはぐれもんや」
◇
わいに導かれるまま、セレニアは広場の喧騒から離れた大きな噴水の陰へと足を運んだ。夕暮れの光を浴びて水しぶきが宝石のように煌めき、その音が二人の間の緊張を少しだけ和らげているように感じられた。
彼女はわいと、わいが差し出す汚れた小瓶とを、何度も交互に見比べた。その翠色の瞳には、期待と恐怖、そして貴族としてのプライドがない交ぜになった、複雑な色が浮かんでいる。
やがて、彼女は意を決したように顔を上げた。
「…わかりましたわ。あなたを信じましょう」
セレニアは震える手で、それでも毅然として小瓶を受け取る。
「ですが、もしこれがわたくしを辱めるための罠であったなら…末代まで呪いますからね」
それは、彼女が絞り出した最後の虚勢だった。わいはその強がりがおかしくて、思わずフッと笑う。
「ええで。でも、感謝する準備もちゃんとしときや」
わいの言葉に少しだけ頬を赤らめ、セレニアはぎゅっと目を閉じると、小瓶の中身を一気に煽った。
(泥水…ですわ…!)
口の中に広がる、土と砂が混じったようなざらついた味。一瞬、騙されたという絶望が彼女の心をよぎる。
だが、その直後だった。
体の中心から、ぽっと温かい光が灯るような感覚が広がっていく。
そして、長年彼女を苛んできた首筋の呪いの紋章が、焼けるような熱を帯びた。
「きゃっ…!?」
思わず首筋に手を当てる。禍々しい紫色に輝いていた紋章の光が急速に収まっていき、熱が引くと同時に、あれほどくっきりと浮かび上がっていた紋様が、うっすらとした灰色の痣のように薄れていた。
それだけではない。
まるで鉛のように重かった体が、羽のように軽くなる。常に頭にかかっていた霧が晴れ、思考が驚くほど明瞭になる。
世界が、こんなにも鮮やかに見えていたなんて。
「あ…」
セレニアは呆然と、自分の両手を見つめた。
もしかしたら。
今なら、できるかもしれない。
彼女はおそるおそる、祈るように右手を前にかざす。目を閉じ、かつて得意だったはずの、けれど呪われてからは一度も成功しなかった魔力の操作に意識を集中する。
――お願い、動いて…!
指先に、全神経を注ぐ。
すると、ちりっと小さな熱が生まれ、次の瞬間、彼女のてのひらの上に、ぽん、と小さな光が灯った。
それはロウソクの炎ほどの、頼りない、けれど間違いなく温かい魔力の光だった。
「…………魔法、が…」
何年ぶりだろう。自分の意志で、魔法が使えたのは。
その小さな炎を見つめるセレニアの瞳から、堰を切ったように大粒の涙が流れ落ちた。声を殺し、肩を震わせながら、彼女はただ泣いた。それは絶望の涙ではない。暗闇の底で、ようやく見つけた一筋の光に対する、歓喜の涙だった。
わいはそんな彼女の姿を、噴水の縁に腰掛けながら、黙って見ていた。
「な、言うたやろ」
わいは静かに呟く。
「それは絶望やない。希望の一滴や」
◇
セレニアは、てのひらに灯ってはかなく消えた小さな光の残像を、いつまでも見つめていた。失われたはずの感覚、自分の身体の一部とも言える魔力が、確かにそこにあった。その事実だけで、胸が温かいもので満たされていく。
わいはそんな彼女の姿を静かに見守っていたが、やがて噴水の縁からぴょんと飛び降り、彼女の前に立った。
「いつまでも泣いてる場合やないで。ちゃんと調べさせてもらうで」
「え…?」
わいは真剣な目でセレニアを見据えると、もう一度『鑑定』の力を発動させた。彼女の身体の状態がどう変化したのか、その真実を確かめるために。
わいの脳内に、先ほどとは違う新たな情報が浮かび上がる。それを見たわいの表情が少しだけ険しくなったのを、セレニアは見逃さなかった。
「まさか…もう、元に戻ってしまいましたの…?」
彼女の顔に、再び不安の色がよぎる。わいはその不安を打ち消すように、ゆっくりと首を振った。
「いや、そうやない。ただ…」
わいは言葉を選びながら、鑑定結果を告げた。
【鑑定結果:裏】
名称: 『才覚の呪い』(一時的に弱体化)
詳細: 『魔光石』の魔力によって呪いの力が中和され、一時的に効果が抑制されている。効果の持続時間は約24時間。完全な解呪には『月の涙の雫』と『太陽草の花弁』が必要。
「残念やけど、さっきのは完治薬やない。ただの気付け薬みたいなもんや。ワイの鑑定によれば、効果はもって一日…24時間てとこやな」
「そん、な…」
一瞬、セレニアの瞳が絶望に揺れる。だが、わいはすぐに続けた。
「でも、朗報もある。完全に治す方法も、ちゃんと分かったで」
その言葉に、セレニアは顔を上げた。
彼女は濡れた瞳でわいをじっと見つめると、ふぅっと一度息を吐き、乱れたドレスの裾を直し、背筋を伸ばした。そして、まるで宮殿の玉座の前で行うかのように、優雅で完璧な淑女の礼をしてみせた。
「アレス…いいえ、アレス様。わたくしのこれまでの無礼の数々、どうかお許しください」
彼女は顔を上げ、真摯な瞳でわいを射抜く。
「そして…どうか、このわたくしめに、あなたの力を貸してください。この呪いを解くために…わたくしの人生を取り戻すために!」
その姿は、もはや「悪役令嬢」でも、ただの「可哀想な少女」でもなかった。自らの運命に立ち向かうと決めた、一人の気高い女性だった。
わいは少し照れくさそうに頭を掻くと、彼女に手を差し伸べた。
「顔を上げてや、セレニア。当たり前やろ。ワイらは、理不尽に全てを奪われた、はぐれもん仲間なんやからな!」
その手を取って立ち上がるセレニアの顔には、もう涙はなかった。
決意に満ちた、力強い笑みが浮かんでいる。
「よし、決まりやな!これからワイらはパートナーや!アレスって呼んでや!」
わいがそう宣言した瞬間、静かな広場に盛大な音が響き渡った。
ぐぅぅぅぅぅ~~~~…。
音の発生源は、わいの腹の虫だった。セレニアが驚いて目を丸くする。わいは腹を押さえながら、へへっと笑った。
「…と、いうわけでや。タイムリミットが切れる前に、解呪薬の材料『月の涙の雫』と『太陽草の花弁』を探しに行かなあかんのやが…腹が減っては戦はできん、て言うやろ」
わいはセレニアの手を、今度はしっかりと握る。
「まずは情報収集も兼ねて、美味い飯と暖かい寝床の確保や!行くで、セレニア!」
わいの力強い言葉に、セレニアも決意に満ちた表情で頷く。
「ええ、そうですわね!わたくし、もうお腹がペコペコですわ!」
彼女はぱあっと顔を輝かせると、名案を思いついたというように言った。
「でしたら、王都一と評判のホテル『金獅子亭』のスイートルームを押さえましょう!あそこのレストランのシェフは大陸一と名高いですし、ベッドも雲のように柔らかいですわよ!」
「…………」
わいはセレニアの手を握ったまま、動きを止めた。
そして、ゆっくりと彼女の顔を見上げる。
「…セレニアはん?ひょっとして、ワイらが無一文やって話、聞いとった?」
「ええ、もちろん。だからこそ、まずは英気を養うべきですわ。支払いはツケにしておけばよろしいでしょう?クラウゼン公爵家の名を出せば、皆すぐに納得いたしますわ」
悪びれもなく、当然のように言うセレニア。その瞳は一点の曇りもなくキラキラしている。
(あかん、こいつ…マジもんの世間知らずや…!追放された身で家の名前が使えるわけないやろ!)
わいは天を仰ぎ、こめかみをとんとんと叩いた。
「はぁ…。分かった、分かった。まずはお前のそのお貴族様の金銭感覚を叩き直すところから始めなあかんな」
わいはセレニアの豪華なドレスを、頭のてっぺんからつま先までジロリと眺める。
「よし、セレニア。まずはそのドレス、質屋にぶち込んで当面の生活費にするで」
「なっ、ななな、なんですってぇぇぇぇぇぇ!?」
静かな広場に、元公爵令嬢の悲鳴がこだました。
かくして、わいと彼女の長い旅は、一文無しの厳しい現実と、世間知らずなお嬢様の絶叫と共に、波乱万丈の幕を開けるのだった。